2019年2月21日木曜日

創作落語「カタンカタン」

先日勢いで作りました、古典落語「寿限無」をベースとしましたパロディの創作落語です。
アラが目立ちますが、お目こぼしください。



月日の流れというものは早いもの、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」なんてなことを申しまして、ボードゲームの制作者ともなりますと、この時期は、喫緊に控えました大阪のイベントや、5月に控えます東京のイベントなどに向けまして、新作のテストプレイや説明書の印刷などで大忙しとなる季節でございます。

「こんちわー、ご隠居いますかい」
「はいはい、おや、誰かと思ったらはっつぁんじゃないか」
「どうもご隠居。今日はね、ちょいとお願いがあって参りやした」
「ほう、 お前さんがアタシに頼みなんて珍しいね。なんだい?」

 ご隠居が聞きますと、はっつぁんは神妙な面持ちでこう言います。

「実はですね、ウチの長屋、今度ボードゲームを作っちまったんです」
「おや! 自作ボードゲームかい?」
「そうでやす」
「おや、そうかい。どちらのお宅だい」
「へぇ、アッシんところなんです」
「……何だよ自分のところかい。自分のところでボードゲームを作っておきながら『ボードゲーム作っちまった』なんて言い方があるかい。しかしまぁ、オメデタイこったね。そうかい、そういやあとしばらくすれば大阪でもイベントが、ついぞ5月の東京も2次募集が始まったなんてな噂も聞くが、良かったじゃないか」
「へぇ、ありがとーございやす。実は明日が『入稿日』でね、早くしねぇと、ヤのつく人が追ってくるらしいんでやす」
「そいつは物騒な話だねぇ、どこの印刷所だい?」
「隣町の印刷所なんですが、締め切りはとっくのとうに過ぎてるから、今日中に持って来なけりゃ、極道の人が入稿をどうとか」
「……そりゃ『極道入稿』てぇんだよ。あーあ印刷所の人ら、今頃カンカンに怒っとるぞ!」
「あーそれそれ、極道入稿だ。それでカカァと話をしてたんです、名前を付けなきゃいけないってんでね」
「お前さんは今になって、名前もつけとらんってぇのか。」
「ええ、何せ制作はカカァに丸投げだったんでね」
「情けない旦那だよアンタは」
「そんでカカァが、お前さん何もしないんだから、名前くらい付けとくれってんですが、アッシは学がねぇし、さてどうしようかと思ってましたら、カカァがね『じゃぁ横丁のご隠居さん、あの人は物知りでお調子者だから、聞けば何でも教えてくれる、アンタ、ウマイこと煽てて頼んできて』と、こう言うんだ。だからね、ウチのボードゲームに名前付けちゃくれやせんか、頼みますよご隠居」
「はっつぁんよ、その目玉をかっぽじってよーく見るんだ。お前さんは今『誰と』話をしてるんだ?」
「あ、ご隠居だ! カカァも言ってました。当人の前で言っちゃいけねぇって」
「まあいいわい、お前さんの顔に免じて許してやらぁな。でも何かい、名前を付けるってことぁ、アタシがボードゲームの名付け親になるって事だよ。構わないのかい?」
「もちろんでやす」
「そうかい、じゃぁ喜んで付けさせて貰いますかね」
「今度のイベントで喜んでもらえるような、めでてぇ名前なら何でもいいんだ。
 いやね、出来上がる前ぇは、バカ売れして欲しい、世界中で遊んで欲しいなんて思いもありましたが、完成直前のものを見るとンなことどうでもよくなっちまって。へへ、これが親心ってヤツですかね。親ってのは妙なモンだね。とにかくまぁ、買ってくれたお客さんが喜んでくれりゃぁそれでいいと思いましてね。何かそういう名前をお願いしやすよ」
 「ほう、喜んでもらえるような名前な。それじゃどうだろうな。昔からよく『笑う門には福来たる』なんて事を言う。『ボドゲで遊んで笑お!』なんてのはどうだい」
「お、なるほどねー。うん、結構には違いありませんけどね、あっしはテレビなんてなものを見る性分じゃございませんが、どことなく声優業界の方からお叱りの声が届きそうで。他のはありませんかね」
「声優業界の方がこんな会話を聞いているだとは思うまいがね……、まぁいいや、お前さんの気持ちも分からないわけじゃぁない。
 じゃぁどうだろう、実は先日、黄色い潜水艦の中で色々とボードゲームを見せてもらったことがあるわけじゃが、どうだろう、その中で見てきたものをいくつか教えるから、その中からお前さんが気にいったものをそっちで選別して名付けるってのはどうじゃ?」
「お願いいたしやす」
「そうさなぁ、一番人気があったのはカタンだったかのう」
「は、カタンとはなんでやんしょ」
「カタンも知らんのかお前さんは。カタンというのは相手と交渉して資源を獲得し、無人島を開拓するゲームでな、聞くところでは「無人島を開拓する」と「お客さんを買いたくする」がかかって縁起がいいとされとるんじゃ」
「開拓と買いたく……おおそれは素晴らしい、まさに今度の作品にぴったりな名前だ。で、他にどんなものがありやしたか」
「他には、カードゲームもあったかのう、ニムトと呼ばれるゲームじゃ。」
「ニムト、へぇ、そいつぁどんなカードゲームですか」
「ニムトも知らずにボードゲームを作るとはお前さんもたまげたね。牛のカードを引き取らないだけの簡単なルールでな、今度のイベントにぴったりじゃろ」
「流石でございますご隠居。他には何がありますか
「チャオチャオもあったかのう。嘘をつくことも生きていく上で必要という意味じゃからのぅ。昨今は何かと正体隠匿系と呼ばれるジャンルも流行だから、注目されること間違いないぞ。
「チャオチャオ、嘘をつくとエンマ様に舌を入れられそうですが、それも良いですな」
「閻魔さまをインランにしたらバチが当たるぞ!舌は抜かれるんだ」
「他にどんなものがありましたか」
「ラミィキューブもあったかのう」
「ラミィキューブですか。それはどんなものなんですか」
「こちらはイスラエルのゲームじゃが、つい先日、日本人が世界チャンピオンにもなった上に、それよりも強い7歳の女の子が、加古川のボードゲームカフェにいるというもっぱらの評判じゃ」
「おおそいつは縁起がいい!他にどんなものがありますか」
「そうだなぁブロックスなんかどうか」
「ブロックスとはなんですか」
「4人でできるパズルのようなゲームでな、ルール自体も1分で覚えられるから大人も子供もわいわい遊ぶことができるぞ。普通のブロックスの他に、携帯できるブロックスミニや、立体型のブロック3Dなんていうのもあったかのう」
「おおお、それは家族で楽しめそうですな。他にどんなものがあるんでやんしょ」
「子供向けのジャンルなんてどうじゃ。ナンジャモンジャなんてな」
「な、なんじゃもんじゃですか?」
「変な洒落なんぞいらんよ。これは妖精のカードに名前をつけるゲームでな、こちらも大人でも子供でもできる人気のゲームなんじゃもんじゃ」
「ご隠居、言葉がうつってますよ」
「やかましいわい」
「子供でもできる名前は大変ありがたいですな。他にどんなものがありますでしょ」
「スティッキーというのは」
「スティッキーとはこれまたスてっキーな名前」
「シャレはやめなって」
「スティッキーとはどんなゲームですか」
「棒を取るゲームじゃ。これなら3、4歳の子供でもできて楽しいぞ」
「他にどんなものがありますか」
「まだ聞くのかい?そうさなぁ、ブラフはどうじゃ」
「ブラフですか、それはどういったゲームですか」
「嘘をつくゲームでな、これも6人くらいで楽しむことができるんじゃ」
「ブラフでございますか。他にどんなものがあるんですか」
「まだ聞いてくるのかい?お前さんみたいなのを「濡れ落ち葉」ってんだよ。はいてもはいてもへばりついてくるんじゃからの、おお、落ち葉といえばアグリコラというものもあったな」
「アグリコラとはどういうものですか」
「農場を経営ゲームじゃ、国内自給率の低いこの日本、農家のことを日本人が知っておくことは必要じゃろ」
「ほおほおそれは大変すばらしい。他にはどんなものが」
「コリドールというのはどうじゃ」
「コリドールですか。そいつはどういうゲームでやんしょ」
「これはシンプルな2人専用のフランスのゲームでな、言ってしまえば将棋の仲間みたいなもんさ。沖縄にこれを普及させようと頑張っているかたもいらっしゃるそうじゃ」
「それは素晴らしい。他にどういうものがありますか」
「まだ必要なのかい?実はな、今までの中には協力ゲームが足りておらかったんじゃ。パンデミックはどうだ」
「パンデミックですか、どういったゲームでございますか」
「世界中の細菌感染から協力して世界を救うゲームじゃ。スケールが多くてかっこいいじゃろ。中には、パンデミックレガシーなんてな一度しかプレイできないシリーズもヒットしておる」
「パンデミックにパンデミックレガシーでございますか、他にどんなものがあるんでしょ」
「ラブレターはどうか」
「ラブレター、アッシは小中高とボッチで過ごしやしたんで、とんと縁のない名前でやんすね」
「お前さんの古傷なんてなどうだっていいよ。何を隠そうこのラブレターはな、国内のイベントから誕生した作品でな、今や世界中で認められている有名作品であるぞ。日本の作品を名前につけるのはとても縁起が良いんじゃあるまいか」
「なるほど、それはすばらしい。他にどんなものがあるんでしょ」
「お前さんもしつこいねぇ、じゃあこれが最後だ。勉強ができる要素があると教育界からの視点も集まると思うがどうかね。ローゼンケーニッヒはどうじゃ」
「ローゼンケーニッヒはどういうゲームですか」
「ローゼンケーニッヒとはかつてのイギリスで本当にあった薔薇戦争を題材にした2人ゲームでな、これを遊ぶことで歴史も勉強ができるんじゃ、どうじゃ、何か参考になったか?」
「ほうほう、つまり、カタンカタン、ニムトにチャオチャオ、ラミィキューブのブロックス、ブロックミニにブロックス3D、ナンジャモンジャのスティッキー、ブラフ、ブラフ、ブラフのアグリコラ、アグリコラのコリドール、コリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、と、こういうわけでございますねご隠居」
「うむ、適当に使うが良い」
「わかりやしたご隠居、恩にきます。おいら足し算引き算がからっきし弱いんで、いっそのこと、このめでてえ名前、全部入れることにいたしやす。ありがとうさん!」
「おいおいお前さん、全部入れるなんざ正気かい?!おーい!…行っちまったよあのバカ」

とまあ紆余曲折あったわけですが、この作品も世に誕生し、その類いまれなるネーミングからか一躍話題となり、お店で委託販売されるようになります。

「すみませーん!カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、ください」
 
「ありがとうございます、お客様が探しております
カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、は、現在在庫を切らしております。少々お待ちください。他店在庫のツイートを確認します」
「えーと在庫情報、カタンカタンニムトにチャオチャ…あ、文字数いっぱいになっちまったよ…しょうがないな。制作側にアポ取ってみるか」

「すみません。そちらの「カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、現在在庫が切れておりますが、追加発注は可能ですか?」
「え、なんですって?ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、が、追加発注だって!?」
「ちょっとお前さん聞いたかい? ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、が、在庫切れにつき追加発注だってさ」
「何! ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフブラフ」
「ブラフは三回!」
「おお、そうだそうだ、ブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒが!?どれ、ちょいとひとっ走り行って、オレがその空っぽの棚を見てきてやる!」
ドタドタドタ…………
「って何だい、在庫はちゃんとあるじゃねぇか店員さん」
「はい、あんまり名前が長いから、中古が出回っちまった」

お後がよろしいようで

2019年2月16日土曜日

お祭りと熱量の話

駄文を書くことにしたい。

気合が足りない時、水風呂に入る。
真冬の最中、気温が一桁の時であろうとも、さっと入り、サッと出る。
冷えた体を温めようとするのか、血流が良くなり、かえって体は温まる。

水浴びではなく、水風呂だ。水に浸かる。
シャワーなどの冷水では、流石に耐えきれない。
常に躍動する水と、動きの緩やかな水とでは、同じ水温だろうとも、奪われる体温は段違いとなる。
冷水だけではなく、温水でもそう。
ぬるめかな、と感じたお湯も、かくはんさせながら入ると、思った以上に熱を感じてしまう。

詳しい話はサイエンスの先生に預けるとして、ここでは心理の面でアプローチを続ける。

ゲームマーケットが近づいている。大阪の本番まで、残すはあと1ヶ月弱となり、出展されるブースの広報活動もこれから活発となる頃だ。
制作も佳境を迎え、カタログを手に、新しい作品は何かをあれこれと巡らす、これも楽しみ方の一つだ。

私の好きなサークルは「熱のある」サークルだ。

それは、どんな作品であろうとも、自分の作品をこよなく愛するような、そんなサークル様だ。

そして、そんなブースからは見えざる「熱量」を感じる。

先に挙げたように、同じ水であろうとも、絶え間なく流動する水と、停滞を続ける水たまりとでは、自己の体から奪われる熱量が俄然違ってくる。

単に新作・旧作、人気作や広報等といったものではなく、言葉ではうまく表現できないアナログ的な「熱量」を、散策することが好きなのだ。

切羽詰った何か、といった鬼気迫るものでも、自社の作品に絶対の自信を誇るが故の優越感のようなものでも、どちらでもなく、「この作品の魅力を現段階で120%引き出せる人間は、他ならぬ私です!」といったオーラが体の隅々から溢れる人間にこそ、興味を惹かれ、そんな方の作品ならば迷わず購入したいと思う。
それらは中々ツイート上の写真や公式ブログ等では掴みきれない、対面販売ならではの効果とも言える。

ゲームマーケットを「祭り」と例えられる方もいらっしゃる。
私はこの表現が大好きで、祭りならば、各ブースの出展者はさほど大きな利潤を得ることなく、いわば「お祭り全体を盛り上げる意味合いで」参加される(と、少なくとも私はそう考えている)」わけであり、りんご飴を目当てにお祭りへと行かないことと同様に、一般入場者の立場となったならば「買いに来る」が第一義ではなく「そんなお祭りの雰囲気を楽しむ」いわば「ゲームを楽しむ」「買うのはついで」として、ゲームマーケットを楽しむことなのか、と考えている。

熱のあるサークルは、いわば神輿の男衆のようなもので、エイサーエイサーと掛け声の大きな人間に人の目が集中するかのごとく、その作品に注目が集まる。
その人間の人となりなど、少なくとも会場全体では気にとめることなどしない。
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」
お祭りの中では、お祭りを一番楽しんだ人間にこそ神が宿るとされるのだ。

だから私は、今回のゲームマーケット大阪、そして、5月の春、と、誰よりも「楽しむ」ことを主眼に置くこととする。

私の中でのゲームマーケットは、誰よりも「楽しむこと」
楽しむ中で、私の中の「ボードゲーム好き」さらには「ボードゲームのクイズが好き」の気持ちが現れること、他の方の熱を帯び、さらに私の中の熱量が高まること。
etc, etc...。

参加者側としても、出展者側としても、誰よりも楽しめるような、そんな工夫をするべく、これから準備を重ねていきたいと思っている。



2019年2月9日土曜日

深呼吸とアウトプットの話

お疲れのようですね。
肩の力を抜いてリラックス
大きく深呼吸。

深呼吸をテーマに考えることがあった。

先日から昼に「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」DJいか氏のツイキャスライブを拝聴し、時折コラボに入る機会に恵まれた。
その際、いか氏の豊富な経験に圧倒されつつ、何より相手側のいか氏が「経験値だけでは計り知れない、嬉しさを表現する魅力」を秘めていることに気がついた。
いか氏は私に忠告する。
「ボードゲームは楽しむものだ」

この3ヶ月、さらに遡れば、昨年からずっと、ボードゲームの「クイズ書籍」制作に没頭するあまり、ボードゲーム本来が持つ「みんなと楽しむ」一面をないがしろにしてはいなかったか。
昨年の夏、ボードゲーム王選手権で予選敗退の苦渋を味わい、その際もこのブログにて「楽しめなかったことが敗因だ」と猛省するそばから、この体たらくだ。

ボードゲームサークル「万屋楽団」のサンジョウバ氏とお話した際も、こんなエピソードがあった。
「ボードゲーム制作者の集まりで、最初に全員でゲームするんですよ。するとみんなが打ち解けるようになるんです」

この言葉に、私は痛く感銘を受けた。

振り返れば実に当たり前の話で、ボードゲームは誰とでも楽しめる、と、それはボードゲームを数十作も所持される方が一様に口を揃える言葉、のはず。
しかるに、これまで自分は、各種職場内外のビジネス、プライベート等の席上はおろか、近隣で参加した各種ボードゲーム会やボードゲーム関連のイベント等においても、それらが積極的に活用できていただろうか、と内省する。

ボードゲームの楽しみ方、それは先の講演の席で草場純先生も「人により多くの楽しみ方がある」と話された。
その言葉に甘んずるわけではないが、ボードゲームが本来得意とする「ほかの方、特に初めてお会いする方とも分け隔てなく打ち解けることができる」という一面をないがしろにし、自分にとって都合良く、言うなれば、自己のやり方に(半ば強引に)顔を向けようとする、
それで本当に良かったのだろうか。


深呼吸。
大きく吐いて、吸う

思うにこの「深呼吸」という動作は、「呼吸」「呼んで(息を吐いて)吸う」と表記する。
耳学問で恐縮だが正しい深呼吸も「まず肺の中の汚れた空気を一旦外に押し出し、新鮮な空気を体内に取り入れる」動作だという。
吸って吐くのが深呼吸、ではない。ということか。

ボードゲームを楽しもうと躍起になるあまり、購入することばかりに精を出し、面白さを自分の中だけに内包したままの状態こそ、まさしく先の「間違った深呼吸」そのものと言える。
そうなるからこそ、先のサンジョウバ氏との会話に登場した「ボードゲームでアイスブレイク」という「基本基礎」を、つい置き去りにしてしまったのではないか。


まずは自分の中の概念を一旦「アウトプット」し、アウトプットする中で、次第に必要にかられた部分を都度「インプット」する。
効率の順番として、私は逆進していたのだ。

先日から開催中のPOO松本氏による「デザイン講義」を受講中にも、その事実をふと思い起こさせる場面に遭遇した。

「自分好みのデザインを模倣、コピーすることは間違いなのか、成長につながらないのか」
この問いに対し、氏はこう答えた
「自分の個性を探る、見つけるためにもまずは一度模倣してみよう。絶対に完コピできないから安心」

自分の気持ち、想いを表現する為には、
まず「創作したいという気持ち」を持つこと(息を吐く)

周囲の書籍から、自分がやりたい方法を見つける(息を吸う)

多くの作品から模倣し、自分の言葉で表現する(息を吐く)

作品の良いところを取り入れる(息を吸う)

それらを周りに披露する(吐く)

評価を受ける(吸う)

フローチャートで表すと、これまで「成長する」という数値化の難しい行為が自分の中だけでも可視化でき、自分の中の「暗中模索」が続くこれまでの制作過程に、一筋の光明が差した心境だ。

この循環が滞ってしまうと、進行する大元が揺らいでしまい、先の「ボードゲーム本来の持ち味」が頭から抜けてしまいかねず、最悪、脇道に逸れたまま我が道を進む憂き目となる。

呼吸する、すなわち「適度のインプット、アウトプット」で、循環を良くする。
体内の循環を良くすることで、悪い空気が体外に排出されるとともに、次第に自己の許容量を超えるほどの実力も知らぬ間に身につくのだろう。

焦ることはない。
今できることを一つづつこなせば良い。

ゲームマーケット大阪、私は「ボードゲームのなぞなぞ本」を頒布する。
思い返せば3ヶ月前の12月、「こんなこといいな、できたらいいな」という他愛もない気持ちのアウトプットから芽吹いた本である。
書籍を買い込み、問題を作り続け、デザインにも目を向け、イラストも描き、アイコンを作り、果ては、さしもの評価のない4コマ漫画まで毎日執筆するようになった。

小さな吐息が、大きな呼吸へと様変わりした、と、カッコ良く言えばそうなるだろうか。

少々体に鞭を打ちながら制作を続けたが、その「夢の実現」までいよいよ完成間近。
本番の3月10日まで、残すところ約1ヶ月を切った。
カタログや手引きなども届き、今後は各制作者による広報、情報戦も幕を開けることとなる。

私は、私なりのやり方で、焦って息を吸う、すなわち周囲の情報に翻弄されることなく、己が身でできることをひとつひとつ「アウトプット(表現)」し、その都度必要な情報を脳内にインプット(仕入れ)ていくことにしたい。


とはいえ、まずはゆっくりと、深呼吸、そう、アランの幸福論でも讃えられた「お腹に新鮮な空気を送り込み、精神をリラックスさせる」という本来の意味合いで、ゆ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っくりと、進行できたらと思う。

2019年2月1日金曜日

笑顔のゲームが好きなのだ〜ニュアンスで表現した諸々の話〜

新刊の話で恐縮だが、今回の表紙には、少々「こだわり」を表現した。

これまで頒布した拙著Board Game Quiz、こちらは「不要なものを極力排除しよう」と進めていった。
その一つが「難易度の表示」だ。
「この問題の難しさは五段階の3~4」など、クイズ番組風に表現することもやぶさかではなかった。
しかしながら、クイズ本としての面白みを前面に押し出すと同時に「読み物としての面白み」をも削ることとなる。
できれば多くの方、とりわけ、クイズに抵抗のある方にも手にとって欲しい
そんな思いから、明確な難易度の表示を避けることにした。

その代わり、ニュアンスで伝える「曖昧な表現」により「この問題は難しい」を表現することにした。
いくつかの技法を駆使したが、そのうちの一つが「色彩による区分」だ。




上巻の表紙は薄い青。軽く、明るい。
幼さ、青空、晴天、等を生起させる。



一方で下巻は暗く重い紫。
重厚さ、博識、額のある、等が連想されるのではないか。

もちろんニュアンスはあくまで「補助」に過ぎず、きちんと「難易度中~高」といった明確な表記で補完すべきだった点、反省する。

秋の新刊NEXTAREAでは、さらに一歩踏み込み、登場人物に「妖艶な女性」を登場させ、クイズそのものの「不可思議な世界観」を表現することにした。


試行錯誤の末、ギリシャ神話の「エキドナ」をモチーフとし、ページの随所にキャラクターを配置させることとした。


そして今回、ゲームマーケット大阪の新刊、である。

クイズ本来の「知識同士の真剣勝負」から一転し「柔軟な思考が問われる」どちらかといえば「楽しさを前面に押し出す本」をニュアンスとして押し出す必要性に駆られた


ならば表紙の主軸はどうだ、キャラクターも一新するべきではないか。

ウンウンと唸りながら試行錯誤を重ね、ようやく表紙が完成した。


前作のエキドナを踏襲、頭身を下げ、より親しみやすさを高める配置とした。
ちなみにキャラクター名は「パンドラ様」と名付けている。

表紙全体のイメージは「おもちゃ箱」
ボードゲームの箱に詰まった「ワクワク、ドキドキ」、そんな楽しさを持つ本です!と表現しているつもりだ。

そして、パンドラ様は「笑顔」を描くことにした。

前回描いた「妖美な女性」とは一転し、笑顔で元気いっぱいの女性、その上、イエローが主体のまさに「パワフルさ」が全面に現れた本。
「難しそうとか考えないで、一緒に遊ぼうよ!」
今回のなぞなぞ本で最も主張したかったそんなメッセージを、あくまで文字ではなく「ニュアンスだけで」表現できたのではないか、と。考えているが、どうだろう。

以前も話題にあげた「ノンバーバルコミュニケーション」。人間は文字だけ、会話だけでは全体の55%しか内容を伝えきれない、相手の表情や言葉遣い、態度等視覚、聴覚等の情報で判断する、という。
ならば最も重要なことは「文字はあくまで補助手段」ではないかと考え、画面全体から伝わる「楽しさ、面白さ」をいかに表現するか、を主軸に、色彩や「おもちゃ箱から連想されるもの」を表現することにした。
帯の部分でニュアンスの補完ができたのではないかと考えている。


そして何より
改めて自分は「笑顔の生まれるボードゲームが好き」だと気がついた。

真剣なゲーム、面白いゲーム、笑える馬鹿なゲーム、重厚さが売りのゲームetc…
そんな中で自分が心惹かれる作品は「笑顔を育む作品」だったことに、改めて気がついたのだ。

プレイ中であれ、その後であれ、同卓を組まれた方相互で笑顔の生まれるゲームがプレイできる時間こそまさに至福に感じ、言うなれば、自分が行き着く作品の果てはその辺りに潜んでいるのかと画策するのである。







2019年1月25日金曜日

軽くて重い「第一歩」の問題 ーやりたいことを阻害するものって何?ー

ボードゲームをテーマに、なぞなぞの本を作ろうと思い立った。
イラストの練習も始めた。
急な思いつきで、北海道へ、沖縄へ、と飛んだ。
年末には念願の電子書籍も出版した。
最近になって、4コママンガも描き始めた。

先日のツイキャスライブにて、「おしゃべりサニバ」MCのすながわ氏に「きっかけは何ですか?」と問われ、ふと、手が止まった。
何だったんだろう、きっかけ。
自己技量の研鑽だの、あわよくば宣伝媒体に、など雑多なことは言えるだろうが、そのいずれもが本質ではない。
一つ言えることは、すべて「思いつき」で始めたことだ。
ある種の「ノリ」のようなものかもしれない。
この「ノリ」という言葉は、婉曲して「ふとしたはずみ」や「勢い」という言葉に置換される。

軽く始めた、しかるに決して「なんとなく」ではない。
「なんとなく」では「片付けられない」。
たとえ無意識化の行動だったにせよ、そこには何かしらの「理由」が存在するのだ。

気軽に始めたからこその利点がある。
初めて気がついたことだが、物事を始める理由なんて、正直、どうだっていいのではないか。
何だっていいのだ。
金銭的な面でも、感覚的なものでも、何でもいい。
それでも気が引けたり、尻込みしたりする気持ちは何だろう。
例えそれが、相手にも自分にも必ずプラスとして帰ってくることであったとしても、つい躊躇してしまう、あの胃の奥から喉元に押し寄せる感覚って、何?
色々と着手するうちに、それら事象の根源を自分なりに悟り得た。

ひとつに「失敗の恐怖」だ。

一歩踏み出すにあたり最大の敵、それは自分にとって「己の心」であり、ひいては「周囲の声」である。
失敗それ自体は、案外、恐れるに足らない。
元来生き物とは「師から教えを被る」より「自ら学び体得する」ようDNAが組成されている。
人間に限らず多くの生き物が、親の教えを享受しつつ「自ら体得する」。
「百聞は一見に如かず」、その言葉の先は俗に「百見は一行に如かず」と続くとされる。
失敗を重ね、実際に己の身で体得することで、自己の記憶や能力が開花し、経験を自らの血肉とするのだろう。

「失敗は投資」
多くの成功者がそう語る。

事実、始める前にあれだけ不安だった事実が、始めてみると思いの外スムーズにことが運んだことも意外と多かったのではなかったか。
「案ずるより産むが易し」
我が国には先人が残したことわざだってある。

もうひとつ、それは「周囲の目」だ。

「お前には無理」といった根拠のない否定は元より、「きっとこうだろうから無理」といった否定的な予測、「過去にこうだったから」などデータを後ろ盾にした忠告など、枚挙にいとまは尽きない。
高度情報化社会、老若問わず多くの人間がフラットな目線で発言できることが、こうした弊害をも生み出したのだろう。

どんな声であれ、外野の声は、薬にも毒にもなり得る。
思うにそれは精神衛生に大きく左右され、元気な時、悲しい時に応じ、自己の体に上手く処方することが重要なのだ。

周囲の冷たい目線は、行動する己の心でさえむしばむ。
自己の能力に自信を持てない、やってどうなる、周囲からどう思われる…。
そんな気持ちに支配されると、結果、自分の気持ちが「誰かがやってくれるはず」に帰結する。
「(自分より能力の上回る)誰か」、掘り下げると「(メリットも多いだろうけれど、加えて、厄介な面倒ごとも多くなるだろうから、それらを一手に引き受けてくれるスーパーマン的な)誰か」。
そんな「存在するはずのない「誰か」」に期待をかける。
コスパなんて言葉を使いたくもないけれど、作業量の差し引きを考えると、ポンとお金だけ出して厄介ごとが片付くほうが「遥かにコスパが良い」
努力で成し得たものは、見る人からすれば非常にコスパの悪い方法とも言える。

まとめると、
これまでの周囲の環境、生活基盤、等々、様々なしがらみ、加えて自己の経験則が「第一歩目」を阻害している。

これまでの人生経験で培われた、自己の判断が故に、こちらの壁を取り払う行為が実に難しい。

では、読者の方が一番気にするであろう
「それら全てをかなぐり捨ててまで、真に得られるもの」
とは?

正直、私自身が成功者と呼べる人間ではない為に、その先の「得られた果実」について正確な記述を行うことができない点、了承願いたい。
しかるに、一点だけ、確実に言えることがある。
ストレスが大きく削減されたことだ。

第一歩目からの再出発
いわば、それまで肩にのしかかった重荷を一旦下ろし、新たな積荷を背負って歩き出す行為だ。
プラスマイナスだけで換算すると、ゼロとなる。
しかしながら、それまでについた筋力や先を読む脳内の経験値の総量で、それらは決してゼロ発進でないはず。

何より、やりたいことをやっている時間は純粋に「楽しい」
会社で、部下・上司・同僚らの目線を気にすることなく、自分のやりたいことを、好きな時間に好きなだけできることは、やはり楽しい。


先日描いた落書き。数ヶ月前、イラストなんて丸に棒の人間しか描けなかった自分。
この程度の稚拙なイラストであろうとも、数ヶ月前の自分には決してできなかったことだ。
そう考えると、自分自身に「お疲れ様!」とエールを送りたくなる。
気持ちの共感があると、その喜びはひとしおだ。
ツイッターなどで「イイね」をもらうだけで、その喜びは何倍にも増幅される。
かっこいい言葉を言える義理ではないが、見るものを幸せにする蝶々も、その前は見てくれの悪いイモムシやさなぎの過程を経て成長したような。

おそらく私の周囲に存在する「やると決めたら即実行できる人」とは、これら「周囲の声」「己の心」などの障害をあっさりクリアできた先の「喜び」「楽しみ」を知り得る人間ではないかと考える
「ボドっていいとも!」パーソナリティの翔さん(@syousandesuyo)がパッと思い浮かんだ。

有言実行。
楽しいことは、なんでもやろう、いや、やります!
楽しいこと、できることをし、自分の内面を外と対峙させるうちに、次第に理解者も生まれ、今まで混迷していた「自分の姿」「自分の行くべき道」も見えてくるかもしれない。


そんな私を見かねてか、podcast「いかラジ」のいか氏からアドバイスを頂戴した。
「自分ができたから満足、くらいが丁度いい。」

私の次の目標
それは「年内中にpodcastを更新すること」だ。
いかさんや、すながわさんらをゲストに呼び、楽しくおしゃべりすることを最終目標に掲げたい。
生命の続く限り、頑張りますとも。

自らの意思が、強固であるほど
様々な試練に苛まれるものだ。
無論、試練を目前に避ける事も出来れば、
逃げる事もできる。
だが、試練の真意は、
そんな己の心を克服することにある。

(「斑鳩」Chapter2、試練ーTrialーより)


2019年1月19日土曜日

人は、誰かになれる。-沖縄旅行記 後編-


沖縄旅行記、前編はこちら>https://hibikre.blogspot.com/2019/01/blog-post_18.html




沖縄旅行、二日目。

曇天模様の空はひんやりとした海風を運ぶ。
気温13度、想像しづらいだろうが、南国といえど、冬場は寒さを感じ得るのだ。
念には念を、と持参したパーカーがきちんと役割を果たすとは。




旅の目的である、昨年のゲームマーケット秋にてお手伝い頂いた「たまご」さんと逢う。
多忙な業務の傍、時間を縫って駆けつけてくれたのだ。
人望の厚さと、持ち前の豪快さ、一方で、説明の繊細さなど多くを併せ持つ、言うなれば「ワイルドカード的」存在だ。

私個人たっての希望で、海を見に行く。




沖縄の海は淡く、広大。
白い砂浜に透き通った水辺では、この時期も数名の海水浴客が戯れていた。
「幸福論」のアランは悩んだ時、海を眺めたという。
さざ波の音は耳に脳に心地よく、多くの詩人が「優しさと雄大さを運ぶ」と表現した、その一片を私も汲み取ることができた。

沖縄本土全体に漂う独特の「のんびり」としたムードを、「沖縄時間」と表現するのだとたまごさんは教えてくれた。
腹が空いたら飯を食い、眠くなったら眠り、遊びたくなったら歌い踊り、少し前に見かけた「経営者がその時間で金を稼ぐよう持ちかけ、その稼いだお金でどうするのかを問われたら「毎日食べて寝て踊るのさ」」と答えた、あの笑い話をふと思い出した。

ルーズ、というわけではない。
察するに、高い必要性を感じないのだろう。
あくせくするな、のんびり生きよう。
それが人間らしく生きる、本来の在り方なのだ、と。

一方で、島国という特性上、新しい文化、新しい情報を積極的に取り入れようとする側面も見られる。
そのためか、遠方のお客様を熱く歓迎する文化が敷かれており、いわば「お客様が何よりのご馳走」と言わんばかりに、私のような来客を多くのご馳走でもてなしてくれた。

北海道の地でも触れた「楽しさを追求し、楽しさの髄を集めた文化」然り、(例えば節分豆を落花生で行うなど)その土地土地の「文化」と呼ばれる背景には何かしら「住む人間の人柄、土地柄」が根付くものだろう。

昨日お邪魔した「カッパのお城」様でも、店主が積極的に「見知らぬボードゲーム」をお客である私に勧めてきたことが、嬉しくもあり、何と無く不思議でもあった。
これもその「沖縄」という土地柄が持つ「楽しいことはどんどん提供しよう」といったおもてなしの精神に基づくものかもしれない。
「めんそーれ(沖縄の方言で「ようこそ」の意味)」とは、まさに沖縄ならではの言葉だ。

昼はちゃんぽんをいただく。





リンガーハットでおなじみの麺を想像したが、沖縄のそれは、野菜炒めを卵でとじたものをご飯の上に乗せたワンプレートランチだ。沖縄ではこちらが一般的だという。
醤油ベースの濃い味付けがご飯にマッチし、食の細い私もかなり食がすすむ。




腹も膨れ、一路「サイコロ堂」様へ。
ゲームマーケットでは都内「コロコロ堂」様とコラボ、年始には価格を大きくオーバーする内容のボードゲーム福袋を販売し話題となった、県内有数のボードゲームショップ・カフェだ。



所狭しと並ぶラインナップは、店内の他に別の倉庫にもストックされていると伺った。
不朽の名作から、最新作のLift OFFまで、先の沖縄時間も相まって、店内は何時間となく過ごしたくなる雰囲気だ。

訪れる常連客も、ボードゲームを遊びに、というよりむしろ「気さくで明るい店長との他愛もない会話」を楽しんでいるように見られた。

これまで各種ゲーム会やカフェにて「定められた時間を最大限楽しもう」とガツガツ多くのゲームを取り出す姿勢だった自分にとって、サイコロ堂様のまったりとした雰囲気は自戒の念すら覚えた。

たまごさん、途中から現れた時化さんらを交え「ギズモ」をプレイ。

緊張と疲れでつたない説明となってしまったことを、この場を借りて謝罪申し上げたい。
しかしながら、さすがインストのプロを誇るたまごさん、説明のプロは聞き手としてもプロフェッショナルであり、私の穴抜けばかりだった説明をきちんとプレイできるまで補足していただいた。
もちろんゲームの内容を一番理解できたであろうたまごさんが勝利をさらっていったことは言うに及ばず。




昨夜も披露したマムマムマーガレットは小洒落た店内でも見栄えし、多くの方の目を引く。
ハンドメイドを手がける方にもプレイしていただき、その丁寧な装飾と、細部にまでこだわったゲーム性に終始感服されたご様子だった。


次に、時化さんお手製のコリドールで対戦する。
時化さんには話していなかったが、実はお邪魔する前に、かなり攻略法を研究していたのだ。
つい立ての置き方と、先読みの方法など、個人的な研究が功を奏し、序盤は優勢に駒を進め、また向こうを上手く妨害できたつもり、だったはずだが、やはり「コリドール普及委員」を自称する相手が数枚も上手、実に一手差で無念の敗北を喫する。
「生兵法は大怪我の基」と先人は上手く言ったもの。次こそリベンジを誓う。


他にも「41」(トランプゲーム)など。
トランプや紙ペンゲーム、ダイスゲームは「いつでもどこでも誰とでも」といったアナログゲームの汎用性の高さも相まって、私は多くのゲームカフェで披露する。


夕刻となり、次はもう一軒のゲームカフェ「五郎茶屋」様へ。



海外から国内作品までこちらも数多くの作品が集う五郎茶屋様では、この年末もクイズや音楽など多くのイベントで盛り上がりを見せた様子。
店長も美麗で明るく知的な方で、多くの作品に自ら興味を示し、先日も単身東京のカフェ様を訪問に訪れるなどパワフルな一面を併せ持つ。

常連のお客様は「いろはことば」をプレイ中。制作された「サイタニヤ」様もこちらに訪れたのだとか。

五郎茶屋様では私個人の作品を主に披露する。

まずは「おさかな小石」
LOGOS社のカードゲームで、最近まで絶版が続いていたが、最近になり、ようやくすごろくや様から再販が発表された。
対面となり、池の魚を効率よく釣ることが目的で、軽さとジレンマがうまく合わさった、昨年の上半期、私のベストゲームに上がる作品だ。

次に拙著「ボードゲームクイズ」を。
先日のクイズ会での「優勝者」、「問題製作者」、「主催者(店主)」、「たまごさん(インストプロ)」の巴戦となり、勝負は一問ごとにパネルの争奪戦となる、かつてない激戦を呈する。
僅差でパネルを獲得した店主が逆転で勝利をもぎ取る形となった。

もうひとつ「ゲーム音楽かるた」
ゲーム音楽でプレイするかるた、と表題そのままの内容で、かるたで勝負する横軸と、音楽を聴く縦軸の両側面を楽しめる作品である。
マリオからAIR、スプラトゥーンからねこあつめまで新旧取り揃えている点が手前味噌ながら自慢だ。
傾向として「ゼルダ」「ファイアーエムブレム」の札が取られにくく、「AIR」「サクラ大戦」の札が瞬時に取られる傾向にあったのかな、と雑感する。

店内で注文した「ホットのさんぴん茶」が絶品で、鼻にスッと抜ける香りが心地よかったので、来店の際は是非ご賞味あれ。

ホテルに戻り、この二日間を振り返る。

明るい店内、気さくな店長。
それらに集うミツバチのごとく、沖縄の各カフェでは多くのお客様が、ボードゲームカフェという場で「ボードゲームカフェという空間」を楽しんでいるかの印象を受けた。

それらは先に挙げた沖縄の風土が持つ、時間の流れ、県民性、そして何より、店主の人がらによるもので、「ゲームカフェでボードゲームをする」といった縛りのゆるさが程よく内包されているのだろう。

働きたい時に働き、食べたい時に食べ、休みたい時に休む。
それらを寛大に受け入れ、包み込み、決して表舞台に出ることなく、常に影で見守るような、言うなれば、沖縄に群生する大樹の如き存在。
それこそが沖縄のゲームカフェだったのか、と考えた。

ガジュマルに代表される沖縄の大樹は、幹も低く、自ら大きく存在を誇示することこそないが、それらは長い時間をかけ、大きな枝葉を為し、新たな影を作り、新芽が息吹き、鳥を呼び、次の世代へとその幹を為し得て行く。

カッパの城、コロコロ堂、五郎茶屋、三者三様、各々が持つ独自の形で沖縄のボードゲーム界隈を、傍らで見守りながら盛り上がりを支えていたような。
そこに新たな「ボードゲームカフェの存在とあるべき姿」を垣間見た気がした私は、疲労する身体の中、心だけがすこぶる弾んでいたのだった。


最終日。

初日から姿を見せることのなかった晴れ間は結局この日も顔を出すことはなく、朝からあいにくの雨模様。
普段傘をささない私もついに観念し安物の傘を購入する。

下半身がずぶ濡れとなりながらお土産物を物色し、無事に帰りの飛行機へと乗り込む。

人混み溢れた飛行機の中で、ぼんやりと考えた。

二進法の考え方では「1」に対局する値は「0」となる。
「有」か「無」すなわち、やるか、やらないか。
やらなければ「0」のまま。何かを行うことで「1」となり、次の桁数へと派生する。
思い切って飛び込むことで、見えてくる世界。
すなわち「0」とは「0」のまま固定された状態のことであり、「1」→「0」に変動することとは意味合いが異なる。

今手にするものを全て吐き出すことで、新たに手にできるもの。
それらは自分をすべからく改心させるものではなく、髄にある部分を残しながら、雑味の部分だけを巧く入れ替えるような。

人はそうして、誰かに会い、成長し、新たな「誰か」へとなり得るのだろう、か。

しばし自由な身となり、こうした放浪の旅を行いながら、私自身、その目指すべき「誰か」となり得たら嬉しい。
帰りの飛行機で、ぼんやりと、そんなことを考えた。



PM16時、羽田空港着。
東京は旧暦の正月を間近に控え、一層厳しい冷え込みを見せたらしい。
慌ててスーツケースからオーバーを取り出すと、旅路で綴ったメモがはらりと飛び出した。



落書きのようなメモを眺めながら、また作業に追われる日常に帰ること、そして、完成した作品をお土産に、いずれまた沖縄にお邪魔すること、
そんな諸々を胸に秘めながら、私はスタンドで買った熱いコーヒーをぐっと傾けた。

2019年1月18日金曜日

人は、誰かになれる。-沖縄旅行記前編-

沖縄へ行くことにした。
そう決めたのは、北海道ボドゲ博から帰宅し、数日経った日のこと。


いくつか理由がある。
一つが、約束を果たすため。
以前ゲームマーケット秋でお手伝いして頂いた「たまご」さんに、お礼に伺うこと。ありがとうの気持ちを伝えること。
(リンク先>ブログ第73話「たまごさんの話」より


(※写真と本文は一切関係ありません)


一つが、小冊子の広報活動。
せっかく作った私の小冊子「Board Game Quiz NEXTAREA」、ゲームマーケット含む各イベント後、即日通販に回すという行為に、何故か違和感を感じていた。
せっかくの作品、見えない相手ではなく、直接対面でお渡しし、お渡しすると同時にお礼も伝えたい。
そのついでに観光もできたら最高だ。

1月15日(火)、AM7:00
11時羽田発の飛行機に乗る私は、この時間もギリギリまで原稿作業に追われていた。ゲームマーケット大阪新刊のレイアウトや問題作成など、残って作業するべきでは?といった己の声と格闘していた。
「気分転換は作業の能率を上げる」
自分自身にそう言い訳すると、私はスーツケースに無理やり荷物を詰め、旅の支度を整えた。
あれもこれもと詰め込んだ中身は、約9割をボードゲームが占める。別のカバンにはiPadや書籍、問題を書き留めるノートの束など、我ながら、おおよそ観光旅行とは言い難い。


PM14:50、沖縄、那覇空港へ到着。
バナナの木の生える庭、三線の音楽が響く構内、各所に漂う南国ムードとは裏腹に、海風の影響もあるためか、少し肌寒さすら感じる。
強い日差しの中、合間にかかったウロコ雲が、この先の行程をそれとなく暗示させるようにも感じた。

市内を見回すと、瓦の吹いた屋根ではなく、コンクリートの白い平屋建て、いかにも南国らしいアパートが建ち並ぶ。ボードゲーマーなら「サントリーニ」のような建物でわかっていただけるだろうか。門柱にはいかめしい顔のシーサーが佇み、道行く人間をその形相で見守っている。

ゆいレールで市内のホテルへと向かい、まずは周辺のコンビニで目に付いた「沖縄らしきもの」を口にする。
神戸のシャッツィ様でも堪能できた沖縄の飲み物「ルートビア」を求めたが、入った先には無く、手にした飲み物は「ドクターペッパー(ロング缶)」。こちらも関東では、雑貨屋以外で滅多に目にする機会は少ない。

沖縄在住のフォロワー様の勧めで、向かう先は浦添市のボードゲームショップ「カッパのお城(Cappa Castle)様」。
合言葉は「持っててよかったボドパス2(ボードゲームカフェパスvol.2)」


店長のライアンさんは英語が母国語ながら、多少の日本語も堪能な方。
とはいえ、さほど英語ができる方ではなかった私、カタコトの英語を駆使しつつ会話を繰り広げる。




店内は海外のボードゲームが主体。海外の見知らぬ作品、まだ国内では一般流通されていない「My Little SCYTHE」や「MARVER版5minutes dungeon」、他にも、すでに国内ではお目にかかれなくなった「プエルトリコ」といった作品が所狭しと並ぶ。
中には「英訳版横浜紳商伝」などの国内作品も。

ライアンさんは「これも面白いです」とオススメのボードゲームを色々と教えてくれる。とても気さくで明るい方だ。
Onitamaというアブストラクトゲームを勧められ、さっそく一戦交えることにした。



相手の師匠駒を取るか、相手の門へ自分の師匠駒を進めることができたら勝利。
進むルートは各自に公開された手札で定められ、使用すると中央の捨札へ、代わりに、相手が直前に捨てた札を拾うことができる。
カード一枚一枚に効果が異なること、独自の雰囲気を持つことが、仄かにトレーディングカードゲームらしさすら感じる。

結果は惜敗。しかしながら、高級感漂うパッケージと駒、各種カードに、しばし見惚れてしまったことと、店長の言葉巧みなリードに感服できたことに私は心酔した。

せっかくの機会だったので、初めて見聞きしたボードゲームを購入する。
こちらもライアンさんの勧めによるもの。


「SLIP SHIP」は、ライアンさんも「スペースインベーダー」ライクと紹介してくださった作品。
自分の駒を指で弾き、敵カードを撃墜しつつマザーシップを全員で破壊することが目的のようだ。タイトルがアンビグラム(上下をひっくり返しても読める文字)というデザインも面白い。

次の約束があったため、名残惜しくも移動することに。

市内在住のフォロワー様と待ち合わせをする。
いつもツイキャスライブ上で作業キャスなどを行う「防破亭時化」様。
終始謙遜されていらっしゃったけれど、明るく陽気で、どんな方とも気さくに話される方。
先日は人気ポッドキャスト「おしゃべりサニバ」にも出演されたほどの人気ぶりを博す。

まずは時化さんのご紹介するお店で腹ごしらえを。
沖縄名物「キングタコスのタコライス」、ボリュームがあり、スパイシーで食が進む。
チーズにひき肉にトマトにサルサソース、さらに「ご飯」、まさに美味しいもののごちゃ混ぜ(チャンプル)である。

場所を変え、私の用意したボードゲームを披露することに。

・ワードスナイパーファミリー
カバンの中に潜ませる、私の中では鉄板の作品だ。予想だにしなかった言葉が飛び出す過程も楽しい。

・メキシコ
サイコロ2つで楽しめるポーカーライクなゲーム。こちらは「ダイスゲーム百科」にて、かのライナー・クニツィア氏が考案したもの。面白さの他に「サイコロだけでもゲームができる」ことが伝わるかと思う。

・マムマムマーガレット
時化さんがコリドールを普及される方とお聞きし、こちらも負けじとアブストラクト作品を持参したもの。色鉛筆とウッドバーニングでひとつひとつ丁寧に仕上げられ、強さと繊細さを併せ持つ色彩が、ハンドメイド独自の温かみをほのかに感じさせる、しかるに内容は高いゲーム性を保持する作品。

どの作品も喜んでもらえたようで、私も満足できた。
(なお、勝負は私の全戦全敗で終わった。)

ホテルに戻る。
すでに初日だけで実り多き1日だったが、今回の旅の主旨だけを見返すと、ノルマの半分をこなしたに過ぎない。

昼間の照りつける太陽から一転し、夜半からはポツポツと小雨が落ち始めた。
明日の本戦に備え早めにベッドに潜り込むが、案の定、上手く寝付けない。
先ほど口にしたドクターペッパーのカフェインが効き過ぎたのかと反省することにした。



後編につづく。


2019年1月13日日曜日

「楽しさの熱量」の話

私信だが、私の日常は、このところ、プライベートな面でかなりアクティブな動きが続いている。
良いこと悪いことすべてひっくるめ、何か「楽しんでもらえる」ことについて深く考えさせられた。

12日土曜日、横浜のボードゲームショップ「リゴレ」にて、一風変わったボードゲーム会が開催された。

「楽しい気分で遊びたい同士で集まる会」と称するこのゲーム会は「☆勝利点の高い人が勝者です。最も楽しい気持ちになれた人が別の意味で勝者です(後略)」と続く」

「楽しいこと」と漠然と括られたテーマ。勝つことに必死となるゲーム会とは異なり、あくまで「ボードゲームを参加する人全員で楽しもう」が主たる目的だ。

「勝ったから良いゲーム」
私の喉元に長らく引っかかっていたこの言葉。

しかしながら「エンジョイ勢は勝利にこだわらないから意識が異なる」とも言えず、やり場のない違和感を抱えたままであった。

本ゲーム会に参加した率直な感想は「これが本来のボードゲームの良さなのでは?」を再確認できたことだ。
楽しい時間を、参加された方々と共に、楽しく過ごす。
真剣勝負の世界から一線を画した「勝っても負けても楽しく過ごせる時間」、これは本来ボードゲームが得意とする「誰でも気兼ねすることなく楽しめる」部分の本領が発揮された瞬間だったのではないかと考えた。

人間の付き合いと同様に、ボードゲームにも得手不得手がある。
食わず嫌いはともかく、修行ではないのだから、嫌な思いを押し殺してまでボードゲームを楽しむ必要など、ない。
ならばプレイを選別する際に必要なステータス、それは「いかにこの作品を楽しく味わえるか」を見極める能力ではないだろうか。


「世界で一番美味い料理は」
この回答には十人十色、多くの回答が寄せられる。
世界三大珍味をふんだんにあしらったフルコースのディナーかもしれない。
巡り巡って行き着く先が「お茶漬け」になるかもしれない。
「我が子が自分のために一生懸命こしらえたカレーライス」と答える方もいるだろう。

「楽しいを過ごせる時間」
「勝ち負け」の領域とはもっと別の世界に位置する、楽しむ、または、楽しませるゲーム会。
「参加して楽しかった」の諸元は一体何だったのだろう。
モヤモヤする気持ちを取りまとめようと一思案するも、ついにその夜は結論に到達できなかった。


翌13日、珠洲ノらめるさんのバースデーライブが開催されると聞き、喜び勇んで参加した。

数多くの学びがあり、歌手が歌い、踊り、観客全体が大いに弾ける中、影で必死にメモを取る私は、おおよそ変人に見られてしまったことだろう。

ライブの構成が見事だったので紹介したい。

オープニングの「モノローグ」で会場の空気を高め、耳が飽きることのないよう、数曲ごとにコラボを入れたり曲調を変えたり、なども挟む。
終盤はアコースティックな曲をはさみ、最後の曲は今回最もテンポの速い曲で駆け抜けた、という印象だった。
「プログレッシヴ(漸進的)癒やし系アーティスト」、看板に偽り無し。「一歩先の方法で心を癒します」そう捉えることにした。

話は変わり、先日ツイキャスライブにて、「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」のいか氏と、こんな話題で盛り上がった。

「相手に楽しんでもらうには、自分が偉そうに振る舞わないこと」

誰にでも分け隔てなく接するいかさんから、ふと、そんな言葉が飛び出した。
会話中は「年齢でも何でも「高圧的に振る舞う相手、今風の言葉で「マウントを取る」相手とは、接触したくなくなる、と捉えたが、後から考えるに、一元的ではなく「人間の更に根底へと掘り下げるべき」問題だったのではないかと思い、私は先の言葉を『緊箍児(きんこじ、西遊記の孫悟空が頭につけている輪っか)』の如くジワジワ頭を締め付ける問題ではないかと思い直した。


楽しんでもらうには。

少し前まで、私は「こちらが楽しい雰囲気を醸成すれば、興味のある方はどんどん集まってくる」
そんなある種の「勘違い」をしていたかのように思う。

全部が間違いとは言えない。私自身も「面白そう」と興味を持った作品の多くは、他の方が楽しくプレイされる姿がきっかけだからだ。

だからといって、「楽しさ=自分だけが享受できるもの」と捉えてしまうと、例えば内輪ネタで盛り上がる雰囲気だった場合、本当に自分は真から興味を注がれただろうか、と振り返った。

「楽しさ」という感覚で表現する「アナログ」的な概念を、デジタル、すなわち数値等を用いた概念を用いてはどうだろう。

「楽しい」という言葉をさらに掘り下げ
ここでは「楽しさの熱量」という言葉で仮に表現する。


例えば、あくまで私個人の話であるが
「俺はこのボードゲームなら誰にも負けない絶対の自信がある!」
そう豪語された状態で、果たしてこの相手と、その「絶対に敗色が濃厚な」ボードゲームを、一緒に遊びたいと思うだろうか。

私なら少し考える。
「相手がどんな動きをするか」といった興味関心とは裏腹に「そうまで豪語するならば、きっと相手の思うがまま、サンドバッグにでもされることだろう。ならば勝負を控えるか」と、避けて通るかもしれない。
むしろこれまでのプレイ時において、圧倒的に自分は「後者」に属していた。

それはなぜか。

「ひとつのボードゲームでどれだけ楽しめるか」の熱量を相手と比較し、「どう足掻いても相手に叶うとは到底思えない」と瞬時に判断したならば、私は直接の勝負をやめ敬遠する側に回るのではないか、と考えたのだ。

それらを差し引いても「一緒にプレイしたい」と思える相手とは、その際にどうした対応を取っていただろう。

よくよく思い返すと、それは「相手が「好き」の熱量をどんどん与える姿勢」にあったのではないかといった結論に帰結した。

どれだけ強い相手であろうとも、どれだけ「絶対に負けるに決まっている」と事前に察知した相手でも、「プレイすることで相手の「楽しさの熱量」のおこぼれを頂戴できるような相手」ならば、むしろ砂漠に湧き出るオアシスの如く、プレイに興味が惹かれるのではないだろうか、と。


無論、ボードゲームに限った話ではない。
クイズでもスポーツでも、趣味でも勉強でも何でも、「相手と共にプレイする」際、目に見えない、それこそDNA的な「野生のカン」をもって「全体の雰囲気」を瞬時に察し、肌身で伝わる直感のようなものから「相手の楽しさエネルギー」を、知らず知らず、個々人で比較・検討していたのではないだろうか。

「勝ったから良いゲーム」の言葉に自分が違和感を拭えなかった理由は、それら「勝つ以外にも楽しさの熱量を享受する方法はごまんとある」に終着した。
「がむしゃらに勝つことを追求する」だけでは、ゲームそのものが本来持ち合わせる「楽しさ熱量」の総量を、強い人間だけで分配する事態に陥ってしまう。

そうではなく「相手の現状を瞬時に察し、全体の楽しさの雰囲気を自分が盛り上げるよう積極的に醸成する能力」こそ、プレイ時には求められ、それら雰囲気の醸成を難なくこなせる諸先輩がた、いわゆる「この人とならもう一度遊びたい欲の湧く人材」こそエンターティナーと呼称されるだろうし、あるいは、その華麗なるテクニックを駆使しなければ務まらない点を踏まえ「プロフェッショナル」と称されるかもしれない。
「楽しさを知るからこそ、出し惜しみすることなく、多くの人に熱量を分配できる人物」
これこそ「楽しい雰囲気」を醸成できる人間の真の姿だったのではないだろうか。

分け与えるだけではない。
豪速球を駆使する剛腕のピッチャーは、それを受ける女房役の「キャッチャー」があってしかるべき存在だ。
「熱量をもらう側」にだって、それら高い熱量を受け取るだけの姿勢や心構えを持ち合わせなければ、コミュニケーションの根本となる「(会話の)キャッチボール」が成り立たなくなってしまう。


これらを踏まえて、私個人の話。
先のゲーム会では「プレイ中誰よりも人一倍騒ぎ(本当にすみません)」ライブ中は「他の方に負けぬよう声で、手拍子で、応援(こちらも本当にすみませんすみません)」し続けた私。

周囲に忌避の目で見られようとも、「楽しさの度合いでは負けないぞ!」と意気込み、時には得られた熱量を「もっと楽しもう!」と分配する側に回るよう知らぬ間に振る舞っていた。
しかるに、やはり熱量の分配は一朝一夕に身につくものではない。周囲に楽しさを伝播させるには、まだ体感し得ぬ「それ相応の技量」が必要と実感した。
笑顔?応援?精神衛生?
今後も料亭の職人の如く、一生をかけて試行錯誤を続けることだろう。

くじけてなるものか!


「「また明日あなたと遊びたい」と、言われるようなプレイで遊びましょう。」
カタンの作者クラウス・トイバー氏の名言である。
多くを経験し、多くを知り得た上でなお「また一緒に遊びたい」と思わせるプレイスタイルとは。

言葉の真意は、どうやらその辺りにあると画策している。










2019年1月1日火曜日

情のかたまりを届けたい-2019年の抱負に変えて-

このブログを執筆している時点で、2019年1月1日
新年、あけましておめでとうございます
昨年はまさしく激動の一年、多くの方との出会いがあり、その一方で別れもあり、考え、悩み、苦しみあえぐ中、未だ模索する最中となる平成最後の年を迎えました

慌てて駆け込んだブログの電子書籍化もなんとか一段落、これからしばらくは、ゲームマーケット大阪に向けての制作に傾注します。


改めまして自己紹介を。
このブログのテーマは「にんげんっていいな」です。

ボードゲームを通じて私「番次郎」が体験・実感した「人間の温かみ」をテーマに、少々長めの文章を綴っております。
今年もよろしくお願い致します。


さて、その小冊子制作の話。
欠かせない作業が「文章校正」であり、何度行っても、誤字・脱字のバグ(英語で「小さな虫」を意味するcomputer bug、真空管コンピュータに熱を求めて蛾が集まりコンピュータがたびたび止まったことに由来するとか)が根治できない。

紙面に刷り出し、日を置き、何度となく目視や、時に実際に声に出しつつ確認するのだが、些細な誤字はおろか、問題文の大幅なミスも頒布後に発生する始末。

購入されました方には、この場を借りて深く謝罪致します。


さて、場面は変わって、先日の話。
プレイ中に経験された方も多いと察するが、ある作品をプレイする際のこと。こちらの次の一手がなかなか決まらずウンウンとうなり声をあげる中、相手はすでに次の一手が決まったらしく、涼しげな顔をしている。
ところがしばらくすると、立場が一転、今度は向こうがうなり声を上げながら長考を始め、その一方で私は次の一手が早々に決まり、余裕の笑みでコーヒーをすする場面があった。

ボードゲームの長考問題もしばしば話題に取りざたされる。

岡目八目ということわざがある。
囲碁の世界に由来するこの言葉は、実際の対戦中よりも、側から見ている人間の方が盤面の方を何手先も読むことができる、という、皮肉も似た格言だ。
広辞苑によると「〜(前略)転じて、第三者には、物事の是非、利・不利が当事者以上にわかること」と記載されている。


これはあくまで持論だが、「情」が思考を妨げるからではないか。

前職ではよく「職場に私情を持ち込むな」と注意されたが、この場合、単に上司が「私語を慎め」という言葉をカッコよく言い換えたに過ぎない。

ここでの情とは、愛情や情熱など、「気持ちが入ること」を意味する「情」だ。

気持ちと書くと体裁は良いかもしれないが、要は「個人の評価」であり、例えば物事を冷静に評価・判別する際の妨げとなる要素とも言える。
情が入ることで、物事に対する相対評価に狂いが生じるのがその理由だ。
「頑張っているからちょっとオマケ」
「偉そうに見えるからあいつとは距離を置こう」
公平甚大を重んじる世界では、確かに控えるべき言葉かもしれない。

情を介入させず、冷静な立場で評価を行うことにより、物事を相手に伝える精度も比較的向上する。
「うまい!」「やばい!」などの感情だけでは、確かに個人の体験談としてのリアリティは精度を増すだろうが、読み手、受け手のイメージする「評価の精度」にはイコールと貼らず、その精度に揺らぎが生じる。
こうした場面では「糖質カット」「乳脂肪分ゼロ」「北海道産」など、第三者の観点でも評価の変わらない文言を使用すれば、精度は飛躍的に高くなる。
これら精度を高く維持することで「受け手の情報が永続的」となり、次に相手に伝える際も、より高い精度を保ったまま別の相手へと伝聞することが可能となる。

少し難しくなった。
これは例えば恋愛相談などの場面において、高ぶった相手の感情を落ち着かせるため、一旦、相手の感情を「整理」する方法を取る。
相手の状況を丁寧に聞き出し、紙に書き留め、相関関係や「できること」、「できないこと」等を、聞き手もしくは第三者がリストや表にまとめる。
紙面にまとめることで、個人の感情を「整理・視覚化」し問題の根本を確認しやすくできると同時に、先に挙げた「情」の概念を幾分でも取り払い、第三者的な評価・分析ができるよう促すのだ。
日記などにその日あったことを書き出す作業も、これに近いと言えるだろう。


ここまで、あたかも厄介者のような「情」だが、実は私自身、この「情」なくしてボードゲームは存在し得ないと断言するほど重要な概念と考えている。

○○賞の審査員や、ボードゲームのクロスレビュー等、どうしても必要にかられる場面は別として、例えばツイッター等でボードゲームの感想を上げる際、「楽しい」「面白い」を喚起できるような書き方を極力添えるよう心がけている。
具体的には、「面白い」「思わず口元が緩む」など、真に感情に訴える場面を表現したり、その一方で、たとえ作品の面白みに気づかなかったとしても、極力マイナスの情報などはツイートしないよう心がけている。

それは私が「ボードゲーム」に「情」という概念が密接に結びつくものと考えるからだ。

ボードゲームの相手とは他の誰からぬ「他人」であり「人間」である。ソロプレイなどにおいては「他人を投影した自分」とも言えるだろうか。

他人(人間)を相手とするから、その場の雰囲気、相手の心情の変化、細部気候、体調等々、様々な要因が重なり、そのプレイスタイルが都度大きく変化する。
ましてコミュニケーションを主体とするならば、楽しむ対象は自分だけではなく、相手を含む他のプレイヤー全体、ひいてはその場のプレイスタイルにも波及する。

環境によって、面白さの振れ幅は大きく揺れ動くのだ。

ならば、真に伝えるべきは「ダメだった」「つまらなかった」などのアラを探し伝達する作業ではなく、どこまで作品を最大限に体験することができたか、この作品のポテンシャルを最大限に引き出すにはどんな言葉で飾れば良いのか、を考えた方が良いのではないか。

それはあたかも「情のかたまり」と呼べるだろう。


私個人の意見として、情を動かされるまで面白味を感じた作品ならば(ボードゲームに限らず)それらをありのまま伝えること自体、決して悪行ではないと考える。

製作者以外の第三者の心を突き動かし、多くの感動(良い面も、悪い面もひっくるめて)を呼び起こすことができた、それは作品として立派に完成されていると呼べるのではないか。


私はもっと「情を動かされるような」作品に、今後もたくさん触れ合っていきたい。

そしてそれら「情のかたまり」を、私の作品を拝読された方々全員に、165km/hのストレートを以ってお届けしたい。


今年一年も、番次郎ブースは何事にも全力で臨みます。
みなさま、よろしくお願い致します。

2018年12月22日土曜日

ゲーム音楽かるたの紹介

私の創作ボードゲーム関連作品は、Board Game Quizだけではなく、実はもうひとつ「ゲーム音楽かるた」という作品がある。


学生時代からコツコツとゲームのサントラを集めに集めること約2万曲、それら趣味が興じて作成したこの作品、もちろん私が創造したものではない。
元ネタはかなり昔、ツイッターのTLに回ってきたもの。

かるたがボードゲーム(アナログゲーム)に含まれるかどうかはさておき、本格的なボードゲームと呼ばれる媒体に着手したことは今回が初めての経験となる。
触れたこと、学んだことは数多い。

私自身、かねてより「ボードゲームのインスト問題」と呼ばれる、説明書に関する各種問題に頭を悩ませていた。
インストをするのに説明書が難しい、相手に説明することが難しい、上手に聞く相手もそう多くはない。

ならばいっそ「取扱説明書のないボードゲーム」を作ってしまえばいい。

例えば「じゃんけん」に説明書はない。必要がないからだ。
後出しがどうだ、グーは石でチョキはハサミで、といった意味合いは後回しでもいい。
それらは承前、「わかっていることを前提に」ことが進むからではないか、と考えた。

説明書をなくすにはどうするべきか。
例えばNINTENDOSwitch「スプラトゥーン2」は、電源を入れた瞬間に簡単な「チュートリアル」が始まる。
これも導入部としての一つの方式だ。
また併せて、テレビゲームの利点とし「見ているだけでルールがわかる」ことも挙げられる。
「見ている人間が「楽しそう」「僕もやりたい」と集まる」
その環境の醸成には、やはり「ビジュアルと音声の情報」だけで内容の9割を伝えなければならないのではないか。

小冊子Board Game Quizは「遊び方自由自在」と銘打ち、「説明書不要」を主軸に取り組んだ。
「読むボードゲーム、あります」
サークルカットに記載した文言はそうした意味合いが込められている。




この「イズム」は本作「ゲーム音楽かるた」にも息づいている。
「説明書がいらない」
「誰かがプレイすると、それを見ている、周囲が興味を示す」
「見聞きするだけで内容が把握でき、プレイしたくなる」


もうひとつのトリガーを紹介したい。
実はこのかるた、持参してプレイすると反応は半々、といった具合だ。
「懐かしい!」「よくぞ集めた!」という好意的な意見とは対照的に「思ったよりさほど…」「ゲーム性は皆無」など否定的な意見もちょくちょくあがる。

それらも実は想定内だ。

ゲーム音楽のかるただけに「知識で勝てる」というX軸と、「聴いて楽しい」というY軸を併せ持つ。
己の記憶を活用し貪欲に勝利を目指すならば、このかるた、面白さとしては4/10くらいの評価だろうと思う。

これに、制作側の努力、そして「誰もが想像したけれど、誰も作り得なかった」が加味されると、どうだろう。

評価してくださる方は、本当に高く評価してくださる。
それもそのはず。ゲーム自体は有名であっても、すでに絶版となり入手が困難となったサウンドトラックからも何十となく取り札に含まれているからだ。(ポリシーとしてYouTubeから音源のDLは行なっていない)
もちろん一般的に有名な作品から選曲しているため、たとえ名曲であったとしてもゲームそのものの知名度が低い作品はなるべく控えているし、同名のゲームからは一曲だけという縛りをも設けている。(シルエット・ミラージュ、スーパーマリオRPG、ワンダと巨像etc、月風魔伝 etc etc…個人的名曲はたくさんあるのにぃ…。(涙))

この「自他共に認める非常にアクの強い作品」ゆえに、このかるたを持参する際は事前に連絡するか、もしくは要望があった場合にのみ、としている。
遊んでもらうなら、やっぱり、喜ぶ顔が見たい。

ひいては、ゲームの評価に関し、私は「遊ぶ人で左右される」という考えを持つようになった。
多くの批評家が論じる中、やはり否定的な意見が耳に大きな声で入るけれど、メンバーと、環境と、その日の体調と、その他諸々が影響し、ゲームの面白さなんて大きくぶれが生じるものだ、と。

だから、今はあまり作品の評価なんて気にしないことにしている。
高く評価されることは嬉しいけれどね。

そんな多くの想いを乗せたゲーム音楽かるた。
パッケージイラストは「大狼」などの作品で知られる「亞猫」氏が描いてくださりました。
ここに改めて感謝致します。

かるたは私に一言おっしゃっていただけましたら、クイズ同様、全国津々浦々、いつでも持参致します。


2018年12月15日土曜日

評価数ゼロのデザイン秘話-小冊子に隠されたデザインのあれこれ-

こちらはゲームデザインアドベントカレンダー2018に寄稿した記事です。
ボードゲーム根本のデザインとはそれる部分もあるかとは存じますが、何かのご参考となれましたら幸いです。




前々回、前回、そして3回目となる今回のゲームマーケット秋でも、懲りずにボードゲームに関するクイズの本を刊行することにした。

「出すぞ」と決めてから期間は約半年。
その間、単に問題を熟成させ、良質な問題を提供するだけに従事したならば、それはそれで楽しかったに違いない。

<前回秋に頒布した小冊子のページより>


しかしながら、そろそろ「大転換」が必要ではないか。
マンネリ、という言葉が妥当かどうかは定かではないが、同じパターンを続けることで、退屈何より成長そのものにブレーキをかけてしまう。

それは誰よりも私自身が一番身に沁みていた。

既存のクイズ本に準じた形式、言うなれば、無骨で、真面目で、良くも悪くもテキストベースな「小冊子」を、何とか「読んで楽しい本」にできないか。

幾度となく試行錯誤し、各種デザイン関連の本をかたっぱしから読み漁り、それでも心の中のモヤが晴れない状況の中、POO松本氏がツイート上で開催するデザイン講義の情報を入手した。

(参考)「プロデザイナーによる同人誌レビューがめちゃめちゃ参考になる togetter」https://togetter.com/li/1194227



初学者の私にとって目から鱗が落ちることばかり、いや、既存のデザイン関連本に記載がないどころか、ここまで奥深く「読みやすさ」に特出した書籍、アドバイスは、私の中に記憶がなかったのだ。

一連のアドバイスにいたく感動した私は、ここでしか入手できないと称される「コミックマーケット」にも初めて足を運ぶことになる。聞けばこの日は高温に加え、よりによって歴代最多の客足だったという。

這々の体で入手できたデザイン本を目を皿のようにして何度も反芻し、数ヶ月後、出来上がった私の小冊子がこれだ。



 


読みやすく、面白く、何処に出しても自信を持って推奨できる、そんな「既存のクイズ本から脱却したクイズ本」が完成した。

このページが完成するまでに、私がデザインに関し「受け入れたもの」反して「捨てたもの」をいくつかあげて行きたいと思う

●文字フォント

これまでの小冊子は文字の読みやすさと活字の持つ文学的なイメージから「明朝体」を採用していた。
しかしながら、小冊子を手に取ってくださる層は比較的「ボードゲームに興味はあれど、クイズに関し幾らかの抵抗を感じる層」だった。(個人的な意見です)
そこで、各種バラエティ番組を観察し、使用されている問題フォントを確認する。
明朝体は「学習」「勉強」の意味合いを持たせ、ゴシック体は「融和」「楽しさ」の面を持つものと判断した。

クイズの小冊子、読んでもらわないことには始まらない。
ならば目的が「勉強」ではなく「楽しさ」に主軸を置いたものである以上、こちらの変換は真っ先に行った。

(文字フォントの例。訴えたいメッセージの違いが感覚的にわかるだろうか)


使用する文字フォントを「ゴシック体」を軸に作成し、どうしても文学的にならざるを得ない文章(あとがきの部分など)に関しては明朝体を使用し、その都度、別の顔を持たせるようにした。


・挿絵に関して

前作「画力ゼロでもゲームはできる」(https://hibikre.blogspot.com/2017/12/blog-post.html)という記事をアドベントカレンダーに掲載しておきながら、やはり要所の場面で挿絵程度のイラストを描けた方が「都合が良い」と判断した。
(美麗なイラストは描けなくても良い作品はできる、というポリシーは未だ持ち続けております)

3ヶ月前、この程度の腕前



約3ヶ月、イラストをみっちりと練習し、自分の中で「それなりに」見栄えするイラストが出来上がる。



詳細(ブログ(僕のイラストができるまで「小冊子イラスト奮闘記」番次郎の盤上万歳!!)「https://hibikre.blogspot.com/2018/11/blog-post.html」)

こちらを、全面にアピールしたわけではない。
使用した場面はあくまで表紙の一部分、左上の隅、ちょこちょことキャラクターを登場させた程度。
料理で例えるならば「スパイス」として扱ったに過ぎない。




しかるに、キャラクターを登場させることで「小冊子に一体感」を持たせることができた。
ジャンル毎、バラバラだった小冊子全体を、看板キャラクターを登場させることで上手く取りまとめる作用を施すことに成功し、全体がより引き締まった。
イラストが描けなくとも、前作、前々作のような「ピクトグラムを掛け合わせたようなキャラクター」でも十分代用が効いたかもしれない。


・目線の誘導

次に着目した点は「目線の動き」だ。

前回までの小冊子は、各ページにパターンが定められており、型枠に沿った形で問題を当てはめていった。言うなれば「金太郎飴」のような形式だ。
この利点は「どのページを切り取っても、同様の楽しさを提供できる」点にあり、良く言えば「どこからでも楽しめる」悪く言うと「同様の風景が続くので、退屈で連続視聴に耐えられない」
前者は計算ドリル的、後者はパンフレットのようなものと勝手に解釈している。

目線の動き、そして、目に飛び込んでくる情報を一定にしないことで「脳に入る情報の均一化=退屈」を防ぐ、

そのためには、文字を羅列する他に、やはりデザイン面でカバーする必要性を生じた。

まず、目線の動きである。
色彩:「淡」→「濃」
この「淡い色の中で目立つ濃配色」を操作してみることにする。

白一色の文面で単に黒色だけを配置するだけでは目線の誘導を上手くサポート出来ない。
同じモノクロにも濃淡はある。

まず紙面全体に微妙なグラデーションを配した。



先のページ、こちらの画像では伝わりにくいが、中央の仕切り線の他に、実は背景色にもグラデーションがかかっている。
具体的にはK5→K15である。
このグラデーションは各ページに変化をつけた。次の見開きではK25→K35、次はK45→K65といった具合だ。
小冊子は全6ジャンル、見開きは各ジャンル3回、こちらは都度パターン化させることにより
「濃度の高いページは、難易度が高そう」
とニュアンスで理解させた。

ちなみに、色彩情報サイト「色カラー.com(https://iro-color.com)」によると
「黒」→威厳、陰気、恐怖、脅威、重力、上質、深さ
「白」→純白、空虚、軽い、潔癖、純粋、神聖、清潔、清純
などの情報を想起させるのだという。


また、こちらはページを開いた際の目線にも反映されている。
今回の小冊子は1、2ページの問題の解答を2ページ右隅にまとめて掲載した。
1ページ目に掲載されていない問題の解答を、先ほどの「淡」→「濃」で誘導してみることにした。






ページ左上から右下へと流れる、背景のヘクスタイルがそれだ。

ページ全体を見開きで確認した後、目線の誘導をサポートする役割を持たせた。
こちらはもう一つ、誘導の役割と同時に、文面の「白色一律」という視覚情報から、少しでも退屈となる文面に変化をつけ、視覚からの情報(ひいては脳の退屈を防ぐ作用)が均一とならないようサポートする一面をも併せ持つ。


◆可読性へのこだわり

まず、一部「可読性へのこだわり」は捨てた。
 良いデザインとは、芸術的な一面と、実用的な側面の、両面を併せ持つもの、と、私は昨年の記事で書いた。

では読みやすさにこだわってしまうことが、必ずしもデザインの良さに比例するのだろうか。

それらは「芸術的センス」のある一部デザイナーの仕事だ。
私のような見習いレベルの人間に、その両極端なステータスを同時並行で走らせることは到底難しい。

可読性
例えば「ふくろ文字」と呼ばれる、文字に枠をつける表記方法だ

袋文字を使用することで、柔和なニュアンスを文字だけで表現できる他、可読性、視認性も向上する。
しかるに、場面によっては、文字フォントが持つ独自のソリッドな感じを活かすことができない。

文字の大きさもそう。
老眼対策に文字を大きく、と、何度かツイートで見かけたものの、どうしても本小冊子、
文字を読ませることを主体とするものであり、文字の大きさ云々を多少犠牲にしてでも、より多くの活字を掲載したかったのだ。

あまりに度が過ぎたものは論外だが、
「読もうと思えばギリギリ読める」
そのレベルまで文字の大きさを下げることにした。
なお参考までに、今回は文字本文を8Pに基準を定め作成している。


解答欄の創意工夫

可読性といえば「判読可不可」のギリギリを行う工夫も行った。

私の小冊子に限らず、これまでのクイズ小冊子は「問題のあとは即座に解答を知りたい」層と「ギリギリまで考え、あとでゆっくり解答を確認したい」層が混在していた。

そのため、解答欄に関して、目に届く位置だと後者から「考える間も無く解答に目がいってしまう」、逆に解答を別ページに移すと「知りたいときに解答がわからず不便」と前者の層から不満が上がっていた。

前作の春にて解答欄を隠す為のしおりを添付したが、それでも他にデザイン面で解決できないかと考えた。

たどり着いた結論が「解答欄の配色」だ。



解答欄の配色を「敢えて見にくく」施すことで、一見して解答がわからないよう工夫した。
背景色はK60、文字色はK80、工夫次第でこちらも微細な調整が効くだろう。


また、難易度の高い問題のページは敢えて配色を変えている。



問題難易度の高いページに関しては「即座に解答を確認できる」よう比較的視認性の高い配色を施した。
背景色はK20、文字色はK40
難しい問題を使用する場面は「パーティ向け」というよりむしろ「自己の知識比べ」言うなれば「難しいと判断した際、即座に解答が判別できる」態勢が主体となるだろうと判断し、それなりの可読性を重視した。

専門用語に関して

ボードゲームをプレイする中でつい多用しがちな「専門用語」も然りである。

手前味噌ではあるが、今年9月、関西の大手クイズサークル「QuizDo」様にインタビュー記事の執筆を依頼され、その際に記述した内容の一部を紹介する。

(参考URL:ボードゲームとクイズ(4)QuizDo2018年11月5日)

(以下引用)
界隈だけで通じる言葉をつい多用するクセがついてしまうと、何かしら「コードネームを使用する錯覚」に陥るのか、気心の知れた界隈の結束は深まるかも知れませんが、一方では排他的となり、また、それらを使用した別の表現をしづらくなってしまうなどの弊害も生まれます。

専門用語の多用は厳禁だ。
しかし、敢えて「使うべき場面で使うこと」により、読み手との親近感を高める効果をも併せ持つ。
必要以上の多用は避けるが、要所要所での使用は積極的に用いることにした。

本小冊子には、一部専門用語を極力別の言葉に置き換えている。
(例)
「ボドゲ」→「ボードゲーム」
「初心者」→「ビギナー」
「イージー」→「カジュアル」
「簡単な問題、難しい問題…」→「1st STAGE、2nd STAGE、FINAL STAGE」
「スタピー」→「スタートプレイヤー」「最初の手番」
etc…

また、高難度問題の場面では「インスト」「ゲムマ」等の用語を敢えて使用し、親近感をより高めるよう施した。




出来上がりはしたものの・・・

これらをふんだんに取り入れ、無事に仕上がった作品ではあったものの、実はこれまでの評価件数は「ゼロ」である。
エゴサーチをどれだけかけても、デザインに関する評価は一向に上がってこない。

・・・。
頑張った時間量に比し、一件も評価がないことへの悲しさやら情けなさやらで、実は一度、本気で制作自体から手を引くことを考えた。

そんな時に、あることを思い出した。
今年9月に開催されたトークショーの中で、タンサンファブリークの朝戸氏が
「目立たないのがデザインですから」
と語った。

中国の老子の思想に「無為自然」という言葉がある。
こちらは何も感じさせない、相手にそれとなく気づかせる行為こそ、相手を支配している概念だという理論である。
無意識で行動する影には、相手の「それとなく操作する」行為が根付いている。

デザインの話を聞きながら、「言葉では言い表せないけれど、なんとなく、いい」が気づいたならば、デザインとしてそれは成功だったのではないか、
ならば、一件も上がらない評価とは、逆に「すでに購入者の中の意識化に根付いている」ものではないか、それはとても幸せなことではないだろうか。

そんなことをぼんやりと考えた。


今回、これら「目立たない箇所で頑張る影の主役たち」言うなれば「縁の下の力持ち」にスポットを当ててくださったことに、改めてお礼の言葉を述べたいと思う。
同時に、他の作品にも同様の「隠されたデザイン的工夫」を見定める目、それらを今後も養い、自分の制作の糧となれたらと心から願う。

(了)








創作落語「カタンカタン」

先日勢いで作りました、古典落語「寿限無」をベースとしましたパロディの創作落語です。 アラが目立ちますが、お目こぼしください。 月日の流れというものは早いもの、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」なんてなことを申しまして、ボードゲームの制作者ともなりますと、この時期は...