2020年6月21日日曜日

神様のゲーム オンラインイベントに向けての僕の考え


 来週27日(土)、28日(日)は「ゲームマーケットライブ」と称された、オンラインを通じたボードゲームのイベントが開催される。
 各ブースは動画配信やライブ配信を通じたイベントを持ち込みで企画し、また主催となるブースでは各イベントも開催されるとのこと。来場者は好きなブースをまわり、動画配信やライブイベントに参加するなどを体験することができる。
 これまで有志の間で開催されたオンラインイベントの延長線上にあるものと、僕は勝手に認識している。
 
 情勢としては、先日首相が「経済活動レベルの引き上げ」を発表、県をまたいでの移動自粛が解除された。
 街の活気も、満員電車や商店街の賑わいなど、緩やかな上がり方を見せた。
 とはいえ、特効薬やワクチンなど、いまだ安心できる中とは断言できない昨今。今後はオンライン上でのこうした取り組みも活況を見せるのだろう。

 御多分にもれず、当「番次郎書店」も、オンライン上で立ち寄った方が楽しめるよう早速動画を作成し、当日、立ち寄った方と楽しめるよう当日配信用のクイズまで用意した。

 先日、ある方から
「リアルでできないから仕方なくオンラインで……じゃなくて、オンラインだからこそできる遊び方を開発したいですよね」
 そんな言葉を受け、ハッと我を振り返った。

 ボードゲームの楽しさはやはり対面同士のやり取りだ。
 単にゲームに興じるだけではなく、会話を五感で体感し、相手とのノンバーバルな面を含めたやり取り、カードを、チップを、実際に手に取り、触感として味わうことのできる重厚なひと時…。
 個々人が開催するクローズ会の場や、再開されたボードゲームカフェ・プレイスペースの場を通じ、改めて「直接のやり取りを通じたアナログゲームの楽しさ」を再確認された方も多かったのではないか。
 それらを踏まえた上での「オンラインイベント」は、(大変失礼を承知で)日常の食卓に非常食を提供するような味気なさすら感じるかもしれない。

 でも、不思議と僕に落胆する気持ちは生まれず、むしろ「近未来的だ!」と好意的に捉える側の方に立った。
 何ができる?ツイキャスライブ?YouTube LIVE?動画配信ならば、立ち寄った方と一緒に遊べる、楽しめる、そんな企画が用意できないかな、etc…。

 メンタルヘルス関連の書籍に登場する例え話で「コップの水を半分だけ飲み、残ったグラスを見て「もう半分しかない」「まだ半分あるか」のどちらを考えるか」とある。
 物事を悲観的に見るか、楽観的に見るか、の例だったかと思う。
 
 制限された状況の中、思うような行動ができず、もどかしい、苦しい…今回の自粛期間を通じ、誰しもが経験した「ツラい気持ち」だ。
 そんな中、僕は心の中で「ゲームだ!」と開き直ることにした。
 「これはゲームだ。自分は神様が与えたこのゲームを、最大限楽しみ、クリアに導かなければならない」
 そんな妄想を全開にし、あらゆる出来事を「これはゲーム!」と置き換えることにした。
 ゲームだから、楽しまなければ自分が一番損をする。
 ゲームだから、ルールには絶対で、ルールに抗うことなく行動しなければならない。
 ゲームだから、どこかに楽しむ要素があるはずだ。
 ゲームだから、どこかにクリアのカギとなるアイテムが存在するはず。
etc、etc…。

 ウイルスの脅威が抑えられる近未来は、「これまでの日常に帰る」ではなく、「ウイルス対策を万全に、という前提の中での新たな未来」のはずだ。
 だから考えの軸を「過去」に置いては足元から崩壊してしまう。
 立脚点を「今」に置き、今できること、できないことをしっかり見定め、できることを少しずつこなしながら、未来の自分へと軸を移そう…。

 僕は「今、何がないか」よりも「今、何があるか」を考えられるような、自粛期間が開けたこれからも、そんな視点で物事を見ていくつもりだ。
 
 番次郎書店ではオンラインの場でも、変わることなく、クイズに4コマに、皆さんが「いかに楽しめるか」を追求できるブースでありたいと願う。


 「白鯨」などの作品を手がけた作家ハーマン・メルヴィルの言葉を紹介し、今回の締めの言葉とする。
「不遇はナイフのようなものだ。
 刃をつかめば手を切るが
 取っ手をつかめば役に立つ」

2020年6月13日土曜日

クイズのドリルは作りません! 次回秋のイベントに向けて

東京都の休業要請もステップ3へと緩和され、少しずつ回復の兆しも見えてきたのかな、と感じる昨今。
国内のボードゲームイベントも、部分的にではあるけれど8月静岡アナログゲーム祭りの開催が告知されるなど、明るい方向へと向かうことを思わせる便りも届く。
先日は11月14・15日のゲームマーケット2020秋も告知され、これから当番次郎書店ブースも、目前に迫ったイベントに向け全力を傾注することとなる。

ゲームマーケット秋の新刊に関して、当サークルの新刊は未だ構想中で、「まずはクイズの本を作る」と漠然とした目標だけを掲げつつ、色々な案を考えている。

ただ、ひとつ、「残念ながらご期待に添えません」とし、見送った案がある。

それは「ボードゲーム等のクイズだけを綴った小冊子」言うなれば、参考書の一問一答集にあるような、ドリル形式で問題が淡々と綴られた本だ。

このテーマは当サークルを運営する中で最も需要の声があり、現在も少なからず期待が寄せられている。
それでも自分の心の中では「確率は0ではないけれど、優先順位はかなり下の方」だ。依頼されたならば少しだけ作るかな、に留まっている。
                      (こうした形のクイズ本は作らないかも、の見本)

この案、実は昨年大阪のイベント出展の際から頭にはあった。

昨年ゲームマーケット2019大阪では「ボードゲームのなぞなぞブック」と題し、ボードゲームにまつわる各種のなぞなぞ、謎解きを掲載した本を頒布した。
それはこれまで「クイズ小冊子」ばかりを制作・頒布し、周囲も「次回もまたクイズの本かな?」と視線を向ける中での頒布だった。いわば自分にとって大きな挑戦となるものだった。
結果、さほど大きな売れ行きこそなかったものの、何か手応えをつかんだ自分は、それから続くゲームマーケット2019春で4コマの新刊、なぞなぞ本の2巻、これまで発表したクイズ本のまとめ+αを刊行、さらにその年のゲームマーケット2019秋には「PLAYBAQ2019」と題しクイズで振り返る2019年史を、翌ゲームマーケット2020大阪(未開催)では「クロスワード本」さらにはゲームマーケット2020春(こちらも未開催)に向け「エッセイ集」などの作品を作成するに至った。

クイズ単体を並べた本の制作は、昨年春を最後にきっぱりと決別することにしたのだ。

その理由はいくつかあるが、大きくは2つだ。

一つは、あくまで自分の観測する範囲ではあるけれど「ボードゲームの知識を通じたクイズの面白さ」がある程度広まったことが確認できたからだ。

ボードゲームのクイズ本を独自で作成された方、YouTubeやTwitter等SNSを通じオリジナルのクイズを配信された方、先日は有名クイズサークル「Quiz Knock」が「10問でマスター ボードゲームQ」と題したボードゲームにまつわるクイズを公開し(リンク先>https://quizknock.com/10mas-boardgame)、ボードゲーム界隈の著名人も多数挑戦するなど盛り上がりを見せた。

他に、観測できる範囲だけを取り上げても、全国各地のボードゲームカフェ・プレイスペースにて「ボードゲームのジャンルに特化したクイズイベント」の開催を見かけるようになった。

「ならば尚更需要があるのでは?」と意見も頂戴したが、仮に「私が新作クイズ小冊子を頒布します!」と声をあげてしまうと、先に登場した「他の製作者の方」が手を止めてしまうかもしれない。
 クイズは問題ありき、問題を作成される方ありきの世界。せっかく芽生えた「クイズ製作の芽」を、僕が意図せず摘んでしまうことは願ってはいない。
(とはいえ、これまで肩書きで得したことなど何もありませんが…)

もう一つが「挑戦したい気持ち」だ。

自己啓発本を読むと「自分にしかできないことをさらに尖らせ洗練させることが個性につながる」といった文言を見かける。
けれど、僕の考えは少し異なる。
自分が今できることをさらに追求する行為そのものよりも、今は「自分のできないことにどんどん挑戦し、可動域をより広げる行為」の方に興味が惹かれている。

4コマの執筆も稚拙ながら1年以上を迎えるも、未だ人気神絵師や売れっ子イラストレーターなんて世界からは程遠い。
それでも、簡単なポンチ絵程度ならばひょいっと描けるようになった。
クイズだけではなく「謎解き」「なぞなぞ」などを勉強・試行錯誤するうちに、知識一辺倒のクイズだけではなく、右脳や論理等を駆使したクイズも数問作れるようになり、ひいては、クイズそのものを苦手とされる方に向けてのアピールも多少なりともできるようになった。
次回8月の新刊は「クイズレシピ」と称し、あらゆる場面で活用できる各種クイズの「作り方を紹介する本」を頒布予定だ。

インタビュー等含めた雑談で、時折「次の作品はありますか?」と問われるたびに、僕は「自分の今できることではなく、自分ができないことに挑戦したいです」と答えている。
それは紛れもなく本心で、できないことがあるとつい手を出したくなる、ダメなら後回し、手応えがあればさらに挑戦、と、これはもう自分の意固地な性格を表しているのかもしれない。

補足すると、あくまで「小冊子」という形でのクイズ本は、よほどのことがない限り製作しない、という話だ。
僕は今もイベントがあるたびに、求められてもいないクイズを数問用意したり、動画を含めたヴィジュアルクイズ、音声クイズなど今も懲りずに制作・探究を続けている。何かのきっかけがあれば出題する気満々だ。目標は「3分間ひたすらクイズを読み上げるタイムレース」だ。

だからこそ「できること」ではなく「やってみたいこと」に焦点を絞り、次回イベントに向けてまた新しい本の作成に着手したいと思う。

さて、5ヶ月後に迫った秋に向けて、何を作りましょうか。



2020年6月7日日曜日

踏み出す一歩と「失敗」 僕が叱責を避ける理由

少々暗い話から綴ることを了承願いたい。

 僕の人生はこれまで本当に「怒られてばかり」だった。
 親に、先生に、クラスメートに、上司に、部下に、と、範囲は多岐に及ぶ。試験問題を間違えては、書類をミスしては、道順を間違えては、etc…失敗し反省する以上に「相手から」キツく叱責された。何かを行動するに従い、必ずと言っていいほど周りから「迷惑をかけた」とガミガミ怒られる、その繰り返しだった。
 いつからか僕は、怒られる最中に「どうして僕は怒られているのか」「失敗し悲しいのは、怒っている「そちら側」ではなく「僕自身」だというのに」ばかりを考えるようになった。

 失敗することは確かに周囲への迷惑を伴う。
 周囲への未配慮は広範囲に及び、時として、次への足掛かりを大きく削られるほどのダメージに膨らむ場合もある。
 周りへの配慮が足りず、自分以外の「誰か」も気分を害されることがあるだろう。

 それでも僕は「自分以上に相手を叱責する側の気持ち」に寄り添うことがどうしてもできなかった。
 良きにせよ悪きにせよ、行動した結果、その身で学んだ何かしらの結果が生まれたのであれば、それで十分ではないか。

 叱責といえば、昨年くらいから、僕が一人で好きに振る舞う「番次郎書店」の運営方針を変えることにした。
 そのモットーは「打席に立てる幸せ」だ。
 ボードゲームに触れた当初の気持ちを、出展側に立つなんて想像すらできなかった時の、あの「ブースの向こうの相手が神様に見えた」あの時の感動を忘れないようにしよう、そう心に誓った。
 それと同時に「同じことを惰性で繰り返す」行為は極力取り払うことにした。
 もっと具体的には
「出展する際は、必ず何かしらの新刊・グッズを用意しよう」
「最新刊が常に最高傑作となれるよう、全身全霊をかけて創作に取り組もう」
 そんな「挑戦心」溢れる気持ちで各種イベントへと参加し、本を用意し、チラシを作り、暑い日には冷たいおしぼりなどを配って回った。
 成果はどうあれ、結果、こうして現在まで諸活動を続けることができた。

 できなかったこと、至らなかったことなど、イベントの時々で反省するべき材料はたくさん産まれる。助言も、時に厳しい意見をも、いただくことも多かった。
 けれど、何より今の制作環境は「失敗を直接叱責する相手が存在しない」、それだけで本当に幸せに感じるのだ。

 どうして僕がこうまで「叱責」を避けるのか。
 それは叱責の目的が「相手の気持ちを沈ませる」ことにも派生するからだ。

 「反省を促す」と大義名分を打ち立て、これがダメあれはこうしろなど「相手のことを思う」があまりの各種アドバイスが、次第に「自分の主義主張を相手に通したい」ややもすれば「相手の反省する絵姿を確認したい(=気持ちを沈ませる)」ことへとすり替わる場面がまれに生じうるからだ。
 そうなると、せっかくのアドバイスも「言霊を用いての操作」へとすり替わる。
 作家の京極夏彦先生も著書「地獄の楽しみ方 17歳の特別教室」の中で「言霊は、心以外には効きませんが、心にだけは効くんですよ」と語っている。

 
 挫かれ、沈んだままの精神では本当に何も生まれない。
 落ち込んだ気持ちの相手に必要な助言は、的を射たアドバイスではなく「まずは浮上できるまでの休息」だ。
 執拗に(時に自分から)ダメージを受けた結果、そこでバタリと倒れてしまったままでは、次に向けて反省、挑戦する行為そのものを躊躇することに繋がってしまう。

 挑戦、すなわち「次の一歩を踏み出す」ことで、そこから新たな「選択」が生まれる。
 このまま進むも、別の道を探求するも、まずは「挑戦」の種を育むことに傾注しなければならない。

 何がとはいえないけれど、今週、僕は叱責されてもしょうがないほど無茶な行為をしでかした。
 それでも周囲は笑って受け答えし、僕も笑顔を作りながら「次はこうしよう」「次はもっとこうしたい」と前向きな気持ちで反省することができた。
 叱責され、萎縮しなかった、それだけでこうも軽く自分の気持ちや反省を受け入れられることに心底幸せを感じながら、僕はまた小冊子の執筆作業へと向かうことにした。
 
 まとまりのない気持ちを解きほぐすことは難しいけれど、この失敗から生まれた新たな息吹が、次にお会いできた時、また一周り大きく成長できた姿として認められますよう、これからも小さな当ブースを温かく見守っていただけたら嬉しいです。

2020年5月30日土曜日

実感なき成長 自粛期間制作日誌その10



「止まない雨はない」、なんてありきたりな言葉にもあるように、一時期は緊急事態宣言も発令されるにも及んだ本状況も、本当に、ほんの僅かながら、回復の兆しが見え始めてきた、そう思わせるここ1週間だった。

 ボードゲーム製作者の方同士のやり取りも、オンラインを通じたテストプレイ会の話題や、創作作品の頒布先情報や新作の進捗といったやり取りがツイート上を賑わせるなど、制作側の気持ちも上向きになったのかな、僕はそんな気配を感じ取った。

 一方で僕は、というと、相も変わらず次回イベントに向けて小冊子の原稿と格闘する日々が続いている。
 本「自粛期間制作日誌」も10回を迎えるというのに、生活のスタイルは、1週目どころか数年前に遡っても、なんら大きく変わることはない。
 
 小冊子制作もいよいよ佳境を迎え、パズル本、4コマ本、ともにほぼ全ての内容がひと通り出揃った。残すはレイアウトやデザインの細部修正といったデコレーション部分の作業に着手する。進捗は概算で60%、だろうか。

 目の前に控えたイベントが「開催される」前提で動く、というと楽観主義と取られるかもしれない。けれど、僕の立場は至って変わらず、イベントがあろうとなかろうと、創作に対する熱意だけは喪失させないように、日々自分のできることを模索しながら少しずつでも前へと進む、それだけだ。

 今回ウイルスの件に限った話ではないが、出口が見え始めた頃に決まって飛び交う言葉がある。

「自分はこの間、何をしたのか」

 夏休みが終わる1週間ほど前、テストが始まる3日ぐらい前、卒業式を迎える直前、etc…。 
 先々回のPodcast「万屋楽団のそれなりな日々」でも、MCのサンジョウバさんからもこんな言葉が飛び出した。
(万屋楽団のそれなりな日々 第88回 スプフォンショッキングVol.3 「りにょりさん」の巻 https://yorozuyagakudan.com/2020/05/08/podcast088/


「(配信日は5月8日)少なくとも5月末まではお店開けれないだろうなっていう算段があったのよ。じゃ2ヶ月間あると。じゃ「あれもできるこれもできる、もうこの時間を有意義に過ごすしかない」と思ってたわけですよ。で、1ヶ月経ちましたよ。何やりましたか?って話でね…(中略)なんもしてないのよ。なんもっていうと語弊があるけど、やろうと思っていたことの10分の1もやってないわけですよ。(後略)」

 あ、イタタタ…。


 僕のここ最近約2ヶ月間を改めて振り返ると、朝はボードゲームクイズ動画の作成、昼はその延長で明日の動画のアイデア出しや読書、夜は4コマ執筆、の繰り返し。動画作成を終えた今はそのまま小冊子制作へと作業がスライドしたに過ぎない。
 「何もしていない!」と焦る気持ちが100とはいかないまでも、この期間のためにと買った本は多くが積読のまま、欲しいボードゲームも残さず入手できたわけでも、購入したとしても少しルールブックを読んだだけ、など、言ってしまえば「やりたかったことを全てやりきった。この期間中で自分は大きく成長できた。充実した!」と大手を振って宣言できるだけの実感は、恥ずかしながら「無い」。

 そんな中、ひとつだけ気がついたことがある。
 環境を日常へと昇華させる大切さだ。

 前々回の当ブログで「環境」に関する記事を綴った。

(「番次郎の盤上万歳‼︎ 「環境は自らの意思で 自粛制作日誌その7(2020年5月7日)」http://hibikre.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

 あくまで僕の経験則だが、ツラい状況を「環境」と身体が割り切ってしまうと、どんな場所であろうと(無自覚のまま)適応しようともがき始める。激務のため連日床で眠る職場だろうが、暴力当たり前の職場だろうが、2、3日もすると体が日常の異変に気づき、現在の異常な環境こそ「現在の日常」だと錯覚するからか、徐々に順応を始める。
 派生する箇所はいくつかあるが、例えば、身体が異常を発する何らかのサインに自分では気が付きにくいことにもつながるのだろうか。

 先々週に一旦ピリオドを打った「ボードゲーム動画クイズ制作」も、制作する間は、アイデアの出ないツラさを上回る「制作がなくなったとき、今後自分は何を続けたら良いのだろう」といった不安ばかりが先立った。
 小冊子制作に本腰を据えようと決めた翌朝は、まるで鉛のリストバンドを外したかのように、身体が宙に浮くほどの軽さを味わった。
「この何十何百キロ単位に及ぶ重圧を、自覚することなく(ややもすれば自覚することを自ずから避けていたのかもしれない)身にまとっていたのか」
と。
 今思い返しても、あの頃以上の情熱を注ぎ制作を持続できる自信は、当の自分自身にすら無い。


 苦しい状況は、いわば身体に重圧というリュックサックを担いで山道を登る状態だ。
 それを見ている周りは「なんて大変な思いをしているのか」と取られるかもしれない。
 リュックを担ぐ僕からすると、自分の想定した重さに比べたら「なんとかなるかな」程度にしか考えておらず、ツラいツラいと泣き言を吐きつつ、制限された行動の中に「自分でできること」を見つけられたときは、浮き立つ気持ちで満ちあふれた。

 もちろん今の苦しい状態を甘受するわけではない。先に触れたように、身体の発する異常サインは自分では気が付きにくいものだ。
 しかし、重さやツラさを抜けたその先には、自分の身に何かの形で筋肉がついてはいないだろうか。

 それは「レイアウトが上達した」「イラストが多少上手くなった」といった「自分でもなんとなく予測のできる部分」に留まらず、自分では気がつかなった影で支える部分の筋肉、精神面、生活スタイル、等々、言うなれば「自分の目が行き届かない部分」にこそ、本当の成長が見られるのではないか、これまでの拙い人生の中、そんな確信だけが僕の根底に潜んでいるようだ。

 草木の成長も、親戚の子供も、成長を見届ける側とは、四六時中成り行きを観察する側というより、むしろ「途切れ途切れに成長を窺う」側の人間だ。
 いつも目をかけているからこそ、ミリ単位の成長に目が届かない。一旦目を離すことで改めて成長を目にできるという、あくまで経験則だけれど、僕はそんな確信を持っている。

菜根譚 前集162項を引用したい

善を為すも其の益を見ざるは、草裡の東瓜の如し。
自ずから応に暗に長ずべし。
悪を為すも其の損を見ざるは、庭前の春雪の如し。
当に必ず潜かに消ゆべし。


善行をしても、その善い報果が目に見えないのは、たとえば草むらの中の瓜のようなものである。
それは人には見えないけれど、自然に生長して行く。
(これに対して)悪事を重ねてもその悪い結果が分からないのは、たとえば庭先に積もった春の雪のようなものである。
それは知らないうちにいつの間にか消えるように、必ずその身を亡ぼしてしまう結果になる。


 5月が終わりを迎え、徐々に開店を再開するカフェ・プレイスペース等のお知らせも目立つようになった。
 久方ぶりにご挨拶に伺った際、相手から
「だいぶ成長しましたね」
 という言葉をかけてもらえるよう、心も体も成熟しきった齢42歳の僕ではあるけれど、もうしばらくの間だけ頑張ろう、と、改めて誓うことにした。

 行き過ぎた無理・無茶だけには充分注意を払いながら、これからも少しずつ、少しずつ、前へ前へと向かいたいと願う。
「頑張りました!」と笑顔でお伝えできますように。



2020年5月22日金曜日

懸命に動ける幸せ 自粛期間制作日誌その9

 料理の話をしたい。

 僕の思う「料理のできる人」とは、高級な食材をふんだんに使用し、ゴージャスで美味しい食事を提供する人、とは一線を画する。
 冷蔵庫の中身や台所の調理器具を一目見るや「ありあわせのもので何か作るね」とサッと調理に取り掛かることのできる人の方だ。


 ある方を頭の中でイメージしながらペンを進める。
 僕の心から尊敬するボードゲームの製作者もその一人で、国内外数多くのボードゲームに精通された方、を抑えて、例えば手元に紙と鉛筆とトランプしかない場所の中、周りがアッと驚くほどの面白いゲームを皆に提供できる、そんな方だ。
 制作やプレイを通じる中で脳内に蓄えられた豊富な知見は、意図しない場所でポロッと発揮される、そんな一遍をも窺える。

 他にも、僕が実際にお会いすることのできた多くのゲームクリエイターは、100円ショップや商店街の軒先などで数多溢れる雑貨の類を目にするや否や「ゲームに使えるかも」と妄想したり、制作が一段落した直後やイベントなどで作品を販売される最中でも「面白いゲームを考えた!」とアイデアを巡らせる、そんな人ばかりだった。


 今回のコロナ禍の中、僕はオンラインの場を通じ様々な「動き」を目にした。
 「できない、どうしよう」
 そんな悲鳴にも取れる叫びが渦巻く最中、苦しい身のうちを省みず、常に周囲へと配慮を伺いながら、自分の中でできうることは何かを考え、少しでも立ち上がろう、前を見ようと懸命に行動を働かせる、そんな方々を大勢目にすることができた。
 具体的には、自身の作品をPnP(紙ペンゲーム形式)で無料配布された方、イベントの代用にとV-tuberなどを活用し広報や同卓の機会を設けてくださった方、Zoom等を活用したテストプレイ会やボードゲーム回を提供された方、自身の舞台やコンサートなどをネット配信された方、オンラインを通じたインタビューを中心に毎週のPodcastを展開された方、etc…。
 

 何もできない、どうすることもできない、
 そんな誰もが自己のストックを「0」と見なされたような今回の自粛期間の下、各々の個性に合わせるかたちで様々な媒体を産み出すことのできる、いわば「独自の+(プラス)エネルギー」を数多く目にする機会があった。同時に、そんなアグレッシヴな方々に何よりも僕自身が心を動かされた。
 クラウドファンディングにはわずかばかりの支援を添え、回数券等の販売は自分の無理しない範囲でのお金を落としていった。総額なんて数えるのも野暮というものだ。


 緊急事態宣言から快方へと向かう、そんな兆しがある昨今とはいえ、いまだ世間は予断を許さない状況だ。緊急事態解除後もしばらくは大幅に活動の制限を余儀なくされるだろう。
 そんな中、今や遅しと待ち構えているかのように、来月以降はボードゲーム界隈にも、更には制作側としての動きも更なる活発となるであろう動きが見られる。全国各地のボードゲームカフェ・プレイスペースが相次いで再オープンし、7月の北海道ボドゲ博2.0、8月の静岡アナログゲーム祭り、6月にはアークライトが主催するゲームマーケット関連のイベントもアナウンスされた。
 
 一方で僕は、というと、その日暮らしが板についたかのように、この先の状況など微塵も考えられるはずもはなく、いつもと変わらず小冊子の制作に明け暮れる毎日だ。
 目の前にガンと「自分のできること」を置き、その日の体調に左右されながら、少しずつ次のイベントに向けて作業を進めている。
 ありがたいことに日課の4コマは7巻目を目前に控え、次なる小冊子「ボードゲームクイズレシピ集」もカタツムリのような歩みで着々と進行している。
 前回もブログに記したように、明日は何が起こるか本当にわからない、未来など想像できる余地もない、だから「今」を懸命に生きる、そんなありきたりな言葉を並べながら、次へ、次へ、と懸命にもがいている。
 実情を話すと、資金(預貯金)は限りなく0に近い。7、8月のイベントで売り上げが伸びなかった場合、次回以降の出展を永久に見送ることも視野に入れるている、そんな現状だ。それでも今回のコロナの惨禍を真正面から受けた企業、店舗が抱えた苦しみとは比べるまでもないが。

 それでも僕は制作を続ける中、ある日を境に「土俵際へと追い詰めらながら、それでも前を向き、必死に歩くことのできる自分」の存在へと自然に前を向く目線の変わり映えを実感できた。
 何の肩書きも、何の取り柄すらも持ち合わせていない自分が、画面の向こうに存在するであろう「自分ではない『誰か』」に向け、ひたむきに努力をし、創作面も含めたエネルギーをオンライン越しに放出している、そんなナルシズムに似た心の動きを自覚するようになった。
 その瞬間からだろうか、僕はいつしか絶望に溺れる地点からの脱出を図ることができたように感じる。
 
 制作できる幸せ。もちろん自分に向けての満足が主体となる行為ではあるが、そんな僕の創作活動を、一人でも二人でも、喜んでくれる方がいる。
 自分の他の「誰か」に向け、僕はこれからも、自分のできることを、無理のない範囲で、少しずつではあるけれど頑張ろう、そう心に決めた。資金繰りは?まあ、結果としてついてくるものだろうか…。


 今回の自粛期間を経て学んだ「0の状態からも懸命に生きることのできる幸せ」とりわけ「冷蔵庫のありあわせで美味しい料理をつくることのできる料理人」を妄想しながら、今後も、そしてこれからも、自分のカラーで活動できますよう、頭のどこかに「今を頑張れ!」という言葉を刻んでおこうと願う。

2020年5月16日土曜日

悪手をつぶしながら 自粛期間創作日誌その8

 今年読んだ多くの著書(具体的には「二十一世紀の啓蒙上・下(スティーブン・ピンカー著)」など数冊)の中で作者が特に言及していたことは共通して「未来はわからない」だ。

 確かにほんの半年前まで、今回のウイルスが世界規模もの厄災をもたらすこと、我が国で蘇が流行し、ホットケーキミクスやマスクが常時品切れになることなど、経済学者や占い師も含め誰が予想できただろうか。

 未来はわからないし、目の前の出来事なんて知る由もない。
 そんなとき、僕は「事実」を大事にしている。
「事実」は「真実」と違う。
 自分の意見に根差す「事実」に対し、「真実」には「相手から見て自分は正しいと思った、などの意見」といったニュアンスが混じってしまう。
「本来はこうだ」「今までがこうだった」と「真実」ばかりを並べる人と僕の意見が衝突してしまうのは、本来自分の考えと地続きとなるはずの「事実」がなおざりにされているように感じるからだ。
「良い学校に入るため勉強しなさい!」、「病気で倒れないよう体を鍛えなさい!」と注意されても、自分の身に危機が迫る状況にならないと動けない性格にも繋がるのかな、あ、いたたた…。
 

徒然草第百十段の言葉を引用する。

 双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。(後略)

(現代語訳)
 双六の名人と呼ばれている人に、その必勝法を聞いてみたところ、「勝ちたいと思って打ってはいけない。負けてはならぬと思って打つのだ。どんな打ち方をすれば、たちまち負けてしまうかを予測し、その手は打たずに、たとえ一手でも負けるのが遅くなるような手を使うのがよい」と答えた。


 プロ棋士に限らずボードゲームを得意とする人が「常に先を読む力」を大事にする中、先ではなく「明らかな悪手を一つひとつつぶしながら、その中で自分が考えた負ける確率の最も低い手(=最善手)を打つ」に目先を置いていることが興味深い。 
 余談ではあるが、吉田兼好もこの後に「身を治め国を保たん道もまたしかりなり(研究者も政治家にも言えることである)」と続けている。

「未来がどうなる?」なんて専門家でも有識者でも、ましてや僕にだってわからない。
 有り体に言うと
「ボードゲームカフェ・プレイスペースが通常通り運営再開できる?」
「今年のゲームマーケット秋は開催される?」
なんて、どれだけ悲観的・楽観的に捉えようとも、僕自身が納得できるだけの結論には至らない。


 だから目の前の悪手をつぶしながら少しずつ前に進もう、と、最近は自分に言い聞かせている。
「事実=自分が「良い」と感じたこと」に照らし合わせて行動しよう、と日々心に留めて行動するよう心がけている。


 人気ボードゲームPodcast「ほらボド」今週配信された第313夜は「オンライン収録「ザ・ボドゲノンフィクション①~自粛の実情~」」がテーマだ。
 話題に上がった「クラウドファンディング等を活用した支援」も、僕にとって「自分が良いと感じた事項」に通じる行動のひとつだ。
 見返りを求めた未来への先行投資、ではなく、今困っている相手へ奉仕するような気持ちで、なけなしのお金を投入している。
 もちろん「無理をしない」に、が前提にあって、の話だ。
「ボードゲームカフェ デザート*スプーン」店長の加藤さんも自身のツイキャスライブで「(Board Game Selectionへのクラウドファンディングは)無理をしない程度に」と言葉を添えた。
 支援をする側が倒れてしまうようなことは、支援をされる側に余計な気苦労をかけてしまう。必然的に、前々から資金繰りに苦しんでいる自分ができる支援など情けないくらい微々たる額だ。
 とはいえ、目の前の困っている人を看過できない自分は「気は心」とばかりに支援を申し出ている。

 未来なんて、本当に、誰にもわからない。
 さらに続けると、僕がこの先「番次郎書店」の屋号を掲げながら末長く創作を続けていることすら未知数だ。
 何よりも、継続云々は僕自身が一番わかっていない。
「次回イベントの参加は不明です」なんて言葉が上がってもおかしくないくらい、創作活動は常に「背水の陣」なのだ。
「次に期待します」と意見を頂戴しても「次があるかどうかもわからない」し、「番次郎書店の野望は?」と問われても「(まずは)目の前のことに精一杯努力する」ことしか、今は答えることができない。

 そんな先行きの見えない中、「悪手」とりわけ「人の嫌がること」を一手一手つぶしながら「(自分の考えた)自分と相手、相互が幸せにつながる道は何か?」を、これからも模索しながら行動しよう、相手と自分が共に笑いあえる道を選び、突き進もう…
 綺麗事になってしまうけれど、ここ数日はそんな言葉で自分を鼓舞しながら、目の前の創作活動に勤しんでいる。

 7月はボードゲームイベント「北海道ボドゲ博2.0」が開催を予定されている。
 未来を憂いて動けなくなるより、今はただ「こんな自分でも応援してくれる方々」のため、間近に控えたイベントへ全力を傾注するのみ、だ。




2020年5月9日土曜日

環境は自らの意思で 自粛制作日誌その7

 養老孟司著「ねこも老人も役立たずでけっこう」の本文に「脳の適応能力の高さ」についての一文を見つけた。

 脳は、非常に適応性が高い。だから、変わるんです。でも、人間はそれに気づいていない。感覚を通して変わっても、自分が変わったとは思っていないんです。それは意識が騙しているんですね。「私は私でしょ」「昨日の私と今日の私は同じ」なんて、意識は言い続けるものなんです


 自粛生活も早6週間を迎え、いまだ生活はオンラインの場が主体となっている。
 SNSの情報をすべからく追っているわけではないけれど、混迷続く状況の中、オンラインの飲み会を開いたり、ZOOMなどを活用したリサイタルやテストプレイを行なったり、など、製作者の銘々が独自の持ち味を発揮しながら外部との接触・交流を図っている。

 フリーの生活へと身を投じたときの話。
 肩書きもお金も瞬く間に消え、呼応するかのようにどんどんと人が離れていった。
 貧しさや苦しさ、寂しさで途方に暮れる中、それでも手を差し伸べ、制作を応援してくださる方々がいらっしゃった。
「渡る世間に鬼はなし」と揶揄されるように、大都市圏での生活の中にも温かく人情味溢れる世界がある、そう教えてくれたのは、何よりオンラインも含めた周囲の環境であり、拙い作品をSNSで公開してもすぐに「いいね」と反応してくださるフォロワーの方々だった。
 今でも貧しさは人を選別する一番の妙薬だと考えている。


 創作の話に戻す。
 昨今の情勢如何を問わず、外部との接続が遮断された生活は想像以上に体が何かしらの「飢え」を訴える。
 飲み物、食べ物、物欲、何よりも人恋しさ、笑い・感動などエンターテイメント、等々、体が発する「楽しさを求める」サインは、何もない生活の中でも日々膨らむ一方だった。
 飢餓感は精神を否応なく蝕み、ツイートの内容も弱音ばかりが並ぶ日もあった。連動するかのように体力、体調等を大きく崩してしまうこともしばしばあった。


 人恋しさに負け、こちら側を搾取したり軽くあしらったり、と、明らかに「悪い」と思しき人とも我慢して対応する、一時期はそれも日常の一部だった。
「本当は良い人だから」
 そんな前置きを渋々飲み込み、執拗にこちらの精神面を“なじる”相手にも笑顔で対応する、制作を続ける中、そんな相手からそっと間を置くようになったのも、制作に没頭する中でそれほど日も経たない中での出来事だった。

 つい先日は「BGA」などに代表されるオンラインゲームに触れる機会があった。しかしながら、どうしてもそれら電子ゲームに「面白さのエッセンス」のみを抽出しただけのような素っ気なさを感じ、言うなれば、アナログゲーム環境下で周辺に位置取る「ノンバーバル」なコミュニケーション、口で、鼻で、耳で、皮膚で、主に「目に見えない部分」が逆に刺激される結果となった。

 サン=テグジュペリ著「星の王子様」の有名な一説を引用する。

じゃあ秘密を教えるよ。
とてもかんたんなことだ。
ものごとはね、
心で見なくては
よく見えない。
いちばんたいせつなことは
目に見えない。

 オンラインでの生活を通じ、常々頭をもたげていた「感情面を揺さぶられる相手、行為とは何か」といった問題が、現実として可視化されたように感じる。
 
 それは決して目に見えるものではなく「肌感覚」という曖昧にカテゴライズされた形の中で、己の心を根底から揺さぶりつつ、自分の視野から外れた世界の中で、ゆっくりと歩みを進めているように感じた。
 見えないからこそ、より体内のセンサーは過敏になり、自分の進みたい道へと誘うかのように、周囲の否定や誘惑の言葉から距離が開き、その一方で、理解し応援してくださる方に向けて次へ、次へと創作の手が伸びる、と、そんな無意識下でのローテーションが更に強さを増した、そう実感する1週間だった。

 しばらくはまだ一人の生活が続くことになるだろうと思う。
 それでも「こんな僕を一人の人間として受け入れてくれる」周囲の方々をこれからも大切に、感謝の気持ちを忘れずに、何よりも自分の提供できる範囲で楽しさを届けられるよう、自分の意識を自分の求めんとする方向へ、と、そんな過ごし方で乗り切っていけたら、と心から願う。
 
 最後に金子みすゞ「星とたんぽぽ」の詩から引用する

青いお空の底ふかく
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

 環境を、翻って、自分の向かうべき進路を、大きく変える存在は、何より「目に見えぬものを感じる」自らの意思なのだ。

2020年5月3日日曜日

意識から継続へ 自粛制作日記その6

外出自粛制作の、ちょうど4週間、1ヶ月目を迎えた。

4コマも動画クイズ制作も、あれからほぼ毎日続けている。
反応は、以前に比べ落ち込む一方だ。

駄作、ではなかった(はず)。
普段からそう反応の多くはない自分でも、渾身の作品に思ったほどの反応がもらえないと、意識せずともモチベーションは下降の一途だ。
「継続させること」「その先にはもっと素晴らしい作品が生み出せる」と自分を鼓舞させつつ手を動かすことは本当に難しい。
翻って「継続」はとても大変だ。
さらに掘り下げると、「良いと思ったことを継続すること」は本当に難しい、この1週間でそんな気持ちをより強く実感することができた。


今週月曜に万屋楽団様のPodcast「万屋楽団のそれなりな日々」や、ボードゲームカフェ「デザート*スプーン」様のツイキャスライブにお邪魔する機会に授かった。
意図しての露出ではなく、本当に偶然に。
「出てみませんか」の声がかかったり、コラボ募集に応募したり、と、周りのお声があり、それに調子の良い私がホイホイと乗ってきた、という形だ。

その中で僕は「頑張らない」といったフレーズを何度か口にした。
「頑張ると、求める「頑張り」を行わない他人に厳しく当たってしまう」
「頑張ると、「今日は頑張らなくていいや」と自分に甘えてしまう」

力むことなく、日常の生活に「新たな習慣」を取り入れる行為は何重にも難しい。
どれだけ「健康にいい」と意識しても、早朝の人の少ない涼しい時間を見計らって軽くジョギング、など、本当に意識しなければ最初の数日で挫けてしまう。
それと同じように、意識して新たな習慣を取り入れるためには、実感できるだけの高い効果と、もう一つ「応援する自分」の存在がどうしても必要となる。
モチベーションの維持は、何より「自分自身へのエール」だ。
内なる声と格闘しながら、それでも前に進もう!と強く推進させる力は、自分にハッパを上手くかけることができるかできないか、に結局は帰結する。
今はまだ詳しく分析できないけれど、自分で自分を応援できなくなったとき、弱い僕はすぐさま歩みを止め、怠惰の誘惑へと簡単に落ちてしまうだろう。


「環境に適応できたもの「のみ」生存できる」といった進化論を持ち出してまで自分の軸を正そう、とは思っていない。

ただ、ライフスタイルが急変し、目の前が暗くなった場に置かれても「こうした中で、自分のできること、周りに手助けできることとは何か」それら手がかりをひたすら手探りで当たりながら、無理をすることなく、大きく変化させるではなく、できる範囲から、少しずつ、足場を崩していく。
「今日はこれくらい」を、無理せず継続するうちに、できる範囲のことが広がるのではないか。これじゃまるで「拡大再生産」と同じだ、なんて。

僕の1ヶ月は、そうした声と共に、足早に過ぎ去っていった。

継続のモチベーションは?
騙したり褒めたり、を繰り返しながら、自分を応援し、励まし続ける。
いつ果てるかもわからないような環境の下、持続的に「できること」を意識すること。
心の中の雑草を毎日根気強く抜いていくことで、次第に雑草の生えないような土地として生まれ変われることを夢見る、それに近いのかもしれない。

「心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる」
多くの著名人が座右の銘とするウィリアム・ジェイムズの言葉を改めて眺めつつ、そんなことをぼんやりと考えた。

4コマは400話を目前に控え、動画制作は明日で3週間目を迎える。
キャスの中でも引用したジャイアント馬場こと馬場正平さんの言葉を改めて引用する

アナウンサー「5000試合出場達成おめでとうございます。次の目標は6000試合ですか?」
馬場「5000の次は5001」

そんな僕だが、3日後の5月6日に、晴れて42歳の誕生日を迎える。

2020年4月26日日曜日

熱伝導の話 自粛期間制作日誌その5

3.11、震災の話を少しだけ話す。

僕の実家である鹿児島は、東北から距離はあったものの、連日流れる復興関連の番組に、ついに両親が根を上げるようになった。
震災関連の報道が流れるたび「テレビを消せ!」と怒鳴るのだ。
しばらくテレビから離れるどころか「復興に向けて頑張ろう!」といった言葉すら、あたかもアレルギーでも生じたかのように強く拒否を示した。

こうの史代著「夕凪の街、桜の国」のあとがきにも、著者であるこうの氏が「戦争を怖いだけの昔話にはしたくなかった」と言葉を綴った。
強いストレスに接すると、人間の身体はそれに強く抗う、だけではなく「ストレスを自ずから避けよう」とするのだと、これも脳科学か何かの書籍で目にした。

忘れよう、なかったことにしよう、
そう落とし込むことで、目の前の苦しみから一時的に逃れることができる。
決して「逃げちゃダメだ」といった自発的な行為ではなく、ストレスに耐えきれなくなった身体の拒否反応、防護反応ではないかと自分は考えている。

都内で発令された緊急事態宣言から、早1ヶ月を迎える。

先日、今日と、主催を手がけるゲームマーケット公式のTwitter(@GameMarket_)から「#知ったかゲムマ」「#エアゲムマ」開催のお知らせツイートが流れてきた。
「いろいろ自粛で心も憂鬱 そんなストレスをぶっ飛ばせ!」
そう銘打たれた「架空のゲームマーケットを創作するツイート」は、ゲームマーケット当日を予定した土曜日、多くの出展予定者、来場予定者が「#エアゲムマ」のタグをつけ盛り上がりを見せた。
実際のブース運営や、はたまた、ありもしない空想上の現場など、参加者の一人ひとりが、あたかも青海展示棟の様子を実況するかのように、我も我もと様々なツイートを展開した。

目を逸らしたい現実。
それに真っ正面から顔を上げる行為は嫌が応にも大きな苦痛や絶望を伴うものだ。

それでも、逃げることなく絶望を飲み込み、次へ、次へと前を向く姿勢、時にそれは己が苦痛をさらに伴おうとも、挫けたものに手を差し伸べ、うつむく人間一人一人の手を取るような姿に、僕は見て取れた。


ニーチェもこう語る。
「あなたがたが絶望におちいっていること、そこには多大の敬意を払うべきものがある。なぜなら、あなたがたはあきらめることを学ばなかったのだから」
(「ニーチェ著「ツァラトゥストラはこう言った」第四部 「「ましな人間」について」より)

逃げなかった。
走り出した。

その熱量は、周囲に伝播し、周りを心強くサポートする。

制作の熱を閉ざし、希望を絶やさんとする存在は、いつの時代も、厄災の審判を下す神様でも、恐怖に陥れる悪の大魔王でもなく、すべからく人間自身の行動に帰結するものだ。
しかしながら、逆もまた同じ。
頑張ろうという小さな熱量もまた、相手の心へと強く伝導する。
熱が熱を呼び、ろうそくがたいまつへ、たいまつから照明灯へ、と呼応するかのように、次第に大きな光が灯され、人々の向かうべき道先を照らす。

「正直いまは「前向いて行こうぜ」なんて軽々しく口にできる状況ではなく、本当に生きるか死ぬかだし、精神的なものも含めて病気は増加し、犯罪も増加するだろう。それでもなお、ゲームを作って行かなくてはならないと思う。」
(引用元 ;https://twitter.com/kariyakeiji/status/1253862927662084099?s=21

ゲームマーケット事務局長の刈谷圭司氏は自身のツイートでそう語った。

 僕が目指さんとする制作の根本は、どうやらその辺りに眠っているのではないかと最近は考えるようになった。
 創作を動かすエネルギーとは、泉の如く自然と湧き出るものではなく、周りの創作熱に感化される形で、己が体内に秘められたエネルギーが周りと強く共鳴するかような、そんな形だ。

 だから僕も、何か手を動かそうと決めた。
 絶望に真っ向から立ち向かい、決して逃げることなく、少しずつ歩みを進めよう、そう改めて誓った。


 3月末から続くこの自粛期間日誌も早5週目となった。
 来週末は5月、新緑の季節を迎える。
 見る者を楽しませる草花が役割を終え、種子を育み、若い木々へとバトンをつなぐ時期とされる。
 自分に貢献できることは何か、なんて大それたことなど考えるに及ばない。けれど、僕が今できる全勢力を作品へと傾注できうるならば、小さくとも何かしら周囲を動かせるに違いない。

そんなことを願い、僕は今日もまた4コマに動画にと悪戦苦闘するのだった。





2020年4月19日日曜日

春キャベツの話 自粛期間中の由無し事

コロナ禍の御時世ではあるが、春本番を迎えた今の時期に春キャベツが店頭に並ぶ。
普通のキャベツより数倍も甘く、生でも茹でてもOKのオールマイティ選手だ。

春キャベツが甘い理由を、耳学問ではあるが「厳冬を迎えたから」と知った。
厳しい環境を迎えると、「ジッと耐えられる」よう、キャベツ自ら糖分を生成し、多くのエネルギーを蓄えるのだという。

この1週間も、先週と同様、限られた範囲の中で、自分のできることに傾注し日々を過ごした。
ペンとさいころのろいさんらが主催の「VAGE」にて初のオンラインイベントに参加した。
先週くらいから「毎日ボードゲーム動画クイズ」と称し、パワーポイントやフォトショップ等を駆使した映像クイズの開発、再現に時間を取った。

先週無事に入稿を終えたことだし、この1週間はもっとぐうたらしても良かったのかな、とは思う。

それでも何か手を動かさなければ、落ち着かなかった。

中野kurumari店長のウエノさんと軽くお話をする機会があった。
曰く「少しでも会話のやりとりがあると楽しいですね」
閉じこもる生活の中で一番苦痛なことは、自分にとって何より「外部と直接のやり取りが遮断されること」だった。
巷では「三密」「ソーシャルディスタンス」の言葉が飛び交い、相手との距離を遠ざけて生活するよう叫ばれている。
金銭的なやり取りは元より、何気ない日常の会話すら阻害されることは、こと独りの生活が長い自分にとってもやはり苦痛でしかなかった。

ニンテンドーSwitch「あつまれ!どうぶつの森」も僕のTLでは活況だ。
デザインを遊んだり、珍しい魚を釣り上げたり、といった従来の楽しみ方のほか、株価に相当するかぶのやり取りのほか、オンラインコードを駆使し、他のプレイヤーの村へと遊びに行く、招待する、そんなプレイスタイルを多く目にする。

オンラインゲームのフレンドコードをTwitter上でやり取りするなど、ボードゲームも、直接遊んだプレイ風景や感想をやり取りするスタイルから、インターネットを媒介し遠方の知人同士でワイワイプレイする、といったスタイルも、この3、4月くらいから頻繁に目にするようになった。

僕は、というと、相変わらず「自分にできること、提供できること」を日々考えながら変わらぬ毎日を過ごしている。
毎日制作するボードゲーム動画クイズも、一人黙々と、というより「楽しんでもらえる相手」を目の前に置くことが何よりのモチベーションだ。
そうした意味では、一人孤独に頑張る、なんてカッコいい姿ではなく、やっぱり努力した目線の先には相手の喜ぶ顔がある、ひいては「一人孤独に生きる」なんて、やっぱり自分には難しいのだろうと思う。

コロナが開けた頃、ちょうど暦の上で初夏を迎える。
5/6といえば、約3週間後に控えた昨年のゲームマーケット春2日目に向けてチラシやポスターなど細かな部分の制作を開始した時期であり、ついでに加えると、自分の42歳の誕生日でもある。
ゲームマーケット当日は5月にもかかわらず日中の気温が30度を超える日だった。
米大統領夫人が御台場にいらっしゃるとのことで、都内近隣はゴミ箱が封鎖されるなど厳戒態勢が敷かれていた。
昨年は昨年で、(気候の面とは別に)何かしらの制限があり、そんな中でも「仕方ないね」「こう対策するといいよ」と様々なアイデアが飛び交ったことを思い出す。

冬季に蓄えた養分が、暑い夏を前に、遅咲きで芽吹く頃。
同時に農村では田植えが始まり、苗床で育てられた稲が水田へと植えられていく。
ひとつの結果が生まれ、同時に、そこを起点として、始まりを迎える。
5月が間近に迫ると、僕は未だ暁を覚えぬ頭でそんな言葉を妄想する。

「ともに頑張りましょう」
今はただひたすら「自分のできることをこなす」のみだ。

2020年4月12日日曜日

多くの目を持つ「チカラ」

毎回楽しみに拝聴しているスプーンラジオ(ポッドキャスト)「万屋楽団のそれなりな日々」第84回が先日配信された。

リンク先「万屋楽団のそれなりな日々「第84回 3月のLight and Geekと営業自粛について」の巻」」
https://yorozuyagakudan.com/2020/04/08/podcast084/

今回は特に京都府に店舗を構えるLight & Geek店長を務めるサンジョウバさんの経営手腕が(冒頭のアサトさんのお話も含め)評価される回だったように感じる。

実際に聞いてもらうと早いが、来店者数、新規入会者数、曜日ごとの来店者数や一人当たりの滞在時間、席数に至るまで、3月の集客情報を様々な角度から俯瞰し、売り上げや客層の詳細に分析する回だ。

僕は経営面に関しとんと素人だが、拝聴しながら、サンジョウバさんの持つ「多くの目」が、すごく素敵で、たくましいと感じた。

多くの目を持つことは、持ち前の強さばかりではなく、メンタル面もコントロールすることができる。
ざっくり野球で例えると、ストレート一本で勝負する投手と、様々な球種を使い分ける投手と、で、バッターに対する対応が異なる。投球前に悩む量は前者が、仮に崩れた場合の悩む量は後者が、それぞれ比較的負担が少ないと言える。

多数の視点を持つことは、周りを見る視点であり、ひいては「自分を省みる視点」を持つことにつながる。
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」は孫子の一節からの引用だが、さらに掘り下げると、自分を知ることで余裕が生まれる。余裕が生まれると、適度に相手を牽制しつつ硬い守りに入ることができる。そして生まれた余裕を持って、周りに手を差し伸べることもできる。

戦術の面でも、予備戦力を多く保持する戦法は、特に浮動状況下で真価を発揮する。

(もちろん、ボードゲームや囲碁・将棋・麻雀などを嗜まれる本ブログの読者にはブログにまとめるべくもなく自然と身についた話ではないかと思うが。)

周りに差し伸べたその手は、別の人間がさらに手を伸ばしてくれる。そうして次へ、次へ、と等比級数的に幸せが連鎖し、増幅する。

知識なり、経験なり、とっさの場面で打つことのできる「次の一手」を幾つ引き出しとして控えているか、は、先のアナログゲームならば特に「実力」につながると直感的に理解できる。

ラジオ配信の途中にはこんな言葉も飛び出した。
「みんな(お客さんが)お金を払う気満々で来ている」

緊急事態宣言が為され、多くの方が外出の自粛、行動の制限を余儀なくされた。
悲観する方、逃避する方の一方で「次はこうします」「これから○○します。ご一緒にいかが」と、先へ先へと視点を変え、周りに手を差し伸べる方も数多く目にする機会もあった。
ボードゲーム界隈もボドっていいとも!の翔さんをはじめ、ツイキャスライブ、YouTube配信等で新作の応援をされる方、ペンとサイコロのろいさんが展開する「まいにち共通広場Live!」のTable top simulator等、オンラインでのボードゲームプレイも活況を見せている。

「ダメなら次」の目線を変えるチカラ、手を伸ばすチカラ、
そのためには苦しくツラい状況下の自分を慰め癒し、時に騙し騙し体を動かしながら、キッと顔を前に上げる強さも必要だったはずだ。


暗い話題が飛び交う昨今、こうした「人と人との温かみ」を実感する配信回だった。
僕もそんな「周りを幸せに」する、できる人間に向かうために、もっともっと勉強しよう、読書しよう、と、心に決めた。

神様のゲーム オンラインイベントに向けての僕の考え

 来週27日(土)、28日(日)は「ゲームマーケットライブ」と称された、オンラインを通じたボードゲームのイベントが開催される。  各ブースは動画配信やライブ配信を通じたイベントを持ち込みで企画し、また主催となるブースでは各イベントも開催されるとのこと。来場者は好きなブースをまわり...