番次郎の盤上万歳!!: ボードゲームにおけるハウスルールについての考察

2017年6月25日日曜日

ボードゲームにおけるハウスルールについての考察

誤解のないように書き出すが、私個人の意見として、ボードゲームの良い点の一つに「ルールを購入者が自由に改変できる点」が挙げられる、と思うわけである。

ハウスルールという言葉がある。
JELLY JELLY CAFFEEブログ内「ボードゲーム用語集まとめ」によると
「特定の場所やお店、団体などにのみ適用されるルールのことです。「日曜人狼のハウスルールとして、投票は全員同時に行います。」といった感じで使います。」と記載がなされている。
代表的な例を挙げると、カルカソンヌの草原抜きルールだろうか。
草原抜きルールに関し、提唱先のすごろくやでは「草原の要素を入れると、考えなければならないことが格段に増えるため、遊べる人を選んでしまいます」という断り書きを加えている。
これも立派なハウスルールの一つと言えるだろう。

(草原抜きルールの詳細、すごろくやブログ)
http://sgrk.blog53.fc2.com/blog-entry-841.html

好きなルール(ハウスルール)で遊ぶこと自体は、例えばデジタルゲームでも「コンフィグモード」などで多少の自由は利く、とも言えるのだろう。
しかし、ともすればバランスを大きく変えるに至るほど改変できる点、やはりアナログゲームにおける「ハウスルール」は独自のものと言えるかもしれない。
スポーツだって、軸となるルールが存在し、公式大会などではそれらを元にジャッジが判定されるわけだが、アナログゲームの場合、どうも場の雰囲気を読み取りながら「ここはこっちにしましょう」「今日は時間もないことですし、このルールにを採用しましょう」といった流れになる傾向にあるように見える。
無論、自分も然り、である。

手元を少しだけ見渡してみると、「ジュリアーノ王子の貢ぎ物(久遠堂)」の取扱説明書に「「こんなハウスルール考えてみたよ!」等、ツイッターやSNSなどでご報告いただけますと、とても嬉しいです」と記載を添えて提示していたり、「フリップオーバー(シロップゲームズ)」にも「トリックテイキングとサッカーが遊べますが、これからも遊べるルールを増やして発表していこうと思います。みんなも考えてみてね!」と記載があるなど確認することができた。

他にも、ハウスルールを推奨する本は、私の目についただけでもボードゲーム界隈には数多く存在する。

トーホクウィステリア 粒幸久著「ボードゲームのハウスルール集」
冬城あおい著「めいことボドゲ」
また中道裕大著「放課後さいころ倶楽部」内でも、インカの黄金等数々のハウスルールが使用されている。



(放課後さいころ倶楽部2巻より ※本来はカードを使用する場面で、この部分だけリメイク前の「ダイヤモンド」のルールを踏襲している)


ハウスルールの是非については、ツイッター上でも度々話題に上がるが、ハウスルールを採用する理由の一つとして、先に挙げたような「子供向けに」または「初めての方に」理解の容易性を追求する意味合いで改変することが多く見受けられる。またはその逆に、上級者向けの独自のヴァリアントルールなどもそうだと言えるだろう。

もちろん私自身、ハウスルールは元のルールが基盤として成立してこそ存在するものであり、それら本来の味を損なわないよう細心の注意を払わなければならない点、重々承知している。
滅多やたらとルールを改変し、持ち主独自の主観で勝手にルールを改変することがまかり通ってしまっては、ハウスルールの存在自体に嫌悪感を持つ人がいらっしゃるのも至極当然であるからだ。
上手い例えが見つからないが、料理のレシピサイトと「作ってみましたレポ」の関係ではないかと思慮する。
有名シェフの手により完成されたレシピ通りに調理することで、レシピ作成者の意図する本来の味を引き出すことができるというベクトルと、作ってみた、それを基軸にアレンジしてみました、を報告するベクトルが別なのだ、と。
また、提供される方(食べる方)も、「どうせなら一流シェフの味を再現したものが食べたい」「辛いものが苦手なのでそれを避けてほしい」「美味しけりゃ何でもいい」など意見も十人十色であり、どのハウスルールを採用すれば全てのプレイヤーに満足してもらえるか、といった問題はこの先も永遠に議論されるべき課題であることだろう。

さて、製作側が定めたルールとは別に用意された、いわば「当初の思惑とは別のハウスルール」が一般化する流れに、中には快く思わない製作者もいらっしゃるだろう。
そのルールを遊ぶことが、製作側の真意に通じることなのか、ひょっとすると「自分の作りたかったもの、提示したかったものと、周囲の求めるものとの乖離」に、少なからず苦しまれている方もいらっしゃるのではないだろうか。

お節介ではあるが、本稿の最後に、こんな言葉を紹介したい。

「人には、自分にとって不快で、これが私のやりたいことなのか?と疑うようなものを人から乞われ、しかもそれを進んでやらないといけない時期があります。
それは、本当につらいけれど、そうやって“外”と関わって、自分を表現し、またその反応を受けて進んでいく果てに、自分の表現したことへの理解者は生まれて、通じある可能性も生まれてきます。
そして通じ合った時、人との間に生まれてきた絆こそが、他の人とは取り替えのきかない、自分の居場所になるんだと思います」
(山田ズーニー著「大人の進路教室Lesson15 外と通じ合う力」より)

全ての製作者様に、小さなブログの片隅から、感謝の意を称します。

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