番次郎の盤上万歳!!: 夢を持つことと積みゲーの話

2018年1月27日土曜日

夢を持つことと積みゲーの話

あくまで僕、一個人の意見として聞いて欲しい。

夢を持て、と人は言う。
それは夢を持つ、持たないとでは、モチベーションそのものに計り知れないほどの差が生じるからではないだろうか。

今回はそんな話をしたいと思う。

四、五年前になる。
とあるマラソン大会に出場することとなった私は、現時点での体力に自信を持つことができず、半年前の丁度この頃から入念な走り込みを行った。
計画的な練習メニューと準備、業務調整に至るまで、細部に渡り練習メニューをエクセルで取りまとめた。
強度別の練習メニューから休息の日時、更には本番から逆算した食事や睡眠のメニューまで取り込んだ日程調整のおかげもあり、本番は無事に完走するに至り、念願のメダルを手にすることができた。

「今でもこのメダルを手にするたびに、辛く苦しかった日々を…」
といった美談があれば良かったのだが、内実、傍観したところで腹もふくれないメダルなど、手に入れてしまえば単なるオブジェと化してしまったのだ。

何故だろう。
あれだけ、生活のほぼ全てを犠牲にしてまで手に入れたといっても過言ではない、そんなメダルだったはず、なのに、だ。

思うに、夢という存在は、やはり「夢」なのだ。
夜、眠っている時に見るものと同義だ。
つまり、覚めて現実に戻ってしまえば、よほど強烈なものでない限り、時間とともに消えてしまう。
現実という存在に、帰結してしまうのだ。

ボードゲームを買って、買ったまま積んだまま放置する問題に似ている。
せっかく高いお金を出して購入したボードゲームを、どうして積みっぱなしにしてしまうのか。
買って遊ぶだけ買えばいいではないか、と、側から見ている人はそう指摘するが、やめられない。
それは、ボードゲーム購入の中に、「夢」すなわち「空想世界で楽しむ作業」という工程が含まれているからではないだろうか。
到着し、現実に手に入れたという「満足”感”」と「充足”感”」で、すでに夢の作業工程は満タンとなり、入手できたボードゲームは付随的なものとなったから。
無理やりこじつけると、そう理論づけることができる。

「こんなこといいな できたらいいな 
あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
不思議なポッケで かなえてくれる」

この印象的な旧世代のドラえもんの歌詞は、現在、少し変更されている

「大人になったら 忘れちゃうのかな
そんな時には思い出してみよう
(中略)
ドラえもん そのポケットで かなえさせてね」

夢をなんでもかなえてくれる、いわば「現実にはあり得ない世界」を提示した歌詞とは対照的に、新世代(といってもだいぶ年数は経過したが)の歌詞は「この夢のような世界は未来に起こりうるかもしれない」といったニュアンスを含んでいるようにも受け取れる。
あくまで筆者の憶測に過ぎないが、時代の経過に連れ、不可能と思われたことが次々に可能となった現代において、夢の存在意義が「かなわぬもの」から「かなえるもの」へとシフトチェンジしたからではないだろうか。

何か長期的な作業を行うに当たり、高いモチベーションを維持するためにも、夢を見ることは決して悪いことではない。
しかし、その「夢」の存在意義が「叶わないもの」であるならば本末転倒だ。
なぜなら、夢はもはや「かなえられるもの」として存在するものであり、叶えるに至る過程こそ、重要視しなければならない存在であるからだ。
目の前にポンと5000兆円提示されたら確かに嬉しいはずなのだが、それがはたしてモチベーションの維持になるかと言われると疑問符が生じる。
同じ夢ならば、汗水垂らして手に入れた5000円ほどの利潤に俄然価値を見出せると言えるのではないか。
(少なくとも私自身はそうだ。あぶく銭なら躊躇せずに使い込んでしまうことだろう)


夢という建造物は、自分自身で、土台からコツコツと作り上げるからこそ、アリ塚の如く頑強となる。
近道など使うことなく、地道に、地道に、歩んだ人間こそ、夢の土台は日に日に強度を増し、どんな雨風にさらされようとも揺るぎないものとなるのだ。


受験シーズン、そして、ゲームマーケット制作追い込み段階、皆様に、陰ながらエールを送ります。





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