番次郎の盤上万歳!!: 子ども心とボードゲーム

2018年2月17日土曜日

子ども心とボードゲーム

大人になるってなんだろう。

そのことについて、今回は少し書き出してみたいと思う。

少し前のこと、臨床心理士を交えた心理テストを受けたときのこと。
診断結果は「幼児化の傾向が強い」
このタイプは精神的に子供らしく振舞うことが多く、精神的にもろく、時に紳士的な対応にかける反面、辛抱強く、上の者に対し従順で、努力家の傾向がある、などと診断された。

この「子どもらしさ」について、自分の持つ子供らしさとは何か、しばらく喉元に引っかかり離れなかった。

例えば、下園壮太著「自分の心のトリセツ」によると「大人になるとは理不尽を受け入れること」と記述されている。
大人社会に介入するということは、多少の理不尽も甘受すること、ありていにいえば、「努力は報われないこともある」と悟り切ること、とも言える。

私はもうすぐ40歳を迎える。
不惑の年。
恥ずかしながら、この歳になっても未だ「努力で崩れぬ壁などない」を信条とする人間であり、確かにそう言われてみれば、世の不条理に関し、どっしりと受け入れるだけの余裕を持ち合わせるからこその大人ではないか、と、短絡的に想像することができた。

さて、ボードゲームの話である。

「テストプレイなんてしてないよ」という作品が人気を博している。
カードに表記された理不尽とも呼べる指示に従い、それらをかいくぐりつつ勝利を目指すといった内容で、全国各地のゲームショップでは軒並み品切れが相次いでいる。

ボードゲームの世界で忌み嫌われる「理不尽さ」を、敢えて「楽しむ」という方向に照準を変換させる、このアイディアに、私はもはや脱帽するより他はない。

プレイヤーは皆、それら理不尽な世界に没入しつつ、笑いながらカードを読み合わせている。

先ほどの話の中で「大人社会は理不尽を甘受すること」と記載した。
この「テストプレイ〜」を照らし合わせると、この作品は、それら社会に仕向けられた理不尽を真っ向から肯定するという点で、実に「大人な作品」だ。
そして不思議なことに、プレイヤーは皆、笑って理不尽を受け入れている。
この錯誤は一体なんだろうか。


思うに、「真剣味が皆無」だからではないだろうか。
真剣にプレイせず、各々が「遊びの一環だ」という前提があるからこそ、カードの中の理不尽を受け入れるという土壌が自ずと形成されているのではないか。

では、仮にこの作品で、高額な賞金をかけた大会が開催されることとなった場合、どうなるだろう。

答えは簡単。「見た目が変わる」
これまで笑って楽しんできた作品が一転し、欲望と勝算の渦巻く、全く別の作品として生まれ変わるに違いない。

大人社会、理不尽な世界とは、それら「受け入れ難い全て」を、「運命」という強引なベクトルで半ば強制的に合わせ飲むことと言えるのではないか。

「勝利は時の運」という言葉があるように、努力しても必ず勝算がつかめるものとは限らない。
勝負の世界で何が起こるか、は、当日の天候や体調、それこそ「ツォルキン・マヤ神聖歴歴」の歯車の如く、何かのきっかけで大きく歯車がガコガコと動き出され、結果、予想だにしなかった出来事が出力される。
それらを我がごととして受け入れる度量を持ち合わせるからこそ、真の大人と呼べるのではないだろうか。


私は基本的にゲームは理論立てて考えるタイプだ。
しかるに、運に左右される作品も嫌いではない。
それは、運によって生じる「理不尽」もまたボードゲームが教えてくれる「人生の味わい」だと解釈しており、「時に上手くいかないこともある、だからボードゲーム(人生)って、面白い」を実感できる瞬間があるからこそ、長く趣味として没入できるのかな、と、幼心ながら考えてみたりするのであった。

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