番次郎の盤上万歳!!: インストは気楽に、気さくに、の話

2018年7月28日土曜日

インストは気楽に、気さくに、の話

睡眠剤の代わりに、固い風俗の話を持ち出したいと思う。

ジャレド・ダイアモンド著「昨日までの世界(下)」によると、かつて人は、固定された言語というものを多数持ち合わせていたという。本文中では筆者が実際にニューギニアの部族を訪れた際の話、その部族の中の20人のうち、最も少なかった男性で15の言語を話すことができた。最も少ない数の男性でも5つの言語と答えた。
もちろんこの数は、いわゆる「同一言語による方言」などではなく、すべて異なる言語だったという。
バイリンガルが持て囃される先進国に比し、ニューギニアの部族は5カ国語が話せる、というわけである。

西原理恵子著「毎日かあさん」内でも、同著者が、カンボジアで物を売る少年の、多数の言語を流暢に話す姿に感動した、と語るコマが登場する。無論、この少年は日本語でもオモチャを売ろうと話しかける。


紀元前の人類は、多くの部族の言語を翻訳し、意思疎通を図ったきたのだという。もちろん当時、紙や筆記具などの伝達手段はなく、労苦を呈して言語を後世に伝える、といった非生産的な行動を起こす人類も少なかったらしく、それらの痕跡も見つかりにくいとされ、また、それら言語の約95%は紀元前1200年までに完全に姿を消したとされる。
伝達手段はもっぱら口伝、もしくは耳学問に依るもので、生きるため、周囲に貢献し、社会の一員としての立場を形成するために必要不可欠な能力の一部だったと推測される。


今回話題にしたいのは「インスト(ゲーム冒頭の説明)の問題」である。

たびたび上がる「わかりやすいインストとは」といった話題に、私は心の中のわだかまりが抜けきれなかった。
私自身、こんな経験がある。
初めて購入したボードゲームを、初めて参加する、とあるボードゲーム会に持参した際の話だ。
私『このゲームで遊びませんか』
某A「ああ、じゃあ(持ち主が)インストして」
そんな決まりなど何も聞いておらず、手探りのまま説明を開始すると
某B「あの、これ、勝利条件は?」
某C「ちょっといい?このチップ、何に使うの?」
某D「ん?今の取説書いてる?」
挙句
某E「あー、もういいからやろうぜ」
某F「やればわかるでしょ」

・・・

ツイッター上には「わかりやすいインスト」の極意がいくつも掲載され、最も効率の良い方法が日々更新されている。
何故、教え伝える側が、こうも悩み苦しまなければならぬのか、と側から見て思えるほど、説明書に創意工夫を凝らし、サマリーをこしらえ、説明動画を作成し、中には有志でボードゲームカフェに集まり「インスト会」を開催するなど、情報を共有、技術の向上に勤しんでいる。

昔の取扱説明書はどうだったのか。
それこそ、説明書は「読まれないもの」だった。
説明書は読まずに使い、必要の都度、押し入れから引っ張り出して使うもの、と相場が決まっていた。

それらの固定観念がある人にとって、この「取説を読む」という概念はどうも受け入れ難いようなのだ。

何故か。

それは、説明書を「言語によるコミュニケーションだけで処理しようとする道具」と捉えているからではないか、と考えた。
先に挙げたように、本来、人類は数種類もの言語を取り入れた上で、その時々の民族に応じた言語を使い分けることができる生き物だ。
しかし、お互いに共通化された言語を一つしか持ち合わせていない以上、一つの言語による意思疎通だけではやはり限界が生じ、言葉による微妙なニュアンス、感情の微妙な揺らぎ、見たこと、感じたことを噛み砕いて相手に伝える術に関し、やはり何かしらの「限界」が生じる。
使い所は別だが、これが俗に「語彙力(の低下)」と呼ばれる状態なのだろう。

言葉を駆使すれば100%想いが伝わる、という前提は難しい。
それはボードゲームやインストでわざわざ学ばなくとも「資料を配布されただけで理解した気になる」という実体験で、私自身、何度も憂き目に遭っている。
「「話せばわかる」なんて大ウソ!」これはかのベストセラー「バカの壁」のキャッチコピーだ。

そもそも取扱説明書とは、何も見えない洞窟のような場所に、たいまつ(懐中電灯)の如く光明を指し示し、宝のありかを教え、敵やトラップなど注意を喚起し、無事にプレイヤーを出口まで導くために読むだけの存在に過ぎない。
勇敢な戦士は、読まずに進む事だってできるだろうし、パパッと自分が目指すべき要点だけ把握する賢者も存在するだろうし、一方で、一言一句読み込まなければ一歩たりとも進めない臆病な(堅実な)勇者だっている事だろう。

それと同じで、伝え聞く相手も、全ての言語を平坦で聞いているわけではない。
相手によって、当然、耳で拾い集める言語にも違いが生じて然りである。
落ち込んだ相手には「ダメです」という言葉だけが突き刺さるだろうし
勝利を意識する人間には「このコマは追加で3進みます」という言葉が印象に残るだろうし
ついさっきスイーツを口にした人間は「ケーキ屋さんのカードは全員から2コインもらえます」といった言葉が残るだろうかと勝手に推測する。

ボードゲームの世界にも、ちょうど先日の「ドイツ年間ゲーム大賞」に「The Mind」という一風変わった作品がノミネートされた事は記憶に新しい。
プレイヤーは一切の会話、相談等を許されず、ひたすら場に昇順となるよう手持ちのカードを出す、それだけのゲームだ。
必要となるのは「場の雰囲気」だけ。顔の表情や、ノック、咳払いといった周囲への合図等一切の合図が許されない。
それでも、慣れてきた頃には、自然とLevel 6(各自手札6枚)がこなせるようになるあたりの調整が面白い。
前年度も、ゲーム途中で一切の会話が禁止される「マジックメイズ」がノミネートされるなど、昨今は会話によるコミュニケーションをしごく当然とされたボードゲームの世界にもノンバーバルとしての可能性も開拓されつつあるのかもしれない。


一般的な「メラビアンの法則」も、言語情報:非言語情報=1:9と称される。
実測値は多少変化するだろうが、ここにも太古の祖先が築き上げたDNAに基づく「言葉では伝えきれないからニュアンス(視覚や聴覚といった言語以外の残り9割)で学び取ろう」といった意識が、脳内で働くからではないかと推測される。


「習うより慣れろ」
日本には昔から先人の知恵に基づくことわざが確かに存在するではないか。


ここまで読むと
「じゃあ、今まで俺が頑張ったインスト技術って、空回りだったのか?」となるだろう。

ただし、
「教える側の熱意」は、如実に伝わる。

教えたい、伝えたい、その強い情熱は、聞く側にもダイレクトに響いてくる。
口頭ではなく「体から」発するメッセージ、苦難して絞り出した、自分なりの言葉の数々、中には無骨で、決してスマートではなく、まとまりもない表現で、額に汗しながら伝えようとされる方もいらっしゃるだろう。

しかるに、聴く側にとって、そういった説明の方が逆に印象に残り、説明の理解度とは別の「わかった、じゃあやろう!」といった意識が芽生え、その場の雰囲気が一層盛り上がる。
いうなれば、インストを媒介とし、ゲームの起爆剤たらしめる存在となるのだ。

私の考える「良いインスト」の帰結するところは、きっとこの「起爆剤」のような存在であり、「聞けばたちどころにゲームができるようになる」といった完全性など二の次で良いのではないか、と考えるに至ったのだ。


この意見には多くの反論があるかと思う。
特に、ここまで一生懸命にインスト技術を向上された方や、それら技術があってこそ、と考える方ならばなおさらだ。

無論、神の如く御尽力された方々は別格に位置する、とし、ここでは「あまりにインストに完全性を求めると、誰もが忌避する存在と化してしまう件」を危惧している旨、承知されたい。
買ったはいいけれど、結局説明役はたらい回しに、だなんて、せっかく楽しく遊ぶために生み出されたゲームが不憫でならない。

もっと、気楽に、気さくに、楽しくやろうよ、インスト。

横浜中華街に構えるボードゲームショップ「リゴレ」では「インストありがとう運動」が行われている。
インストを行った相手に感謝の意味を込め「ありがとう」の言葉を述べる、という運動だとか。
これら運動がなくとも、同卓したプレイヤー全員が「ありがとう」の気持ちを共有できるような、そんなボードゲーム会だと、ゲームも雰囲気も、数倍、数十倍、楽しくなるのではないか。

私が「ボードゲームはコミュニケーション」と考える所以は、どうやらその辺りに眠っているような気がするのだ。







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