2019年5月18日土曜日

作品はアウトプットで磨かれる〜4コマ漫画制作日誌〜

今回のゲームマーケット春は、本当に広報らしい広報活動もそっちのけで制作の方に勤しんだので、せめて自分のブログの中だけでも宣伝させてください。

なぞなぞの本、クイズの本、とともに、もう一冊、わたしのブースの片隅を賑わす本がある。

「きょうもボドびより。」と称された4コマ漫画は、制作者である私の「イラストが描けるなら、漫画も描けるのでは?」といった今考えると本当に各所から馬鹿だなと笑われそうな試みから派生した作品だ。




言うは易く行うは難し、何はともあれ、思うがままにペンを走らせ、ツイッターに公開してみると、意外に多くの暖かいコメントが寄せられた。

寄せられたコメントで調子に乗った私は、その後も毎日1本、ただでさえ時間のない小冊子制作の合間を縫って書き綴り、ゲームマーケット大阪で第1巻を頒布するに至った。





兼ねてからの夢、と周囲には漏らしていたが、実を言うと、描いた本人すら、夢にだに想像できなかった代物だ。
なにせこの私、半年前など、イラストなんてろくに描けなかった人間だ。それが形はどうあれ、漫画の本を出すことができたのだ。

まさに自分の趣味全開で出した本にも関わらず、手に取ったり、購入してくださったりなどの神様はいらっしゃったのだ。
千葉県のボードゲームカフェ「カラハンダ」様では店内用に設置しましたとツイートが上がり、喜び勇んでお礼に参ったこともあったくらいだ。


空想を形に変えることを、人は見くびることもあるだろう。
「それくらい(やろうと思えば)誰でもできる」
そんな言葉が、時折添えられる。

余談だが、学生時代に古文を勉強したときのこと。
「同じ日本語だからなんとかなるよね」
といった声をあげ、同級生の中にはハナから古文の勉強から目を背ける者もいた。
そんな学生ほど、「なつかし」という言葉の意味を問う問題に、ついつい「童心に帰る」を(いわば、制作者が「こっちに引っかかってほしい」と誘導する巧妙な選択肢)選んでおり、国語教師のニンマリする表情を試験の都度、目の当たりにしていた。ちなみに正解は「心惹かれる様」である。

閑話休題、思ってた、考えるにとどまっていた、なんて、正直私はさほど大きく評価してはいない。
考える、その次のステップは、何かに書き出す、そして披露し、修正を繰り返し、頒布する、
作品はそうしてアウトプットを繰り返し、自分の目ではない多くの視点からの意見を浴び、洗練され、磨かれ、成長を重ねていくものだ。

その際のステップは決して欣一化されたものでは、ない!

考える、と、公開する、この似て非なる二つの間に、どれだけ大きな段差があることかを、意外と多くの人間が「見誤っている」
たとえ目測を誤ろうとも、それら上がるにつれて段差の大きくなる障壁に、くじけることなく真っ向から立ち向かい、時に厳しい現実や辛辣な意見を浴びながらも、めげることなく不屈の精神で立ち上がり、また次の段へと這い上がる姿。
それは誰の目から見ても立派な姿ではないだろうか。


私の1巻は、たしかにゲームマーケット前、大きな反響もなく、当日は細々と頒布するにとどまり、その後も厳しい言葉を浴びる一方だった。
それゆえに、掛け替えのない「楽しみにしてました!」「面白かったです!」といった声援が、自分にとってひときわ印象に残るようにもなったのだ。


結果、私はくじけなかった。
喉元過ぎたる熱さとやらで、翌日から早速4コマを描いた、描き続けた。



そしてこの春、質・量ともにボリュームを増した2巻を完成させることができた。
あれからイラストも少しずつ勉強し、表紙画像も我ながら見違えるほど飛躍できたものかと自負している。


ボードゲーム知識ゼロでもなんとなく読めるボードゲームの漫画です。
よろしくお願いします。
(テレビ東京「勇者ああああ」のキャッチコピーっぽく)


4コマは現在も引き続き連載中で、5月18日、連載100話目を迎える予定となる。







2019年5月12日日曜日

ゲームマーケットは浄化を促す場

新しいことはそれ自体が魅力的だ。
新しいボードゲーム、新しいルール、新感覚、新機軸…
新しい、新鮮、というものは、その言葉だけで魅力的だ。

ボードゲームに限った話ではなく、新社会人、新番組、新成人、等々、新しいものそれ自体が多くの人を魅了する。
新しいものは、すでに在るものに対して、違う風を取り入れてくれる。
これまでに多少の食傷を感じていた人にとって、新しいものは、期待感も含めて何よりも貴重な存在だ。

古いものは、それ自体が魅力的だ。
昔から存在するボードゲーム、古来より伝わる伝統遊戯、すでに一般語となったルール…
古き良きものは多くの人を魅了する。

ボードゲームに限った話ではなく、看板役者、御意見番、生き字引、等々、いつもの存在は「そこに在る」だけですでに魅力的だ。
古き良きものは、組織に抜群の安定感をもたらす。
多少雰囲気が乱れようとも、最終的には絶対エースとなる存在がなんとかしてくれるであろうと、皆が期待を寄せる。
それだけで尊敬に値されるのだ。


対象となる二つを記述した。
どちらが悪いとも、どちらかに顔を向けろとも、そんな極端な話ではない。
強いて挙げるならば、その「両方」だ。
「老害!老害!」と新しい意見ばかりを追いかける自覚があるならば、古き良き作品に目を向ける必要があり、「昔は良かった」と古き良きものに固執していると自覚があるならば、最近話題の作品の傾向に目をやるものと考えている。

とある老舗のラーメン屋の店主が話す。
長年同じ味を継続させるためには、客に「変わらぬ味」と気付かせないよう、微妙に味を変化させているのだと聞く。
長年同じ味を続けると、客の方から「(味が)変わった」と意見されるそうだ。
時代の趨勢とともに、グラデーションのように微妙に変化する客層を柔軟に捉え、その都度、自分の在り方を変化させる、
それは商売に限らず、地球上の生物が厳しい時代を生き抜くために学んだ、ある種の処世術とも言えるのではないか。


翻って、ボードゲームの話。

ボードゲームを(決まったお店で)買う、(いつものカフェで)遊ぶ、ばかりでは、やはり自分の中の「情報」がどうしても偏ってしまう。
そこで、五感をフルに使い、ボードゲームを最大限に楽しむ日が1年に1度でもあれば、自分の中の凝り固まった筋肉が解きほぐされることだろう。


ゲームマーケットが2週間後に控えている。
日本最大規模を誇る、ボードゲームの祭典だ。

開催スタッフの方は「体験しに来てください」と口にする。
その真意を察するに、買うだけでは物足りない、目で、耳で、肌で、(時には)味や鼻など、五感で体感し、自分の中の「ボードゲーム」の感覚を自浄するための場ではないかと考えた。

日本最大級だけに、会場内にはそれこそ多くの参加者が集う。
有名芸能人、漫画家、プロ棋士、アイドル、ポッドキャスター、ユーチューバー、もちろん、製作者、イラストレーター、有名ブロガー、ボードゲーム会主催者、カフェ運営者、ツイート上で見かける大勢の方々、等々、自分より数多くのボードゲームに触れているであろうそんな方々と、ご挨拶でき、時に試遊台を囲み、ともにボードゲームについて語ることのできる、そんな稀有な体験イベントが他にあるだろうか。


そして何より、私は二日目となる日曜、ブースの人間として提供する側に立つ。
前回大阪でもそうだったように、私のコンセプトは「一体になって楽しむ」ことである。
売ること、買うこと、それ自体は後回しでもいいから、せっかくいらっしゃった方々と一緒に「遊んでもらう」「体験してもらう」そして何よりも「楽しんでもらう」ことを主軸に置き、立ち寄った方々が笑顔で立ち去っていただけるような、そんな運営を組み立てようかと考えている。


ゲームマーケットに来場された方が「あれだけ疲れたのに、早く帰ってボドゲしたい」と感じたならば、それは会場内できちんと浄化された証ではないか。今風の言葉で「デトックス」とも言うのだろうか。

私も何かをつかんでもらえるよう、これからの短い間に、一つでも面白いトリガーをこれから用意しなくては、ね。

2019年5月7日火曜日

気楽に頑張ります-41歳の抱負に代えて-

ボードゲームのクイズの本を作り、3年目となる今年。

勢いに任せ、2冊の本を出した。前後編に分け、1000問の問題を上・下巻に分けて収録した。
12月のゲームマーケット秋を終え、次回春、当時5月の開催まで制作は実質3か月弱。
昨年も締め切りギリギリまで問題の制作に明け暮れ、苦心しつつ何とか無事に続編を一冊作り上げることができた。

環境がガラリと変わり、記録的な酷暑にもめげず、その年のゲームマーケット秋、レイアウトを大きく変えた一冊を無事に頒布することができた。

同時並行して、翌年3月のゲームマーケット大阪に初出展の申し込みも済ませ、翌年開催されるゲームマーケット春の前に、何か作品を出すことはできないか、と、ぼんやり考えることにした。

秋が終わり、神戸、北海道、と小冊子を広報に上がる中、次回作への構想がぼんやりと浮かび、ノートにメモをまとめるうちに、空想が現実味を帯びてきた。

年末年始を返上し、まさかと思った新刊を、頒布することができた。
しかも漫画本も含め、2冊も。

それが3月中旬の話。
次回春まで制作時間は、残り1ヶ月半。

しかしながら、それでも小冊子の入稿を先日無事に終えることができた。
漫画本、なぞなぞ本、クイズ本
リメイクとはいえ、3冊同時刊行だ。



これが私、番次郎ブース出展の簡単な振り返りだ。

3年目となる今年、令和元年、年も41を迎えた。
これからは目もかすみ、肩が、腰が凝り固まり、歯や髪が抜け落ち、老化も急加速するのだろう。
いつまでも若くはない、ということだ。

それでも周囲のボードゲーム製作者の方に限らず、歳を重ねるに従い、良質な作品をどんどん提供される方が大勢いらっしゃる。
いつまでも歳のせいだと言い訳ばかりしてはいけない。


進むこと。歩き続けること。
無理をせず、できる範囲で「歩き続ける」うちに、見えない筋肉がついてくる。
「遊んでいるうちに自然と強くなる」
それはボードゲームを遊んでいる方ならば自ずと理解してもらえるのではないだろうか。


春先になると、時折、硬いアスファルトを突き破り花を咲かせるタンポポを道端で見かける。
強い力ではなく、弱い力で、何度も何度も押し上げるからこそ、織りなせるのだ。

北海道ボドゲ博の出展を決めた際、数名の方から
「有名サークルが名乗りを上げてくれました!」
と、私の名前を取り上げてくださった。
私自身、そんな自覚もなく、無論作品自体が爆発的に売れたわけでもない。
とはいえ、向こうはお世辞でもないそぶりだ。
確かにそこには「幾らかの知名度」が、私の知覚しない箇所で存在していたのだろう。
それは作品自体の知名度云々ではなく、何かしら「継続すること」で成し得られたものではないかと考える。

「継続できること」の強みとは何だろう。
ひとつに、それは「安心感」ではないだろうか。

ブランド力、という言葉にも置換できるこの言葉は、いわば「このサークルの、この人の作品ならば間違いなく面白い」と多くの方からの「信頼」で形成されている。
有名作の続編、有名ジャンルの一括り、好きなジャンル、等々、十人十色で形作られるそれらの「安心感」は、作品に多少の「ブレ」が生じようとも、根強く残ってくれるものなのだ。

もちろん我々人間はそれら「安心感という名の信頼」が、作品の度合いどころか、何気ない一言で、いとも簡単に崩れることも重々承知している。

だからこそ、大切にしたい。

私が制作に傾注した1年で欠けていた物、それは周囲に対する配慮、心配りだったのではないか。
「良い作品を作ることが、何よりの恩返しだ」
そう信じて疑わず、自分を犠牲にし、これまで作品を磨き上げてきたのだ。


令和元年 5月6日、41となる誕生日を迎え、その考え方を改めようと思う。


余裕を持つこと。

それはデザイン・レイアウトを学ぶうちに身につけた「余白」の持つ力だ。

これまでの小冊子は物量で圧倒し、いわば威圧的な雰囲気を醸していたのではないか、と反省する。
今回春の作品ではデザイン・レイアウトを一新させ、デザイン全体に「余白」を意識した。

そして何より、身を粉にして相手に尽くす姿勢から、こちらにも幾許かの余力が生まれるような予算設定を考慮した。

次はないかもしれない、では、先に挙げたような「安心感」は得られないと考え、「もう無いかもしれない」の不安を煽ってまで購入するべき作品作りでは無く、いつまでも続き、次回作も請い願われるような、そんな作品を私自身も作りたい。
そのためには、やはり中身を読んでもらいたい。中身で評価されたい。
レイアウトも含め、余裕を持って作品作りが提供できるような、そんな制作環境を整えたい。


41になり、前回、私のブースのコンセプトを「初めての人が立ち寄るギルド的なブース」とした。
そんなルイーダの酒場的な、世界樹の迷宮では金鹿の酒場のような、そんな立ち位置で、この一年は頑張りたいと思います。


こんなブースで、こんな人間ですが、よろしければ気楽にお付き合いくださいませ。



2019年4月20日土曜日

インプットとアウトプット

漫画家あやめゴン太先生のツイートにあった何気ない言葉だったと思う。

「なんでこんなに本があるの? それはね、本が好きだからだよ」

好きだから、必然的に、その総量は多くなる。
当たり前のようで、意外とそうでもないことがあることに気がついた。

ボードゲームが好きで、好きが興じて、ブース設営3年目となる今年、またも「3冊の新刊を出します」などと無謀なチャレンジを行う自分。
読みたい本はたまり、遊びたいボードゲームも積み重なり、できるか否かの気持ちばかりが焦る中、刻々と時間ばかりが過ぎていく。
周囲のテストプレイ会などのツイートを横目に、名門大学受験に匹敵する程のデスクワークが続く自分。
「好きなことって、何?」という錯覚に苛まれそうになると、邪気を払うかのようにかぶりを振って、また前を向く。
この頃はそんな生活を送っている。

量がその人を支える。
ボードゲームが好きだから、その人には、それだけのボードゲームの量的な数もあれば、または知識なり経験なりといった知的財産のようなものも存在する。
本が好きだから、本をたくさん所持しているし、必然的に、本をたくさん読んでいる。
TRPGのステータス振りのように、ある人はこの値が少なく、ある人はこの値が多い、それらを鑑みた上で、パーティ内での性格や役割が形成される。

逆も然り。
少なければ、やはり、何もできない。
手にする物量が少なければ、できる範囲もそれだけ限られるだろうし、また、インプットする量が少ないならば、絶対的な経験値を持つ人間に圧倒されてしまうだろう。

「好き」が持つ特徴の一つに、インプット、つまり内面に取り入れられるがゆえに、なかなか自分では見えにくい点ある。
自分で「**が好きです!」が見えにくい、自覚しづらい、自覚できるまで時間を要するのでははないか。

インプット、体内に取り入れることとは、自分の中に多くの「コト」「モノ」を「取り入れる」ことにある。
取り入れてしまうということは、体内で消化され、自分の中のパーツとして形成され、細胞の一つとして体内に組成される。
自分の中のひとつとなるのだ。
自分の中のパーツとなったものは、自分ではなかなかその利便性に気がつきにくい。
「人間は腕が二本あり、指を自在に動かせる」を、日頃から幸せだと感じている人は少ないのではないか。

では逆に「アウトプット」はどうか。
アウトプット、他人に向けて「主張」することで、自分の存在を他に「アピール」することができる。
「自分はこうなのです」「自分という生き物はここにおり、こんな形をして、これが好き、嫌いなのです」
常日頃から発信する言葉や言動などで、周囲の人間に「アウトプット」することで、自分の存在を「インプット」する役割を果たしている。
「ああ、他に比べて、自分はこうだったのか」「やっぱり私は**が好きだったのか」
アウトプットすることで、自分の「好き」を主張することで、改めて強く認識できるのだ。

好きなことを主張することは、深呼吸することに似ている。
窓を開けたら空気は「逃げ」たのちに新鮮な空気が「入る」
苦しくなったら、まずは呼吸を「吐く」
吐くだけ吐いたら、少しづつ「吸う」
他人ごととは言えないが、好きであることの回答を積極的に仰ぐのではなく、ゆっくり、無理せず、自分のできる範囲内で吸収すれば、自ずと自分の行なった回答はやってくる。
言うなれば、苦しみながら呼吸を行うことはない。
回答に無理をして急を寄こそうとするから「無理」が生じる。
それでもやはり、インプットする時点では見えにくい点を他人の目線で評価される嬉しさや喜びには到底かなわないのですけれどね。


ゲームマーケット春2019開催まで残すところ1ヶ月あまりとなった。
多くの製作者が大詰めを迎え、積極的に広報活動を行い、自分の作品をアピールしている。
「見てください!遊んでいってください!」
私個人として、ゲームマーケットはモノを売り買いする場、という目的は二の次、3、4、5の次ぐらいだ。
モノを買う立場として、それら製作者の方々の「好き」を全身に享受する場として
一方で、モノを売る立場として、私の「好き」を全身全霊でアピールする場として
臨む所存だ。

だから、今は必死でアウトプットを続けるしか、ない。
自分の中に蓄積された「好き」の総量をあらん限りに放出させ、小冊子にしたため、エナジーみなぎる小冊子として上手く昇華できるよう、最善の努力を行うより、他はない。
それが何よりのアウトプットであり、ひいては自分の「ボードゲームが好きなのです!」をアピールできる一番の方法ではないだろうか。


そんなことを考えながら、今回もまた多くの製作者様からたくさんの刺激を受けるために5月25.26日とビッグサイトにお邪魔したいと思います。
私は日曜L02ブースの片隅で、ひっそりと本を売りつつ、ボードゲームのクイズを読んでいることに致します。

よろしくお願い致します。



2019年4月14日日曜日

楽しむために勝つ、とは。

最近は作業のお供にポッドキャストやツイキャスライブ等を拝聴することが多い。
その中で感じたことを話題として提供したいと思う。

先日のおしゃべりサニバ第148回で「好きすぎて上手くなり、相手がいなくなった」という内容の話題で盛り上がっていた。

将棋や囲碁など、競技人口が多い遊戯ならば、上を見上げるとキリが無い分、好きなだけ成長でき、好きなだけ身の丈に応じた相手が存在する。

しかるに、好きなボードゲームとなると話は別だ。
いくら好きなゲームであろうとも、同じゲームに付き合うならともかく、強くなりすぎた相手にむざむざ負け戦を挑むような相手と、再び一緒に遊びたいと思うような、強靭な精神の持ち主など極めて稀だろう。

何度か引用したトイバーの言葉「またあなたと一緒に遊びたい、そんなプレイをしましょう」
そんな言葉が一瞬頭をよぎる。


が、それも杞憂であることに気づいた。


少し前に、こんな漫画を描いた


本当に上手いプレイヤーとは、どういったプレイスタイルを取るのか。


それは「勝って楽しい」ではない。
「楽しむために勝つ」だ。

以前オセロ有段者の方とオセロでお手合わせをする機会に恵まれた。
序盤はこちらが圧制だった。
にも関わらず、終盤からあれよあれよと駒を返され、気がつけば盤面は相手の駒だらけ。見るも無残な形での完敗を喫したのだった。

「オセロでは、序盤なんて関係ないですからね」

盤面の毛バタがハゲてうっすら木目が見えるほど、何度も何度も使い込まれたであろうオセロの盤面を、私はジッと凝視しながら、その方のお話しを伺った。
丁寧に、笑顔を交え、一手、一手と解説してくださる。

「ここでこっちを置きたくなるでしょ?実は隣のこっちに置くとですね、ほら!実はここで互角になってたんですよー!」


プロの技量とは、数かぎりない選択肢の中から最適解を見つけ出せる、ばかりではない。むしろ「AかBか、究極の選択」といった二択、三択の盤面を何度も何度も展開するうちに、そこから最適解ばかりを巧みに選択できるプレイヤー、それこそが私の思う「プロ」ではないかと考えた。


余談だが二択もバカにはできない。有名な話に、0,1mmの紙を何回折り曲げると富士山と同じ高さになるか、といった数学の問題がある。
答えはたったの(?)24回。
細部計算は省略するが、2×2…×2を続けると、24回折ることで、折り紙程度の厚さだろうとも富士山の高さに到達できる、という計算上の話である。

閑話休題
オセロの盤面では一人30手、最初の定石はあるかもしれないが、常に二択と考えても、その数は5億通りに及ぶ。

オセロに限らず、ボードゲームや囲碁、将棋の上手い方は、その中で「いま自分や相手が一番楽しめる方法とは何か」を常に模索し、相手がどう考え、どうしてここでこんな手を打ったのか、といった全体まで俯瞰できる余裕と余力があるからこそ、なのだろう。


同じeスポーツつながりで「ぷよぷよ」なども、自分の状況だけでなく、次に落ちてくる駒や、相手の状況を即座に判断する技量が、上級者ともなると要求される。

それらを踏まえた上での感想戦は、同じレベルの相手より、やはり上級者とのやりとりの方が面白い。
自分では「なんとなく」と思って打った手が、実はもう少し冷静に考えて別の手、往々にしてそれらは二択に絞った際に最後まで迷った挙句、最後に切り捨てた方の手だったりするが、の方が妙手だったりする。
その「気づき」があるから面白い。楽しい。
単に自慢話を聞かされたり、自分のダメさ加減を言及されるだけの感想戦なんて、勉強目的でない限り、つまらないではないか。

それは感想戦も含めた「一局全体」が、自分、相手、相互に楽しいからであり、自分だけではなく「お互いが楽しむために」ゲームが存在するからではないか。
そして上級者ともなると、その辺りの楽しさ(勝敗に左右されない、あくまで楽しむための、という意味合いで)を熟知しているのではないか。


先に挙げた言葉を裏返して解釈すると、「ボードゲームはやはり一人では遊べない」のである。
ポッドキャストの中でも話題に上がったが、勝ってばかりでは、やはりツマラナイ。退屈だ。
古典では退屈を「徒然(つれづれ)」と呼び、物悲しい、という意味と同義で使用される。
だからつい自分の自慢に走りがちとなる。
何気なく口に出た言葉が自慢に捕らえられ、その自画自賛が過ぎると、やはりつまらないどころか、神経を逆なでする恐れもある。
「あの人と(あのゲームで遊ぶと)どうせ負けるだろうし」「負けた挙句、自慢話聞かされるんじゃあな」
悪循環を断ち切るには、やはり「相手を思うプレイ」が必要とされる。
いくら人工知能が世界を跋扈しようとも、対人で繰り広げられる「会話のやり取り」や「思いもよらない妙手と、時に悪手も見せる奇想天外な展開との隣り合わせ」が混在する対局こそ、人工知能が到達できない、それこそアナログゲームが真の強みを見せる「人と人とのつながり」ではないか。


考えてみれば、美味しい料理が食べたい時は、自力で作る他に、腕の立つ料理人のいるレストランに向かえば、良い思いをすることもできるだろう。
美味しいレストランでは、その手腕をいかんなく発揮するシェフが腕によりをふるってあなたにディナーを提供する。
飾る言葉もいらず、一言「美味しかったです」があれば、それだけで相手も喜んでくれるに違いない。


「会話は知性のご馳走である」
最近読んだジョン・トッド著「自分を鍛える」からの引用である。
上手くなることで離れるには、といった問題の根底には、やはり当人の「勝って楽しい」が先行するからではないか。(もちろん競技・スポーツの「厳しさ」が持つ側面を「勝てなくても楽しむには」といった問題に展開させるとまた別だが)
それらを踏まえ、私の思うプロとは、相手に気づきと楽しさがもたらす「知性のご馳走を提供する一流シェフ」のような存在であり、いわばそれは「楽しむために勝つ」ことが念頭にあるプレイヤーのことを指すのではないかな、と思い、自分の目指すべき道もどうやらその辺りに眠っていることを再確認したのであった。




2019年4月7日日曜日

ふりだしに、戻りました。ー根本を見直すことで見えてきた世界の話ー

先日、POO松本先生というデザイン関連の先生の元、私の小冊子をビシバシと指導される機会に恵まれた。
約8時間余にわたる猛抗議は、時折涙ぐんでしまうほどで、強さの中に情熱のある指導であり、メモ代わりにと用意したノートはほとんどのページで黒ずんでしまった。

その中の一つを紹介したい。

ページを開けるなり、先生の口から出た言葉は
「で、これは誰に向けての本なの?」

もちろん、小冊子を作るからには自分なりにテーマを定めてはいたが、それではあまりに「漠然と」しすぎている、と指摘された。

「若者?初心者?子供?お年寄り?その辺りがブレてない?」

根本も根本、スタート地点の問題である。
私の小冊子が抱えていた問題は、主軸となる「骨組み」、大黒柱そのものがすでに揺らいでいた、というわけである。
言うなれば、この時点で「指導を受けるフィールドにすら上がっていない」とも言える。

あ、イタタタ。

クラウゼウィッツの戦略の本や、孫子の戦略の本やら、ビジネスでも活用できるだろうとあれこれ戦略の本を読み漁ったから、おぼろげにわかる。
「全方向同時打撃」なんて構えていたら、あっという間に兵站組織が瓦解してしまう。
敵が企図する目的をしっかりと見定め、時に応じて刻々と変化する戦況をよく観察し、我に乗じる敵の弱点とする方向に、あらん限りの火力を指向する、
そんな戦闘の基本・基礎すら“わかっていなかった”のだ。

闇雲に頑張ることで、なんとなく「許された」気になっていなかったか、自分。

指導を受けながら、心の中の重い塊がズシン、ズシンとのし掛かり、その上からさらに厳しく飛び交う、細かなデザイン面での指導…。

辛さ、厳しさに耐え忍びながら、その日の夜、もう一度、乱雑に書き留めたノートを見返す。
デザイン云々の話ではない。
これまでの自分が残してきた、雑さ、荒さ、その他諸々の「甘さ」が、やはりわかるかたにはお見通しだったのだ。
恥ずかしさのあまり、次回作成の本など頒布するにおこがましい思いもした。
体調のせいだと言い聞かせ、早めに就寝し、1日だけ気持ちを寝かせることにした。


翌朝、
乱雑な文字のノートはそのまま。
頭の中だけは余計な雑味が少し抜けたのか、幾分カラになったような、すがすがしい気分。

パソコンに向かい、昨日の事項を一つ一つ修正する。
構造を一からやり直す作業に深いため息が溢れる。手が止まり、なかなかキーボードが進まない。


先生は5月に新刊を出すことを「馬鹿か!死ぬぞ!」と応じた上で「よし、死ね!」と承諾してくださった。
頑張ることしか取り柄のない自分が、また一からスタートする、その期限は実に1ヶ月を切ってしまった。
材料はあるが、時間も体力も、まして余分な資金もない、
そんな中で本当にできるか否か。今回も大勝負を強いられることとなった。
毎回毎回、本当に私は馬鹿だと思う。

無理だ、と思ったらそこで糸が切れてしまう。
だから、コツコツと続けるしかない。
一歩一歩、と歩き続けているうちに、ゴールも見えてくるだろう。
今はまだ、見えない先のことなど考えず、目の前のハードルだけを、一つ一つ、着実にこなしていく、それだけだ。


まずは「主軸」ターゲット層を見直す作業から取り掛かった。


一つ、皆さんに約束したいことがある。
それは、作品を頒布する中で、それらの質を確実に上回ることだ。
決して過去作の「焼き回し」などといったことはしない、したくない。


そのためにまず、問題数の選別を行うことにした。
これまでの小冊子では「数の多さ」を何かしらの武器にしていた気がする。
どなたかが(小冊子の件ではないけれど)話していた。
「あまり多すぎても、見やしませんよ」
だから、問題数を半分ほど一気に減らす作業を行うことにした。
いわば果物の摘果のような作業だ。
問題数が減る代わりに、一問一問のクオリティが高く、甘い、どの問題も自信を持ってオススメできるラインナップを揃えることができる。

そして、ターゲットをさらに絞ることにした。
言うなれば、これまで「老若男女、どなたでも楽しめます!」と、ぼんやりした表現で濁したターゲット層を、ギュッと絞ることにした。
「初めての方がボードゲーム知識を蓄えられる一冊」
初めての方が読むことで、ボードゲーム・アナログゲームの知識をそれなりに身に付けることができる一冊、と、銘打つことにした。
これはアナログゲームのなぞなぞ本2巻や4コマの2巻も同様のコンセプトだ。


「いらっしゃい、ここは初めての方が装備を整えるお店だよ」
そんな基本コンセプトで、番次郎ブースは、ゲームマーケット春、そして北海道、と、挑むことに決めた。


そして、大事なことをもう一つ。

ゲームマーケット春が終わったら、少し間を取り、作品をじっくり練りたいと思う。
有り体に言えば、北海道ボドゲ博に向けての新刊は、今は出す予定はない、です。ごめんなさい。

これも先の「クオリティ維持」の話につながる。
今回の大阪新刊、自分なりにIllustratorもインデザインも勉強し、小手先の技を駆使し、さらなるパワーアップを図ったつもりだった。
が、やはり先生の目はごまかせなかった。
「大阪新刊、突貫工事で作ったろ。前の(BoardGameQuiz本)方よりも、クオリティが落ちてるぞ。」

だから、というわけではないが、もっとインプットしたい。もっと気持ちに余裕を持ち、小冊子制作以外にももっと色々な面で、多くのことを学びたい。ポッドキャストも作りたいし、本もたくさん読みたい。買ってから遊んでいないボードゲームだって山のようにある。
ボードゲームが持つ「楽しむ」ことの根本を忘れることのないよう、しっかりと土台を踏み固めたい。何よりもまず、求職のあても探さなくちゃね。



原点に立ち返り、言うなれば、スタートに戻ることで、改めてその根本を見直すことができ、その先でようやく見えてきた、自己の現実と、行く先の未来。
今回の講義で学んだ新たな視点をもとに、自分の持つ可能性、そして「一人だからできること」そして「表現するからこそ、見えてくること」決して良いことばかりではなく、キツく、つらい言葉の中から、磨かれる自分。
艱難汝を玉にす、と、自分に言い聞かせながら、とは言いつつ、時折お茶でも入れながら、余裕を持たせつつ、この先も「ボドゲクイズのひと」として、そしてこれからは「初心者の館のオヤジ」としても、その両面で頑張りますとも。



このブログも区切りがよく100件目を迎えることができました。
他の方とは違い、ボードゲームの紹介もなく、日々、感じたことを、長々と綴るだけのブログとなりますが、今後もゆるく続けていきたいと思います。
よろしくお願い致します。



2019年3月30日土曜日

「お金」という形の応援の話

お金に関する文章も絡めるので、その辺りを気にされる方はご了承ください。

思うところがあり、先日は連日、遠くに赴いた。

北海道へ、茂原へ、新宿へ、と、思い立ったが吉日とばかりに、なけなしの財布をはたいて、行くあても特に決めず、ふらりと旅に出た。

北海道ではかねてより応援していたハンドクラフト作家様の作品をまとめて購入、その後は札幌のゲームカフェ 「こにょっと。」様にて北海道ボドゲ博のお礼もかねてご挨拶し、店内で少しだけボードゲームを遊んだ。
申し訳程度にラーメンをすすり、その日の便で帰るという暴挙に躍り出た。

舌の根も乾かないうちに、その翌々日、千葉県は茂原市へと赴き、私の初漫画作品を展示してくださったというボードゲームカフェ「カラハンタ」様へご挨拶に伺った。
帰宅時間の関係で1時間も遊ぶことができなかったものの、笑顔が素敵で知的な店長、ユーモラスで美味しいコーヒーを淹れてくださった店員さん、また、平日夜にも関わらず集まった周りの方と、しばし大変楽しい時間を過ごすことができた。

その翌日は、新宿北口にほど近いBoard Gay.m Bar秘密基地様にお邪魔し、この日で卒業される、漫画「ゆるゆるボドゲバカ」を執筆された「きりんなべ」先生を送るが如く(とはいえ、全く湿っぽいものとはならず、単にボードゲームで遊ぶだけの会となってしまったが)花を届けにお邪魔した。


流石に連日の無理な移動が祟ったのか、翌日は身体がオーバーヒートし、布団から抜け出られなくなってしまったこと、周囲の方には本当にご心配をおかけ致しました。


遠出したいと思った理由は、意外と単純な話で、
「応援しています」の声を、直接相手に届けるためだ。

「遠方から応援しています」
「なかなかお会いできませんが、いつも見ています!」

いつの頃からか、私はそんな「遠方から」「またいつか」といった隠れみので、相手に贈り届ける応援の選択肢を、自ら潰していたのではなかったか。

もちろん現在の私は、求職中でお金もなければ、締め切り間近で時間すら無く、自己の身分を顧みず、悠長に「応援」などと言っていられる立場ではないことは重々承知だ。

それでも、最近になり「時間とお金の揮発性」を痛感する場面が多々あった。

お金とは何か
経済関連の本を読めば教科書的に「お金とは信用券」と記載がなされている。

Aさんが一万円札の紙っぺらをBさんに渡し、Bさんは一万円相当の商品をAさんに手渡す、
これはAさんとBさんとの間に相互信頼がなされている事で成り立つ行為である。
言うなれば、Bさんは商品を手放す代わりに、1万円の文字が記された紙っぺらという「信用券」を得られたのだ。

ごくごく簡単に話すと、経済とはそういう話に繋がる。興味を持たれた方はその手の関係書籍を読み漁るといいだろう。

「お金は血液だ」
これは私のフォロワー様の受け売りであり、その出典はまた別のアニメと伺っている。
だから、滞留させることなく、代謝を良くし、血行を促進させることで、循環はさらに良くなる。
先の話と強引に結びつけるならば、せっかく持ち前の信頼があるならば、出し惜しみせず、どんどん人前に披露することで、その循環がより良くなる、という話へと発展させることができる。
「金が金を呼ぶ」という(私個人も全く実感は沸かないが)話は、どうやらこの理論が出展らしい。


閑話休題。
だからこそ、自分の好きなもの、応援したいものには、積極的に応援・投資したいと考えるようになったのだ。
それは単に「声だけの「頑張れ」」ではなく、「形として残るもの」有り体に言えば「信頼という形としてイメージできるもの(≒もの、サービス、人によっては、お金、金券等)」として」届けたい。

本来ならば手渡しで、相手に対し本当に喜んでもらえるような物を届けたい気持ちだが、それができそうにないならば、せめて普段から「買って応援」「気持ちを形に込めて応援」したい。
生産中止のあおりを受けたのか、駆け込み需要で空となった食品や音楽CDの棚を眺めながら、ふと、そう考えるようになった。

普段からの応援の声は、応援する声も、される側の声も、どちらとも耳に入りにくい。
届ける側としても、普段の恩恵を伝える行為を苦手とする人は、本当に多い。
身の回りの方に「ありがとう」と伝える行為が、人によってどれほど難しいか、は、高天原制作「ホメロー」という作品をプレイすれば体験できると思うが、女性を目の前にして「いつも綺麗ですね」といった言葉がスッと口にできる男性はそう多くないのではないか。

そして、かねてより応援の声を上げてくださる方は本当に貴重だ。
嫌な声、ネガティヴな意見に負けそうになると、そんな応援の声など耳に入りにくくなる。
これは脳の作用が「ポジティヴな情報よりネガティヴな情報の方が(あくまで生存する上での必要情報として)ランク上方に位置付けるから」だと、ジャレド・ダイアモンド氏の著書で目にしたことがある。

先日のブログでも、アンケート結果に関して話題を取り上げたが、結果に一喜一憂することなく、常日頃から楽しみにされる方のバックには、さらに数百人のファンが控えている、と、これはあくまで私の体験談に過ぎないが、その見えない方々の声援に応えるべく、これからも作品作りを頑張りたい。


その応援する「声を上げて応援してくださる貴重な中の一人」に、私の名前がひょっこり混じっていると、嬉しい。


そんなことを考えながら、先ほど「●月▲日、祝!店舗●周年!」というボードゲームショップを聞きつけ、軽いタッチでフラワーギフトの注文ボタンを押した。






2019年3月23日土曜日

「普通」という評価の読み取り方ーBoardGameSelectionの反省を踏まえてー

今さら、の話かもしれないが、先般開催された「Board Game Selection」の拙著の選評について研究したい。

今回の私がエントリーした作品「Board Game Quiz NEXTAREA」



こちらはボードゲームではなく「書籍」である。
「ボードゲームを題材とした、クイズの本」だ。

私はこの本を「書籍という扱いがエントリーできないならば、そちら(店舗)に全て寄贈致します」という主旨の言葉を添えて主催側に提出した。
関係各位、本当にご迷惑をお掛け致しました。


さて、この会ではエントリーした作品全てに対し、プレイアンケートが届くことになっている。
実際にプレイされた方からの忌憚のない意見があるという、蓋を開けるまで恐怖そのものであったアンケートである。
蓋を開けると、どれもが好意的な意見ばかり。中には大変熱のこもったメッセージも添えられ、創作意欲が俄然湧いてきた。
アンケートやご意見を寄せられた方に深く感謝申し上げます。
次回以降、興味のあるサークル様も是非エントリーされてみてはいかがだろう。


さて、私個人の話。
エントリーした著作について、その評価は「5段階評価の「普通」」が大多数を占めた。


なぜ「普通」という評価が多かったのか。


私の著作は、「ドリル」と称される他のクイズ関連書籍に比べ、自分なりに、ではあるがデザインを工夫し、また、問題文も敢えて「競技クイズ」の書式・定型から外し、比較的「読んで楽しいクイズ」を目指した。

細部こだわりの一端は、当ブログ「番次郎の盤上万歳!!「評価数ゼロのデザイン秘話ー小冊子に隠されたデザインのあれこれー」」を参照してほしい
http://hibikre.blogspot.com/2018/12/blog-post_15.html



しかしながら、それでも多くの方が「普通」と下した、逆を返せば、「大変良い」「大変悪い」といった評価も少なく、「普通」だけに集中して票が集まる結果となった。

それは「可もなく不可もなし」「微妙」「一般的」などと短絡的に捉えてはいけないのではないか。

私の作品は「遊びました」などの報告ツイートを(私自身が)一件も確認できないままプレイ期間を終えた。(もしもツイートされた方がいらっしゃったらごめんなさい)
その時は気落ちもしたが、後日、直接関西各店舗にお邪魔した際「拝読しました」「面白かったです」といった感想を、ご覧になったであろう店員各位やお客様から直接伺うことができた。

社交辞令だったかもしれないが、それはそれとして、「面白かった」という言葉を素直に受けることにした。
ならば「面白かったけれど、普通」
この評価をどう受け止めるべきか。

推察するに、他のクイズはおろかボードゲーム関連書籍がノミネートされなかった以上(当然といえば当然だが)、「比較対象がない、評価のしようがない」、言うなれば「優劣の判別がつけ難い」という意味合いの「普通」といった評価も混じってはいなかっただろうか。

Board Game Seledtionでは、大賞も含めた受賞も用意されていた。
その特性上、何らかの形で「優劣」を決めなければならない。

それら優劣の尺度は個人に委ねられる。
評価基準、すなわち「大賞の選考基準となる尺度」
こればかりは、選考する個人の尺度、すなわち「経験値」「他との差異」に委ねられるより他にない。

私の作品をその視点で眺めると、答えは一目瞭然だ。
「比較する対象」が無い以上、「目の前にある他の作品を「何らかの尺度(ものさし)を用いて基準」とする」より他に評価のしようがない。

どれだけスパイシーで美味しい料理であろうとも、それが「甘い味覚を絶対基準に持つ世界」では、すべての尺度が「甘さ」や「個人的な味覚」といった数値化の難しいものとなり、刺激的、という新たな軸が審査員の評価に値されるまでかなりの苦戦を強いられるだろう。
それは仕方のない話であり、誰それが悪者という話ではない。

別件だが、所変われば品変わる、という言葉もあるように、無言でカードを出すという新機軸が話題となったW.ウォルシュ作「ザ・マインド」も、ドイツ年間ゲーム大賞2018ノミネートまで上がりつつアズールにその座を委ねたが、2019年のフランス年間ゲーム大賞では見事に大賞を獲得している。

<参照 Table Games in the World記事>
https://www.tgiw.info/2019/02/asdor2019.html



ゲームマーケットの新作に限らず「新機軸」「新感覚」を謳う作品・商品は巷でも数多く目にする。
人は新たな刺激を求め、常に「新感覚」「従来にない新たな試み」に挑戦したくなる、実にアグレッシヴな生き物だ。

そんな中、「新感覚ゆえの「評価に値されない」苦しみ」は、目の当たりにされなければわからないだろうか。
もちろんそれらは積極的な広報活動や、宣伝媒体を通じた各種活動等で補備、回避できうるものと考える。


今回の貴重な機会を通じ、目を通してくださった方々に幾ばくかの「物差し」を作ることができたのではないか。
ならば次は、己がその尺度を超える作品を制作すれば良い。

私は次回、ゲームマーケット春に「NEXTAREA R」と称し、リメイク作を制作する。
各種デザイン本を監修されたPOO松本先生からみっちりと指導を受け、必ずや自己の作品を私自身が凌駕するよう、全力をもって作品制作に臨む所存だ。

そして、次は「アナログゲームのなぞなぞ本」だ。




こちらも「アナログゲームをテーマにしたなぞなぞ・謎解き」というテーマで、ゲームマーケット大阪にて頒布し、多くの方に手に取っていただいた。
直接私自身が受けた反応は上々で「脳の普段使わない部分を使っている!」「面白い!」などの意見を伺っている。

こちらも問題作成に苦心しつつ、鋭意制作中だ。進捗は現在まで53/100、だろうか。

新規開拓は難しい。そして、その評価は、やっぱり届きにくい。
面白さが確証されていない作品に、現実問題、人は身銭を切ってはくれない。
現実的な支えも含めた応援、すなわち「私はあなたの声を聞いてますよ」といった生の声が聞こえなければ、いわば壁に向かって一人語りをするようなもので、やはりモチベーションの維持は難しい。

だからこそ、地道に種を蒔き続けるしか、ない。
面白さを知ってもらうことに、貪欲になるよう、努力するしかない。

今は愚直に、コツコツと、不器用な自分には、種を植えることしかできないから。
それは創作に限らず、人との縁や勉強等も含めた多くの面で、あらゆるつながりを持つことに他ならない。


この頑張りが、いつか実を結びますよう。



2019年3月16日土曜日

道は開けた、のかな?ー新刊の決意表明に代えてー

指摘があって気づいたのだが、気がつけばゲームマーケットの遠征から早1週間が経過した。

怒涛のような遠征、相応するかのような時の流れ。

少し時間も経過した頃だろうと思うので、私の新刊の行ったことを反省も含めて紹介したい。

新刊は2冊。
「アナログゲームのなぞなぞブック」
そして、おっとり刀で作成した4コマ漫画
「きょうもボドびより。」

いずれも自分の中で「実験的な本」となった。

前回のクイズ本「NEXTAREA」は、ドリルとも揶揄される既存のクイズ小冊子からの脱却がテーマだった。
クイズを趣味とされる方がいらっしゃるならば、是非その「問題集」をご覧になるといい。
初めての方が読むには少し読みづらい。勉強を前提としているから、当然といえば当然ではあるが。
だから私の次回作は、デザインを一新させ、読みやすく、かつ、知識というよりむしろ「面白い問題」を用意した。
わかる人にはわかるだろうが、一般のクイズ問題集とはその構文がガラリと違う。

しかしながら、それでも私の本は厳しい批判を浴びた。
連日のように届く問題の不備、指摘、さらには「クイズとして使えないものばかり」「こんなのクイズとは言わない!」などのツイートを直接受け、平身低頭の立場で振る舞う私。
頑張りに見合う評価など届くはずもなく。
12月、私の精神状態はすでに限界値に達した。

では、どうする?
上級者も初めての方も、フラットの立場で考えられる、そんな問題が、本当にできないだろうか。

そこで行き着いた先が「なぞなぞ」だった。
なぞなぞならば、子どもでも大人でも楽しめる、むしろ童心を忘れた大人だからこそ、なぞなぞの面白さ、奥深さがより理解できるのではないか。
しかるに「一般のなぞなぞ」の本など、本屋に行けば普通に入手できる。
ならば、私自身がここ数ヶ月で集中的に勉強した「アナログゲーム」かつ「初めての方でも楽しめる視点」を兼ね備えた、いわば「みんなが楽しめる、アナログゲームの、なぞなぞ」
そんな本が、本当にできないだろうか。

言うは易く行うは難し
なぞなぞ作成は実に困難を極め、なんどもなんども挫折した。


そして、4コマだ。
元々は自分のイラストの勉強のために、何気なくツイート上で始めたもの。
「イラストが描ける人なら、漫画だって描けるでしょ?」
半年前の「イラストなど描けなかった頃の」自分が、後になって愚かだったと気づく。
考えたらすぐにわかる話。漫画とイラストは作業が別だ。
素人でも「簡単にできるものではないこと」などすぐにわかりそうなもの。

面倒?できない?
ならば、やろう!

ボードゲームを題材にした漫画はこれまでも多くの作品がツイート上で展開され、その何れもが美麗なキャラクターで展開される。
稚拙なイラストの私など、どうひいき目で見ても見劣りしてしまう。

それでも、逃げたくはなかった。
今の自分にやれること、できることは、どんな批判を浴びようと、頑張ると決めたのだ。

視点を変えることにした。
・4コマで起承転結をまとめること
・紹介マンガではなく、わからない作品でもそれなりに楽しめること
・できうる限り毎日継続すること

少し高めの目標を掲げたが、外見がダメなら中身で勝負するしかない。
漫画は一日1本が限界。一作品(4コマ)を作るために、ネタ出しも含めて制作に2、3時間かかることもザラだ。

目の前に「夢」という名のニンジンをぶら下げ、ひたすら馬車馬のように走る、走る。寝食を忘れ、制作に没頭する私に、SNS上の方々は温かい声で心配してくれた。本当に申し訳ございません。

完成・脱稿。
数週間後、無事に到着。

産みの苦しみ、というが、出来上がった本を前に私はしばし言葉を失った。
とめどなく溢れる涙。
誹謗中傷の声など、今回に限ってはどうだっていい。
ものの数ヶ月前、私自身が「この世に出ること自体が奇跡」と実感した2冊が、現実として目の前に包まれているのだ。



「不可能が可能に」
名前はかっこいいだろうが、そのための努力量は計り知れない。
なにせ、道無き道を、不安を抱えながら進むのだ。
恐怖、不安、挫折、。。。多くの障害と格闘し、抜けた先のトンネルもまた山あり、谷ありが待っている。

需要と供給で世界は成り立つ、だから「意味のない本を作るなど、時間の浪費だ」
そんな言葉もあるだろう。
しかしながら、それも新規開拓する人間なら、幾度となく背に受けるセリフだ。
世界中を見渡しても、ボードゲームのクイズならまだしも「なぞなぞ」という「ニッチにニッチを二乗させた本」を作るなど、正気の沙汰ではない。
事実、買い手としても想像できる代物ではなかったらしく、前評判どころか「楽しみです♪」といった類のツイートすら見かけることはなかった。

ゲームマーケット当日。
売れ行きはざっと全体の2/3。
裏を返せば、行き届いて欲しい方には、全員行き届いた、ということ。在庫だとは考えていない。どんな形であれ、私の産んだ大切な我が子なのだ。

そして、もう2ヶ月もすれば、すぐにゲームマーケット春がやってくる。

今回の新刊は、実に3冊を予定している。




リメイク・続編とはいえ、3冊のリリースなど、かなりの強行スケジュールとなるだろう。

有言実行、辛いのは覚悟の上。
やるだけやります。
体力の続く限り、全力で頑張りますとも。

しばらくまた苦痛に満ちたツイートが続くかと思いますが、お許しください。



2019年3月14日木曜日

会話の楽しさと時間とを ー関西遠征記 三日目ー

関西遠征記 

初日「笑顔と涙の前日イベント」http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_12.html

二日目「出る杭は打たれ、伸びる」http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_13.html


三日目、3月11日

ゲームマーケットから一夜が明け、空は幾分青空が見える。
アルコールに縁のない生活の私、久しぶりのお酒で数年ぶりの二日酔い。
今回の遠征で三度もラムネ菓子のお世話となる。


今日は先に開催されたBoard Game Selectionでお世話になったカフェ様に、時間の限りご挨拶に伺う予定を組んだ。

朝食をそこそこに、まずは昭和町の「デザート*スプーン」様へと向かう。
月曜は定休日だが、ゲームマーケット後ということで臨時に開業しているとのこと。


住宅街にたたずむ「デザート*スプーン」様。
敷居をまたぐと、国内外を問わず多くの人気作品が所狭しと並ぶ。
店長の加藤さんはクイズ会やごいた会、囲碁会など、各種のイベントにも積極的だ。

「結局はやりとり、なんですよね。ボードゲームもクイズも」

二人で話す中、飛び交う言葉に混じる「コミュニケーション」という言葉は、土曜から続く私の関西遠征で何度も登場したフレーズだ。

批判を覚悟の上で話すと、私はクイズが好きではあれど、いわゆる「競技クイズ」と呼ばれる世界からは一線を引いている。
私の中のクイズは「知識比べ」だ。
「私はこんなことも知っています!」など、これまで脳にインプットされた知識の引き出しを競う、それがクイズだと考えている。

前回秋に頒布した拙著「Board Game Quiz NEXTAREA」
競技クイズをなさるであろう方々から頒布するたびに「パラレルだ!(訳:問題の構文がおかしいため文章が推測できない、解答に疑義がある等、出題するに際し何らかの欠陥がある問題を意味するらしい)」と批判を浴びた。

私の考えは競技クイズを嗜む方々とは若干異なる。
クイズがスポーツではなくコミュニケーションである以上、どんな問題であろうとも「出題側の自由」である。
言うなれば、会話のやりとりの延長に過ぎない。

「スポーツではなくコミュニケーション」とは?
前々日の「ボードゲームシンポジウム」の際、草場純先生がスポーツと遊びの違いを明確に語った。

「スポーツは勝敗があり、ルールも厳格に定められている。遊びは、楽しむもの」

自分なりに解釈すると、格闘技の世界では相手に対する攻撃は認められているが、それは定められた範疇において、時間、場所等を厳格にすることで成り立っている。
だから、ビール瓶などの凶器を持ち込む行為は基本的に厳禁だ。
しかしながら、街で暴漢にあったとき「凶器は反則だ!」と犯人側に要求できるだろうか。


加藤さんと対話するうちに、私は改めて認識した。

ボードゲーム製作も、クイズの世界も、プレイする環境の中において、何人もの「人」が介在し、人間同士のコミニケーションがあるからこそ、円滑に成り立つ世界なのだと。

だから互いが相手を尊重してあげなければならない。
我も我も、とワガママばかりを主張していてはどこかにしがらみが生じてしまう。
誰かが誰かに我慢を強いられる、そうした関係はどこかに歪みやねじれのようなものが生じてしまう。
そういった関係が長く続くとは思えない。

一期一会の人生とはいえ、もっと人間関係は、気楽に、楽しく、お互いを尊重しながら、共存していかなければ続くものではない。

「ナンバーワンよりオンリーワン」が声高に叫ばれ、自己顕示欲と呼ばれる自分たちが「偉い」と主張し合う、俗な言葉では「マウント取り合戦」に発展してしまってはならないのだ。

ゲームマーケットの中には「お客様の世界が存在しない」と言われる。
全てが顧客であり、すべての顧客がフラットな立場であるからこそ成り立つ世界である、と。

製作者も同じ
「制作側の苦労や意見ばかりを通してばかりで「仕方ないだろ!」とプレイされる相手に我慢を無理強いさせるようでは、現状はどうあれ、その後のスタイルが成り立っていかないことだろうと加藤さんとの対話で結論づけた。

もっと気楽に楽しく共生できる世界を考えなければ
もちろんそれらに無理が生じてしまうようでは何の意味もなさない。

制作側として、制作に没頭するではなく、関わる全ての方々により居心地の良い環境とは何か。
制作する立場として、お互いが幸せへと進む展望を考えなくては。


お互いに話し込むうちに時間となり、予定を大幅に上回りデザートスプーンを後にする。
雨はいよいよ強くなったがそのまま傘を刺すことなく次の駅へと向かう。
目的地はINST様。
こちらはボードゲームセレクションの主催でもある店長のてっちさんにご挨拶するためだ。

到着
中のお客さんらと私の手持ちのゲームを広げる。
おさかなこいし、トランプ、センコウハナビシ、などをプレイしながら、ボードゲームは「質」よりむしろ、その時々での会話や表情、ノンバーバルなコミュニケーションがあってこそ濃密な時間を過ごせるものと実感した。

周りがムッとしていてはゲームの面白さもわからない上に、相手のコミニケーションのやり方すら見失ってしまう。
昨今流行の兆しを見せる会話禁止型のゲーム(例えばザ・マインド、マジックメイズなど)でも、会話が禁止された後には、その後の開放感が生まれ、解放後には周囲に笑みが溢れる。
先日「謎解きは形容詞の後で事件簿」の作品を手がけた万屋楽団のサンジョウバ様ともお話した際も、やはりプレイ後の感想戦が楽しいゲームとなるよう制作に気をつけたと伺う。

会話は楽しい。
ときにそれは、多額のお金を払う飲み会でも、SNS等に長い時間を消費してでも、求める軸は「会話の楽しさ」に根付く。


INST様を出て、乗り慣れない鉄道に悪戦苦闘しながら、今回の遠征でどうしてもお邪魔したかった兵庫県加古川のボードゲームプレイスペース「駒の時間(とき)」様へと向かう。

駅を降り、歩いて20分ぐらいだろうか。細い路地を曲がった先に見える建物。
無事に到着。

入るなり家庭的な雰囲気のお二人が迎える。
名物のトキさん、コマさん。
お二方ともゲームマーケット後のお疲れである最中も、常に笑顔を絶やさない。

店内には細やかで色鮮やかなフィギュアやペイントの道具が並び、ボードゲームが好きだということが歴の浅い私にも肌身で伝わる。

暖かい二人。
ゆるく流れる御二人の温かみの中、つい私は気持ちを許し、辛かったこれまでの心情を吐露してしまった。

お聞き苦しい身の上話にもかかわらず、笑顔でそれを聞いてくださったお二人。
家庭的で人情味のある「関西らしい」雰囲気に、つい甘えてしまい話し込んでしまう。

お店を運営する長い幾数年の中、笑いもあれば、涙もあったことだろう。
長い年月の中、わずか3年という私のボードゲーム暦の中では想像できないほど、数多くの世界を目の当たりにし、綴られてきたのだ。
この人生の、この「駒の時間」の中で、多くの人と、ボードゲームと共に歩んできた、重みのある空間。
お二人の顔には彫りの深い笑みがこぼれていた。

コマさんの携帯が鳴る。
私のことを聞きつけた「めとろ」氏が急遽駆けつけるというではないか。
この暖かさ、情熱も、関西と言う土壌が産み出したものだろうか。つくづく頭が上がらない。

「好きな人と、好きな時間を共に過ごす」
それは当たり前のようで、実に贅沢なことなのだ。

アラフォーと呼ばれる歳になり、年齢の大切さ、健康の重要性をひしひしと感じるようになった。
それらも相まって、歳を重ねるにつれ「好きな人と過ごせる時間」が、大枚をはたいてでも価値のあるものに思えるようになったのだ。
今回の遠征で学んだ「合わない(相性が悪い)相手」は、無言で、自然と人が去る。
ボードゲームは一人で遊ぶものではない。先に挙げた、楽しい会話や、相手とのやりとりがあってこそ、面白さが増すツールだ。
まして初めての相手であろうとも、作品次第では、個人が取り持つプライベートスペースのかなり奥まった部分まで立ち入ることもあるだろう。
「また一緒に遊びたいと思える相手」
カタンの作者、クラウス・トイバーの言葉が、深く心をえぐる。



帰りの新幹線に揺られながら、旅の中のわびしさ、そして「また会える」は「いつでも会えるとは限らない」の裏返しである、と、そんな焦燥感すら感じさせてくれた。

また来ます、いつか必ず来ます
言葉にならない気持ちを、窓ガラス越しに投げかける。

悲しい気持ちを抑えるべく、私は駅弁を2つほど買い込み、飲み込むようにお腹に詰め込んだ。
満腹感が寂しさ、悲しさを少しでも紛らわしてくれることを願い、お茶を口にし、しばし目を閉じた。


嵐のような関西の三日間が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。
嬉しさ、楽しさ、そして、哀しさ、辛さ、
それらをスタンドのミックスジュースのごとく綯い交ぜにし、新幹線はものの2時間と立たずに私を元の自宅へと運んだ。

また新たな生活が始まる。

孤独な一日、ひとりの作業。
その後ろには、何十人、何百人、いや、陰で見えない何万人、何百万人もの後ろ盾があることも、今回の遠征で学んだ収穫の一つだ。

人が人を支え、そして、支えられて、今がある。

そんな人生哲学を教えてくれた関西の方々に、心から感謝致します。


「ボードゲームはコミニケーション」
ともすればさらりと流される言葉の中に、どれほど多くの意味合いが含まれているだろうか。
今回お会いした方々の屈託のない笑顔を思い浮かべ、私はやはり「いい人と良い時間を過ごすことができるならば、それがボードゲームが内包する素晴らしさのひとつかな」と、ぼんやりした頭で考えた。


風邪をひくことのないよう、厚めの毛布を頭からかぶりながら。

(了)

ありがとうございました

2019年3月13日水曜日

出る杭は打たれ、伸びるー私の関西遠征記 二日目ー

AM3:55
いつものように眠れぬ朝。

昨日までは「夢」だった。
今日を境に「現実」へと変わる。
だから、期待も不安もない交ぜに、緊張するのだろう。自然と目も覚めるもの。

少ない携帯のバッテリーを頼りにインテックス大阪へと向かう。
この日もやはり朝からポツポツと雨がぱらつく、あいにくの天候。

朝7時半、すでに多くのお客様が列を成しており、名古屋でもお世話になった山路さん親子ら、関西ではその名を知らぬ有名人がすでに揃い踏みしている。

スーツケースにパンパンに詰め込んだ荷物には、相変わらず修正用のテープを同梱させた。
いつになっても、新刊の誤植・誤表記は無くならない。見れば見るだけ「アラ」が出てくる。
カバンに詰めた数だけの不安を抱えながら、午前8時、設営開始の時刻である。

前回の北海道ボドゲ博0.5にて、全体の流れ、動きなどが概ね頭の中で形になっていたからか、次はこう、次、次、と積極的に動くこと、これも一つの成長なのかもしれない。



全体の設営はものの30分で終了。
告知ツイートを流し、修正版を用意する。

ふと、会場アナウンスにて
「会場まで残り10分となりました、出展者の方は〜〜」

時計を確認するとAM8:50
即座に訂正のアナウンスが入る。

高揚し気の緩んだ脳内に「ピリッ」とした刺激が走る。
油断してはならない。
いつでも対処できるよう、常に態勢を整えるべし、と、自分に言い聞かせる。

AM10:00、(真の)開場。
私個人のブースは、客足はスローペース。
当然だ。何せ「ボードゲームになぞなぞ」というチャレンジャブルな本である。中身を確認することなく「面白さ」を体感できるはずがない。

衣装も何振り構わずコスプレなどをやってみた。
かっこいいなんて言葉は度外視。
「まあなんとかなるさ」会場内に流れる独特の雰囲気に自分から溶け込んでみることにした。

ゲームマーケットはお祭りと称される。
考えるに、お祭りにいか焼きやりんご飴を求めて向かうお客さんは少ないはずだ。
お祭りの目当ては、神輿であり、盆踊りであり、花火といった「全体の雰囲気」を楽しむ場だ。
そこには何か「儲け」といったものではなく、来場者も含めた全体・全員で雰囲気を盛り上げるもの。
私個人の作品ならば、楽しみにしてくださった方全員に無料で配布することもやぶさかではない。
しかしながら、次の作品を輩出するためには印刷代も含めた若干の黒字を出さなければ続かない。
無料頒布こそできないものの、価格は原価ギリギリで考慮した。

会場当初、多くのお客さんが流れる中、私のブースの出足はそう多くはない。
時折手に取ってくださった方が、中身を見て購入し「帰って読みます!」と声をかけてくださる。
この流れは、今まで私個人が経験した各種イベントと同様だ。

大阪はどうだったか。
声を上げれば立ち止まってくれる。
見た目も鮮やかな早押しボタンにも目を止めてくれる。
ボタンを押し、ガチャを回し、面白そうな見た目の作品に興味を示してくれる。

ワンオペ、ブースに一人の態勢という厳しさも味わった。
大きな問題として、休憩時間がないこと。
トイレ、買い物、飲み物等の補充、ご挨拶回り・・・
人の力を思い知らされた。
もちろん今回「人手が欲しいなら」と手を上げてくださった方がいらっしゃった。
その方のご厚意に甘え、1時間だけブースを任せることができたこと、この場を借りて感謝致します。
人を集める行為も、企業・一般問わず、まずは人徳があってこそ。
良い雰囲気のブースには、主催に相応の人徳があるから成り立つのだと学び取った。

さて、私自身の作品の話をしたい。
ブース運営の醍醐味は「相手とのやりとり」だ。
先に挙げたように、面白そうなものに興味を示してくれる大阪の方。

「本をください」
「500円です。割り箸はおつけしますか?」
「え?!」

突如、なんら関係のないような割り箸という言葉にキョトンとする相手。大成功!
今回の割り箸は「おてもと(手元で使う割り箸の意味)」と「(本を)お手元にどうぞ」をかけたシャレだったのだ。
こうした冗談も笑ってくれる関西ならではの雰囲気が大好きだ。

何度か話したかもしれないが、ゲームマーケットは一人一人の力でお祭りを盛り上げてこそのイベントである。
だから何よりも自分が率先してゲームマーケットを楽しもうと決めた。
たとえ自己満足であろうとも、一番楽しんだ人物が何より私自身でありたい。
だから、楽しむための努力は惜しまない。
ボードゲームを売らず、カッコ良くもなく、カリスマ性も人気も何もない単に歳をとっただけの自分であろうとも、何かしらの形でこのお祭りを盛り上げることくらいなら、できるはずだ。


人の波は途絶えることを知らず、交代の時間いっぱいまでブースにつきっきりの状態だった。
短い時間で予約していた作品を回収に回る。ブースに人が不在で買い物のタイミングを逃した作品は、やむなく諦めて次へ、次へ、と回った。
ツイッターを開くと軒並み完売の報告が並ぶ。
ワードミノ、one card of the dead、メイドマフィア、じっくりミレー、サワロー、ヤバイかヤバイカ、きいろいろ、等々、事前の人気作、話題作は軒並み1時間と経たずに完売だった様子。
今回も広報・告知の重要性を痛感する。

告知こそ少なかったものの、私のブースに訪れた方も多かった。
有名ブロガーでありボ育てvol.3にも大きく関わった「さと」様はお子様連れで賑やかに来場。
初心者を自称しながら、その優しさと大胆さで多くの方から愛される「すがエリ」様。
先日の放送でも多くの作品を紹介された知識・人徳に溢れる「ボドっていいとも!」MCの翔さん。
遠方の九州からも有名ツイッタラーの「とりま」様や「大chan」様など、日頃SNSでお見かけする方が多く、こちらが平身低頭になるばかり。

購入を諦めた作品もいくつかあったが、その都度、助けてくださったのも、やはり「人」だった。
「きっとブースでつきっきりだと思って、持ってきたんです」
そう言って予約した作品をわざわざ私のブースまで届けてくださった、かぶけんさん、ピリオドゲームズ様、本当にありがとうございました。

終了時間まで客足が途絶えることもなく、撤収の時間も差し迫ったため、16時30分からいそいそと片付けを始める。
声を張り上げ、ボタンを用意し、それでも笑顔で許して頂いた隣の石膏粉末工房様にはご迷惑をおかけ致しました。

17時、終了の拍手が鳴る。
急いで段ボールを梱包し、外へと向かう。

冷たい雨。
普段は傘をささない私も、たまらずコートのフードを頭にかぶる。

「いかが屋」主催の打ち上げパーティにその足で向かう。
すでに多くの方が華やいだ声で盛り上がりを見せる。前日会とは雰囲気が変わり、反省会を行う方、楽しくお酒を酌み交わす方、早速購入したばかりのゲームで遊ぶ方など、政策云々の枠を取り払った賑やかな会となった。

私は、というと、完売とまでは行かずとも多くの作品が手元から去り、また初の4コマ漫画も手元にはほぼ残らないほどの人気を博し、印刷代も無事に回収できるほどの売り上げを確認した。
口にするのは勝利の美酒だ。末期の水とならなくて良かった。


酒は憂いの玉箒(たまははき)
悲しい気分の時は、お酒の力を借りてでも「笑い」を生み出す
大人になればそんなある意味「力技」も必要となるのかな。

この日の夜も大阪に滞在すると決めたため、いつもより多くのお酒を口にする。

また明日から
そんな気分も、まずはアルコールに溶かし、一夜だけでもゆっくり楽しむことに決めた。



酔いの回った頭で、自分のできること、求められることって、なんだろうと考えた。

SNSという言葉だけのコミュニケーションでは、多くの情報の一部しか伝えることができない。
それゆえ、こちらの思惑とは違う形で情報が流れることも多分にあるだろう。
だからものを売る際は、直接内容を伝え、説明し、相手に満足してもらいたい。
だからこその「対面販売」だ。

委託だろうが通販だろうが、そこには何かしらの「人」が存在する以上、より良いものへと吸収するべきものは「人徳」なのだ。
人と人との温かさといった甘い部分だけではなく、現実社会につきものの「冷たさ」をも甘受しつつ、それらを混濁併せ呑んでこそ、人徳が形成されるのだ。

とはいえ、「冷たさ」ばかりを恐れて周囲に溶け混んでばかりいては、平均点以上を取ることは難しいだろう。

だからこそ、もっと秀でた存在になりたい。

それは決して無茶・無謀といったことではなく、未だ眠っているであろう「独自のアイデア」を織り成し、世に生み出せるものでありたい。

勉強しなくては。
さらに多くのことを学び、変換し、作品にアウトプットしなくては。

その為には、多少「出る杭」として、打たれることも覚悟しなければならない。
打たれたと自覚できたならば、逆に「自分は出る杭」である証拠とも言えるではないか。


シーツにくるまりながら、当日の写真が一枚もなかったことを反省し、明日、店舗にご挨拶として回る分の小冊子を横目で確認し、眠りに落ちた。

つくづく今回の遠征では、ラムネ菓子の底力を痛感することになる。

(3日目に続く)http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_14.html



2019年3月12日火曜日

笑顔と涙の前日イベント 〜私の関西遠征記 初日〜

3月10日は前々から雨の予報と聞いていた。
私は急に思い立ち、1週間前くらいからだろうか、ジップロックを大量に購入することにした。
紙製の作品を取り扱う即売会、作品を購入された方が万が一雨にぬれる心配のないよう、一つ一つ作品を個装したのだ。
アメニティーもつけ、無事に荷物は送付。いつにも増して準備は万端。
体の震えは武者震いか、コーヒーの飲み過ぎか。
いずれにせよ、数日前から緊張が止まらない状態のまま、土曜の朝を迎えた。




3月9日AM09時33分
ホームでは若者の関西弁が早速飛び交っている。
街並みではなく、会話を通じて感じる「異郷の地」
飲みかけのお茶を一気に飲み干し、私は重い荷物をもろともせず、急ぎ足で改札ホームへと向かう。

カッコつけてはみたものの、根っから方向音痴の私は、結局待ち合わせに10分ほど遅刻することとなった。
相手はかねてからお世話になった方であり、尊敬する人の一人でもある「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」MC「いか」氏(以下「いかさん」と呼称)だ。
いかさんがブースを務める「いかが屋」は今回の新作「これっくらいのお弁当箱」も多くの方からの予約が殺到する人気ぶりと伺う。


土地勘のない私をレミングのように誘導するいかさんは、駅近くの「マクド」へと案内する。
お茶を飲みながら、今回の制作での苦労話が、つい溢れてしまう。
私の小冊子はデザインからイラスト、問題作成に至るまで全て私一人の作業だ。
一人とはいえ、手伝うよ、と手を上げた方がいないわけではない。
私は人にものを頼む行為が元来苦手なのだ。
理由は多々あれど、今回の作業もまた「無茶な」進行で進めていった。
血を吐くほどの努力、といった言葉があるが、幸い、血は吐いてはいない。
ただし、血の目やには出てしまった。


寝るに寝られず、寝ても覚めても、ずっと作業、作業。
頑張っても完成が見えない、顧客が手に取る、求めるであろう作品は、きっと「プロの手による、見た目も鮮やかな、かつゲーム性も高く、お値段もリーズナブルな作品」
・・・勝ち目がない。

だから、頑張るしかない。
一矢報いるための「何か」に秀でなければ、見てもらう事すら出来ない。

恐怖を拭い去るには、動くしかない。

いつしかそう自分に鞭を打ち続け、キツくなったらランニングをし、モチベーションが下がったならば冬場でも水風呂に入る、そんな毎日。

「みんな心配しとったんよー」
いかさんは私の話を終始笑顔で聞いていた。


コーヒーを飲み干し、次に向かった先は「ラーメン来来亭」
いかさん推薦の、味よし、ボリューム良し、関西一円では大変有名なチェーン店と伺う。




味玉ラーメンに(なぜか)アジフライ定食
このボリュームで1000円を切るお値段。
ラーメンといえば以前ツイート上で「じゃりン子チエ」の漫画を目にしたことがあった。
「落ち込むとな、元気がなくなる。元気がなくなれば食えなくなくなる!」
うろ覚えだが、そんな内容だったと記憶している。
だからおなかいっぱい食べられることは、元気のバロメーターと自分の中で解釈している。

漫画も、食事も、人情味のある、暖かい味。
私の中では粉物よりも「大阪らしさ」を強く感じる味だ。

普段一日1〜2食しか受け付けない私だったが、あっという間に平らげてしまった。

いかさんと駅ホームで別れ、次なる目的地「高槻現代劇場」へと向かう。
ボードゲーム界隈の著名人が集う「ボードゲームシンポジウム」の会場である。これだけの講師が集うイベントは関東でも滅多に開催されるものではない。
今回のテーマは「キッズゲーム分野への挑戦」
兼ねてから興味のあるテーマだったこともあり、私は盤祭1stでパンフレットを頂戴したその直後に予約を入れるほど待ちわびていたのだ。


会場入口がわからずウロウロする私に声をかけてくださったのは、兵庫県加古川のプレイスペース「駒の時間(とき)」のコマさんだ。

コマさんらと合流し数名で入場口を探し館の内外を行き来しつつも、なんとか会場受付に到着。


最初の講師は「すごろくや」店主の丸田康司氏。
テーマは「キッズゲームの現状」

講師はまずキッズゲームとは何か、といった観点から話す。
「ややこしいゲームを楽しめる人から「ややこしさが足りないゲームをキッズ向け」と呼んではいないか」
核心をつく言葉に思わず同調する。

ボードゲームは「大人にとって「子供も遊んでくれるし、自分も楽しい」稀有なツール」と話す講師。
だからこそ「大人も一緒になって遊んで欲しい」と言葉を加える。

「おもちゃを与えることで、子供だけで遊んでもらい、自分は自分だけの時間を確保…」
かつてのファミコン(ファミリーコンピューター)が流行に上がった背景はそんな親の思惑があったのではないかと指摘する方もいる。
だから、というわけではないだろうが、昨今の任天堂ハードのCMは「老若男女、家族で一緒に楽しむ姿」が画面に登場するよう見受けられる。
「家族同士の交流として」
もっと気軽に、気さくに、片意地張らず「ゲーム」だからと、もっと気楽に構えてもいいのではないか
聴講しながら思わずメモを取る手に力が入った。


分会の時間は、草場先生の話を聴講する。


伝統ゲームの中に垣間見える、アナログゲームの根幹とは。
「青山墓地」「丘の上の黒猫」など、民間伝承に根付く遊びを紹介し、実際に会場内で全員と遊んでみる
「恥ずかしさがあっては負けだ!」
何となくそんな義務感に追われた私は照れを隠すが如く人一倍大きな声で歌い、笑い、表情を豊かに楽しむことにした。
同会場の方々、本当にお騒がせ致しました。

講義に戻り、その中で「民族ゲームは遊びの中でいじめを疑似体験させる」ことが自然とできている、と話された。

これは私も少し前に似たことを思うことがあり、ツイート上で意見を伺った。

「ウソをつく大人になって欲しくないから(正体隠匿のような)ウソをつく作品はちょっと…」
という方にお会いしましたが、むしろそうしたシチュエーションを踏まえた上で「疑う、ウソを見破る考え方」こそ身につけておくべきなのかな、とふと考えたりしました
(原文ママ)

オーストラリアにも「キャッチ&キス」と呼ばれる、鬼役が子ども役を追いかけ、捕まると鬼からキスされる鬼ごっこがあるという。
細部は不明だが、こちらも先の話に登場する「捕まることへのペナルティが怖くて本気で逃げる」考え方に根付いたものではないか、と勝手に解釈した(鬼役になりたいか云々は別として)

言われてみれば、海外のキッズゲームにも鬼役に「幽霊」のコマを充てた作品が多い(これは私見です)が、これも幽霊に捕まることでの「ペナルティ」「捕まりたくない」何より「鬼(幽霊)にはなりたくない!」の意識を自然と芽生えさせることも一端にあるのではないか、と考えた。

ディスカッションも気になったが、どうしてもこの日にご挨拶したい場所があったため、途中で離脱し、谷町4丁目「ボードゲームショップ ギルド」様へと向かう。

先日の事前放送も元気な姿を見せた「ボドっていいとも!」の翔さん、ゲームマーケット秋でも多くの方から好評を博した「斯くして我は独裁者になれり」クリエイティブAHCのあまおち総統、カワサキファクトリー広報のyas-o様、先般のBoardGameSeledtionでも堂々の店舗賞を獲得された陽炎ゲームズのAkito様、最新作「ワードミノ」を満を辞して持参する「なにわのクニツィア」ことかぶけんさんら、有名ボードゲーム製作者様が大勢集う。

ボードゲームを制作していないため、とても肩身の狭い私。

笑顔で対応して頂いた「Guild」の大阪様は、今回の新作「Guildのおもちゃ箱」ゲームシステムを担当されている。
愛嬌のあるイラストを手がけたのは、その隣で笑顔を振りまくアリサ様だ。

数多くの作品に埋もれた私の書籍。
心なしか自信のような塊がスーッと消え失せる。

悲しんでばかりはいられない。

雨空の中、電車の遅延情報を後で知ると、次なる「前日会」へと足を運ぶ。

こちらでは兼ねてからご挨拶したかった主催の「川崎」様が笑顔で迎える。
きっと主催の人望・人徳だろう。こちらも普段「雲の上」のようなゲーム製作者・ポッドキャスター、人気ブロガーらが揃い踏みしていた。

おちょこ一杯にも満たないスパークリングワインで早速酔いが回った私は、多くの方が華やいだ声で話をする中、やはりポツンと浮いてしまった。

仕方がない。有名人でも、有名作を手がけたわけでもなんでもない、単なる「ボードゲーム好き」な一般人に過ぎないのだ。
翌日はボードゲームに関する本を売る、それだけの話。

川崎さんは普段の厳しいツイートからは想像できないほど、気さくで、明るく応対された姿が印象的だった。
会の終始を通じ、傍に話す相手がいらっしゃったように見えた。

笑顔は人を集める
聞きかじった言葉ではあるが、逆も然り「渋い顔は、人を寄せ付けない」
常に人が集まる川崎さん、いかさん、「ほらボド!」momi氏らとは真逆の私。
次回参加するまでに「笑顔」を振りまく練習をこなさなくては。


翌日の本番を控え、今日一日をベッドで横になりつつ振り返る。

いかさんとの数多くのやり取りの中に「好きな人間との時間」という言葉があった。

アラフォーを過ぎた私、先に挙げた人間関係のつらさ、痛みからか、苦手とする人間と無理してつきあい、好意を持った人間にほとほと騙され、搾取されることが、つい先日まであったのだ。
SNSでの「人間関係疲れ」も含め、孤独な中の作品制作、どんな意見であろうとも「神の啓示」と思いありがたく頂戴する、という世間の風潮に、隠しきれぬほどの疲れを感じた頃でもあった。
「生きている時間のリソースは有限」
「好きな人と付き合うだけで、それは十分」

嫌いな人間の意見に無理して迎合するよりも、自分に好意を寄せる方からの意見を汲み取り、自分のできることを模索し、反映させる。
今の私はその考え方に俄然「やる気」を見い出せるタイプだと感じる。

感じる、というのは「見い出した経験がある」といったプラスの視点ではなく「嫌いな人間の「お前はダメだ」という意見」を聞くなり、途端に「モチベーション」が急降下する性格からである。言うなれば「消去法」だ。
バイタリティ溢れる製作者様ならば
「多くの意見をください。むしろ、悪い意見をどんどんください!」
そうして多くの言葉を自分の中で精査し、より多くの意見を取り入れ作品に昇華できるのだろう。

精神状態が極度に低い私に、同じ芸当は、多分できない。
体がパンクしてしまう。
悪い意見を必要以上に吸収し、果ては人格批判とまで捉えてしまうだろう。

かといって、良い意見ばかりを取り入れ批判的な意見を排除してばかりでは「王様」のような体制となる恐れがある。

その折衷って、やっぱり難しい。

先のシンポジウムの中に「誰でも面白いゲームは存在しない」「これは逆も然りで、面白くないゲームは存在しない、誰かが必ず「面白み」を見出してくれる」

私の書籍に至っては、結局当日まで「面白そう!」といった前評判のツイートが上がることはなかった。
当然だ。誰も「ボードゲームで、なぞなぞ?」と聞き、掛け値無しに「面白いはずだ!」と太鼓判を押せる人物など、自分でもいないはずだと自覚する。

全てがマイナス発信の中、結局一日を通じ「笑顔」の重要性に苛まれながら、自分に一番足りない視点を突っつかれた前日。
笑顔で作業する、といった先の川崎さんを始め、シンポジウムでお会いできた「ンヌ」様や、Guildでお会いできた店長大阪様、アリサ様、ボードゲーム製作者様、前日会でお会いできた「さと」様、ら、私以外全ての方が、人見知りの激しい私にも屈託のない笑顔で振る舞ってくださった姿に、真面目で冗談の言葉も出ない私自身の勉強不足、特に対人関係の勉強不足を痛感し、ベッドの中で、悔し涙が溢れた。
翌日に控えた本番を前に、作り笑いすら作ることができず、その日は結局泣きつかれたまま眠りに落ちた。

昼過ぎから続く雨は、個室の窓ガラスを強く、強く打ち付けていた。

(二日目に続く)http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_13.html




2019年3月8日金曜日

ゲームマーケットは「刺激」を受ける場

今日、この文体を執筆している時点で本番までいよいよ二日前となったゲームマーケット大阪。
製作者は準備も広報活動も佳境を迎え、前日会、体験会など、前日近くまで実に活気に溢れる週末となる。

ゲームマーケットはどんな場所?
「面白いゲームに出会える場所」「新作ボードゲームを安価で購入できる場所」「普段交流できない方と久方ぶりに出会う場所」など、その捉え方は十人十色だ。


私自身の話、最近では、ゲームマーケットに「刺激」を求めて参加するのかな、と考えるようになった。

高いカタログ代を払い、決して安くはないボードゲームを、なぜああも購入に上がる強いエネルギーが湧くのだろう。

それは、人がそれだけ「刺激」を求めるからではないか。

一度会場内に足を踏み入れると、中は実に活気に満ち溢れている。
言わずもがな、ゲームマーケットはブースの内外を問わず、国内外のボードゲームファンが一同に介する場である。
有名ボードゲームデザイナーや著名人をはじめ、有名ボードゲームショップ店員、有名ポッドキャストMC、有名ブロガー、有名ボードゲーム漫画家・作家、有名ツイッタラー、有名ユーチューバー、等々、普段はSNS上でしかその名前を知り合えない方々に遭遇するかもしれない千載一遇のチャンスなのだ。

そして、自分の好きな作品の制作サークルに直接お礼を伝える場でもある。
ツイート上の「いいね」「RT」だけではなく、直接お金をやりとりし、「ありがとうございます」「いつも楽しく遊んでいます!」その声を届ける絶好の機会こそ、このゲームマーケット会場なのだ。

作品をやりとりし、製作者から直接お話を伺い、それら意識しなくとも、周囲に存在する多くのボードゲームファンがやりとりする場面を目の当たりにする、そんな環境下の中において、脳内では知らず知らずのうちに強く「刺激」を受けることだろう。


ファンは製作者と出会うことで、作品へのさらなる愛を「刺激」され
製作者はファンと出会うことで、作品へのさらなるモチベーションを「刺激」される。
刺激は相互作用で高揚し、個々人のモチベーションをさらなる高次元へと誘う。
作品への愛情が増したファンは更なるボードゲームへの楽しみ、面白みが増えることだろうし
ファンや作品への愛情やモチベーションが増した製作者は、今作や次回作への展望を垣間見ることができる。


それらは決して、ショップや通販等でものを買うことでは代替できない、大変貴重な体験なのだ。

制作ブースの立場として、「私の創作物を買って!」とは決して言わない。
ゲームマーケットには「遊びに」「体験に」、ちょうど帰宅途中にフラッとコンビニに寄るような感覚で、気軽に足を運んでほしい。
そして帰る間際「早く帰ってボードゲームで遊びたい!」といった気分に苛まれたならば、それはこちらが意図する「刺激」を大いに受けた証拠なのだ。



2019年3月2日土曜日

対人戦と云ふは優しさと見付けたり

ツイキャスライブでいかラジのいか氏のコラボに上がった際の話題だ。
「カタンの上級者は、相手を蹴落とすような交渉ごとはしない」

この件に関し、以前、モノポリーの日本選手権上位者と対戦した方も「あの方と交渉する時に、なぜか(相手ではなく)こちらが有利となるような交渉を持ちかけてくる」とお聞きした。
いかさんの話の中にも、カタンのプレイヤーにモノポリーのプレイヤーが存在すると話されていたことからも頷ける話だ。
上位者ともなると、周囲の状況に常に気を配り、相手が何を求め、自分にできることは何か、その中の最善手は何か、といったありとあらゆる選択肢の枝葉を伸ばすのだろう。

落ち物パズルに似ている。
手弁当で何連鎖と作成することが対戦において必ず強みとなるわけではない。
上位者同士の対戦では、急所となる場面で妨害となる連鎖、まとめ消しなどを発動させ、相手の狙いを狂わせる。
「勝つためには、高い点を取ることではない、相手より1点でも多い点数を取れば良い」
これはプロボウラーの方からも似たような話を聞いた覚えがある。
ボウリングのトーナメントでは、単にピンを倒すだけではなく、オイルの塗り具合やコンディション、さらには、相手のフレームのオイルを剥がすような投球をわざとしかけるといった面もあるのだとか。
「勝負の醍醐味はそこにある」
と記憶している。

カタンの話に戻る。
かくいう私も、実は先ほどのツイキャスライブ後に自己の苦い経験を思い出した。
カタン、しばらく遠ざかっていたけれど、そういえばこんな経験をした身である。
早速その日の日課4コマのネタに仕立て上げた。


なぜ上級者は強引な交渉をしないのか。
それは「そうした交渉ごとを一度でも持ちかけたプレイヤーは、その後、他のプレイヤーに警戒されてしまうから」であるといかさんは話す。

カタンの制作者クラウス・トイバーの言葉にも
「またあなたと遊びたい、そんなプレイをしましょう」
察するに、トイバー自身も勝ち方にこだわるが故に楽しさをないがしろにするプレイヤーへの警鐘を促したのだろう。

ボードゲームに限った話ではない。
連珠の福井6段とお手合わせした際も、こちらがなすすべなくコテンパンに、ではなく、もう一手でこちらが勝利となる寸前でスルリと相手が勝ちを持っていった、それが何戦も続いた、といった印象だ。
連珠だけではなく、オセロの名人の方とお会いした際もそうだった。
明らかに序盤こちらの色ばかりで埋め尽くされた盤面が、相手の一手で総入れ替えされるが如く盤面が入れ替わったのだ。
「オセロにおいて、序盤なんて関係ないからね」
そんな言葉を、手ほどきをいただいた日本オセロ連盟の方から頂戴した。

ドイツゲームを含む、アナログゲーム本来の魅力とは「何かしらの形でもう一度相手と遊びたくなる状況を(さも自然の如く)生み出せる」にあるのではないか。

一つの考えとして、聞いてほしい。
ボードゲームはテレビのゲームとは違い一人で遊べるものではない。ともにプレイする人間が必要で、盤面の世界をともに冒険する、感動を享受する「仲間」が必要である。
それらは単純に「NPC」といったコンピュータやオートマカードなどの存在に置き換えられる存在ではない。

なぜか。
それは相手を通じる行為が、ひいては「自己の意志を確認する行為」へと結びつくからである。

ボードゲームとは、相手との意思疎通を通じ、自分の思考過程を盤面に投影させ、意思を明確化する遊びだと考える。
それらを周囲に確認、同意させ、うまく周囲と調和を図りつつ、勝利を目指す。

難しく表現したが、要は、盤面で流れる時間の中に、それら目に見えない「心の交流」が、わずかな時間の中でプレイヤー相互にやり取りされているのである。

意思と意思とをぶつからせつつ、時に衝突し、しかしながらその根本は面白さに置き、結果という形で勝敗を目指す、
だからこそ、同じ戦略、戦法が存在せず、同じ相手だろうと、時間単位で戦い方が大きく変化を遂げる。
相手も変われば、それに応じ、自分の思考も変わる。
アナログゲーム本来の楽しみはどうやらその「相手と接触を図ることで、盤面が常に変化し、都度、思考することを要求される」辺りに存在し、表面的な「コンポーネントの豪華さ」や「ゲームシステムの妙」はそれらを引き立てる存在ではないか、と、考えた。

元々、家族でプレイすることを前提とするドイツ製のボードゲームの中には、「メンシュ(邦題:イライラしないで)」https://shop.neu-icarus.com/items/13244217   のような、相手への妨害をよしとするルールの双六が多数存在する。
細部はまた別の機会に考察するとして、これらの作品がドイツ国内で長年愛された背景には、「相手に対し何かしらの接触を行うことこそが、ボードゲームならではならではの醍醐味」とされたからではないか、と勝手に妄想する。

以前、とある方が(運の要素を排除した作品の総称、という意味合いでの)アブストラクトの魅力について、こんな言葉を述べた。
「相手がどう迫ってくるかが人それぞれで、それに対して、自分がどう攻めるかを考えることが楽しい」
これも、樹形図やフローチャートで計算されたコンピュータとの思考合戦ではなく、空気を隔てた向こうに生の人間がいる、という前提だからこそ為し得る味わいなのだろう。
これが仮にCPUだったならば、人間は「攻略する」ことに重きを置くに違いない。
その日の体調や思考、こちらが仕掛ける会話や、何気ない仕草等、一手で大きく変化する盤面、対人戦の面白さを通じ、やはり「自己の姿を投影」させている。

俗な話ではあるが、人間の目は前を向くように付けられており、自分の姿を自分で確認できない構造となっている。
相手を通じることでしか、自分の人となりを確認できない、とも取れる。

これらを踏まえた上で、冒頭の「カタン上位者が相手に有利となる交渉をわざと仕掛ける」行為について考えると、実に納得ができる。
「良い行為には良い行為が返ってくる」
因果横暴、いい人には、いい人間が集まる。逆も然りで、悪い人間には、相応の目を持った人間が、それなりの数だけ集うものだ。悪いツイートだって、バズればフォロワーの数”だけ”は増やせることに通じる。
だからこそ、相手に優しく接することで、優しさの行為は連鎖し、ひいては、自分の行為が良い方向へと広がりを見せるからなのだろう。



長々と述べてしまったが、今回の結論を端的に表すならば、たったの一言で済む。

「性格の悪い人間と遊ぶ名作は皆駄作だが、気の合う人間とならばジャンケンだって面白い」





2019年2月23日土曜日

「脱・初心者」宣言します

先日、横浜のボードゲームショップ「リゴレ」様にて、第2回目となる「ボードゲームにわか会」が開催された。
この会の参加者はボードゲームに不慣れな方ばかり、そんな方でも楽しめるよう、ルールも優しく、ギスギスしない作品を主催の石田さんが厳選したのだという。

「不慣れな方」いわゆる「初心者」ということになるが、この参加条件は「本当に初心者の方」とされたため、「いつまでも初めての気持ちを忘れないために(自称)初心者を貫く」私のような人間はことごとく参加を見送られたと聞いた。
(事実、私も参加を見送られた人間の一人だ)

ボードゲームに限らず、初めての方の中に「実は凄腕でした」が混じることで雰囲気が変わることは容易に想像できる。
初めての方ばかりを集めて草野球チームを作ろうとメンバーを募ったところ、元野球選手が参加を表明した。当初は嬉しかったが、その後、自分の練習はこうだ、効率よく行うにはこうだ、と、都度、口を挟まれるようになり思い描いた雰囲気とは異なった、といった話はよくある話だ。

何やかや、ボードゲームのことを知り、2年余り、所持数は3桁の私。
「ボードゲーム初心者」を自称するには、確かに「おまいう(お前がいうな、的なニュアンスで使用される言葉)」と突っ込まれるだろう。
逆の立場になって考えると、確かに自分より多くを知る方とのセッションは、大きな学びを得る機会であると同時に、自己の浅学を否応なく認識することとなるため、精神的な疲労の度合いも大きい。

ならば「これどうなんですか?」「さすが、よく知ってらっしゃる!」なんて頼りにされるかもしれない初心者中心のサークルに、ベテラン勢がひょっこりと混じりたくなる気持ちも理解できる。
もちろん「自分はベテランです!」などと宣言すると、人によっては「いきり立ったようなニュアンスの発言」として捉えられ、図らずも「その程度でベテラン?」「俺はもっと凄い」などの言葉が返ってくる可能性だってある。
「いつまでも初心者でいたい」
自分の中の漠然とした決意の中には、そんな、ある意味内向的な一面もあったのではないかと邪推する。


少し話題を変える。
先ほどから登場する「初心者」という言葉を、一時期ではあるが、その私自身が忌避して口にしなかったのである。

「初心」という言葉を広辞苑で引くと(用例略)

【初心(しょしん)】
1、学問・芸術の学びはじめであること。また、その人。初学。
2、仏道に入ったばかりであること。また、その人。
3、まだ物事になれないこと。世慣れしないこと。うぶ、未熟。
4、はじめに思い立った心、初一念「ーにかえる」

と、何か私の中で「上の立場の人間が、下から上がる人間を見ている」ような意味合いで捉える節を感じたのだ。

「ボードゲームは初めての方もベテランの方でもフラットに楽しめるもの」
そんな幻想に近い思いをいまだに描く私にとって、「相手にかける言葉がマウントを取られかねないのではないか」として、口にすることを取りやめたのだ。

お気づきかどうかは定かではないが、私の小冊子「BoardGameQuiz」シリーズでも「初心者」や「初級編」といった言葉を使用せず「ビギナー」「CASUAL」などの言葉に置き換えている。




(参照1:既刊「BoardGameQuiz NEXTAREA」より。)


しかるに、先日のこちらのイベントや、私自身の「考えずぎ」によることを踏まえ、今度の新刊では「初心」「初級」という言葉を積極的に使うようにした






(参照2:新刊「AnalogGameGAME」より)


あくまで自分の話ではあるが「初心者」という言葉を使う場面とは、先に挙げたような「自嘲する意味合い」も込められている場面ではないかと判断した。
「ヘッヘッヘすみません。実はアッシ、玄人なんでやんす」
表向きは初心者に見せかけて、その実、ベテランだったといった登場人物が、自己を卑下する際に使用する言葉、それが「初学」「初心」などの言葉ではないかと考えたのだ。

「新刊に取り入れた」とは、この「初心」という言葉の強みを活かす狙いがある。
志の高い人間でなければ、明らかに手負いするベテラン勢に自ら飛び込むような真似をするリスクは最小限度にとどめたい。
しかしながら、それらを回避する術も持ち合わせていない。
とはいえ、世界の危機を救う勇者でもあるまいし、ガチガチとしたものではなく、できうるならば、それすらも楽しくワイワイできるものにしたい。

そんな方に向け「こちらなら安心です」をそれとなく指し示し、うまく誘導する必要があるのではないか、そんな「先に走った人間として行うべきものではないか」といった義務感のようなものが湧いたのだ。


先日、初めて足を運ぶボードゲームBarに向かう際も、恥ずかしながら大変緊張する思いだった。
向かった先の新宿のBoardGay.mBar秘密基地様では、そんな私をも暖かく受け入れ、楽しくお話し、ボードゲームを行うことができ大変嬉しい思いをした。この場を借りて感謝申し述べる。
何年経とうとも、いくつの作品で遊んでいようとも、未開の地へと向かう勇者はいつだって「初心者」なのだ。
この「未開の地へと向かう緊張、恐れ」とは、大げさな話をすると、大航海時代に新たな土地を見つけるべく出航した人間の気持ちに似ているのではないか。
リスクを負うかもしれない、現状のままで満足することに、誰も異論を唱えないはず。
それでも、新たな場所へ向かうという希望と野心。
そんな方々を「初心者」という言葉で嘲るのではなく、これからは同胞となるであろう我々の世界へと目線を向けてくれたことに心から敬意を示すような、私は今後、そんな「脱・初心者」の一人でありたいと願い、ここに宣言する。


2019年2月21日木曜日

創作落語「カタンカタン」

先日勢いで作りました、古典落語「寿限無」をベースとしましたパロディの創作落語です。
アラが目立ちますが、お目こぼしください。



月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり、とは有名な松尾芭蕉の「奥の細道ーの冒頭でございますが、月日の流れというものは早いもの、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」なんてなことを申しまして、ボードゲームの制作者ともなりますと、この時期は、喫緊に控えました大阪のイベントや、5月に控えます東京のイベントなどに向けまして、新作のテストプレイや説明書の印刷などで大忙しとなる季節でございます。

「こんちわー、ご隠居いますかい」
「はいはい、おや、誰かと思ったらはっつぁんじゃないか」
「どうもご隠居。今日はね、ちょいとお願いがあって参りやした」
「ほう、 お前さんがアタシに頼みなんて珍しいね。なんだい?」

 ご隠居が聞きますと、はっつぁんは神妙な面持ちでこう言います。

「実はですね、ウチの長屋、今度ボードゲームを作っちまったんです」
「おや! 自作ボードゲームかい?」
「そうでやす」
「おや、そうかい。どちらのお宅だい」
「へぇ、アッシんところなんです」
「……何だよ自分のところかい。自分のところでボードゲームを作っておきながら『ボードゲーム作っちまった』なんて言い方があるかい。しかしまぁ、オメデタイこったね。そうかい、そういやあとしばらくすれば大阪でもイベントが、ついぞ5月の東京も2次募集が始まったなんてな噂も聞くが、良かったじゃないか」
「へぇ、ありがとーございやす。実は明日が『入稿日』でね、早くしねぇと、ヤのつく人が追ってくるらしいんでやす」
「そいつは物騒な話だねぇ、どこの印刷所だい?」
「隣町の印刷所なんですが、締め切りはとっくのとうに過ぎてるから、今日中に持って来なけりゃ、極道の人が入稿をどうとか」
「……そりゃ『極道入稿』てぇんだよ。あーあ印刷所の人ら、今頃カンカンに怒っとるぞ!」
「あーそれそれ、極道入稿だ。それでカカァと話をしてたんです、名前を付けなきゃいけないってんでね」
「お前さんは今になって、名前もつけとらんってぇのか。」
「ええ、何せ制作はカカァに丸投げだったんでね」
「情けない旦那だよアンタは」
「そんでカカァが、お前さん何もしないんだから、名前くらい付けとくれってんですが、アッシは学がねぇし、さてどうしようかと思ってましたら、カカァがね『じゃぁ横丁のご隠居さん、あの人は物知りでお調子者だから、聞けば何でも教えてくれる、アンタ、ウマイこと煽てて頼んできて』と、こう言うんだ。だからね、ウチのボードゲームに名前付けちゃくれやせんか、頼みますよご隠居」
「はっつぁんよ、その目玉をかっぽじってよーく見るんだ。お前さんは今『誰と』話をしてるんだ?」
「あ、ご隠居だ! カカァも言ってました。当人の前で言っちゃいけねぇって」
「まあいいわい、お前さんの顔に免じて許してやらぁな。でも何かい、名前を付けるってことぁ、アタシがボードゲームの名付け親になるって事だよ。構わないのかい?」
「もちろんでやす」
「そうかい、じゃぁ喜んで付けさせて貰いますかね」
「今度のイベントで喜んでもらえるような、めでてぇ名前なら何でもいいんだ。
 いやね、出来上がる前ぇは、バカ売れして欲しい、世界中で遊んで欲しいなんて思いもありましたが、完成直前のものを見るとンなことどうでもよくなっちまって。へへ、これが親心ってヤツですかね。親ってのは妙なモンだね。とにかくまぁ、買ってくれたお客さんが喜んでくれりゃぁそれでいいと思いましてね。何かそういう名前をお願いしやすよ」
 「ほう、喜んでもらえるような名前な。それじゃどうだろうな。昔からよく『笑う門には福来たる』なんて事を言う。『ボドゲで遊んで笑お!』なんてのはどうだい」
「お、なるほどねー。うん、結構には違いありませんけどね、あっしはテレビなんてなものを見る性分じゃございませんが、どことなく声優業界の方からお叱りの声が届きそうで。他のはありませんかね」
「声優業界の方がこんな会話を聞いているだとは思うまいがね……、まぁいいや、お前さんの気持ちも分からないわけじゃぁない。
 じゃぁどうだろう、実は先日、黄色い潜水艦の中で色々とボードゲームを見せてもらったことがあるわけじゃが、どうだろう、その中で見てきたものをいくつか教えるから、その中からお前さんが気にいったものをそっちで選別して名付けるってのはどうじゃ?」
「お願いいたしやす」
「そうさなぁ、一番人気があったのはカタンだったかのう」
「は、カタンとはなんでやんしょ」
「カタンも知らんのかお前さんは。カタンというのは相手と交渉して資源を獲得し、無人島を開拓するゲームでな、聞くところでは「無人島を開拓する」と「お客さんを買いたくする」がかかって縁起がいいとされとるんじゃ」
「開拓と買いたく……おおそれは素晴らしい、まさに今度の作品にぴったりな名前だ。で、他にどんなものがありやしたか」
「他には、カードゲームもあったかのう、ニムトと呼ばれるゲームじゃ。」
「ニムト、へぇ、そいつぁどんなカードゲームですか」
「ニムトも知らずにボードゲームを作るとはお前さんもたまげたね。牛のカードを引き取らないだけの簡単なルールでな、今度のイベントにぴったりじゃろ」
「流石でございますご隠居。他には何がありますか
「チャオチャオもあったかのう。嘘をつくことも生きていく上で必要という意味じゃからのぅ。昨今は何かと正体隠匿系と呼ばれるジャンルも流行だから、注目されること間違いないぞ。
「チャオチャオ、嘘をつくとエンマ様に舌を入れられそうですが、それも良いですな」
「閻魔さまをインランにしたらバチが当たるぞ!舌は抜かれるんだ」
「他にどんなものがありましたか」
「ラミィキューブもあったかのう」
「ラミィキューブですか。それはどんなものなんですか」
「こちらはイスラエルのゲームじゃが、つい先日、日本人が世界チャンピオンにもなった上に、それよりも強い7歳の女の子が、加古川のボードゲームカフェにいるというもっぱらの評判じゃ」
「おおそいつは縁起がいい!他にどんなものがありますか」
「そうだなぁブロックスなんかどうか」
「ブロックスとはなんですか」
「4人でできるパズルのようなゲームでな、ルール自体も1分で覚えられるから大人も子供もわいわい遊ぶことができるぞ。普通のブロックスの他に、携帯できるブロックスミニや、立体型のブロック3Dなんていうのもあったかのう」
「おおお、それは家族で楽しめそうですな。他にどんなものがあるんでやんしょ」
「子供向けのジャンルなんてどうじゃ。ナンジャモンジャなんてな」
「な、なんじゃもんじゃですか?」
「変な洒落なんぞいらんよ。これは妖精のカードに名前をつけるゲームでな、こちらも大人でも子供でもできる人気のゲームなんじゃもんじゃ」
「ご隠居、言葉がうつってますよ」
「やかましいわい」
「子供でもできる名前は大変ありがたいですな。他にどんなものがありますでしょ」
「スティッキーというのは」
「スティッキーとはこれまたスてっキーな名前」
「シャレはやめなって」
「スティッキーとはどんなゲームですか」
「棒を取るゲームじゃ。これなら3、4歳の子供でもできて楽しいぞ」
「他にどんなものがありますか」
「まだ聞くのかい?そうさなぁ、ブラフはどうじゃ」
「ブラフですか、それはどういったゲームですか」
「嘘をつくゲームでな、これも6人くらいで楽しむことができるんじゃ」
「ブラフでございますか。他にどんなものがあるんですか」
「まだ聞いてくるのかい?お前さんみたいなのを「濡れ落ち葉」ってんだよ。はいてもはいてもへばりついてくるんじゃからの、おお、落ち葉といえばアグリコラというものもあったな」
「アグリコラとはどういうものですか」
「農場を経営ゲームじゃ、国内自給率の低いこの日本、農家のことを日本人が知っておくことは必要じゃろ」
「ほおほおそれは大変すばらしい。他にはどんなものが」
「コリドールというのはどうじゃ」
「コリドールですか。そいつはどういうゲームでやんしょ」
「これはシンプルな2人専用のフランスのゲームでな、言ってしまえば将棋の仲間みたいなもんさ。沖縄にこれを普及させようと頑張っているかたもいらっしゃるそうじゃ」
「それは素晴らしい。他にどういうものがありますか」
「まだ必要なのかい?実はな、今までの中には協力ゲームが足りておらかったんじゃ。パンデミックはどうだ」
「パンデミックですか、どういったゲームでございますか」
「世界中の細菌感染から協力して世界を救うゲームじゃ。スケールが多くてかっこいいじゃろ。中には、パンデミックレガシーなんてな一度しかプレイできないシリーズもヒットしておる」
「パンデミックにパンデミックレガシーでございますか、他にどんなものがあるんでしょ」
「ラブレターはどうか」
「ラブレター、アッシは小中高とボッチで過ごしやしたんで、とんと縁のない名前でやんすね」
「お前さんの古傷なんてなどうだっていいよ。何を隠そうこのラブレターはな、国内のイベントから誕生した作品でな、今や世界中で認められている有名作品であるぞ。日本の作品を名前につけるのはとても縁起が良いんじゃあるまいか」
「なるほど、それはすばらしい。他にどんなものがあるんでしょ」
「お前さんもしつこいねぇ、じゃあこれが最後だ。勉強ができる要素があると教育界からの視点も集まると思うがどうかね。ローゼンケーニッヒはどうじゃ」
「ローゼンケーニッヒはどういうゲームですか」
「ローゼンケーニッヒとはかつてのイギリスで本当にあった薔薇戦争を題材にした2人ゲームでな、これを遊ぶことで歴史も勉強ができるんじゃ、どうじゃ、何か参考になったか?」
「ほうほう、つまり、カタンカタン、ニムトにチャオチャオ、ラミィキューブのブロックス、ブロックミニにブロックス3D、ナンジャモンジャのスティッキー、ブラフ、ブラフ、ブラフのアグリコラ、アグリコラのコリドール、コリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、と、こういうわけでございますねご隠居」
「うむ、適当に使うが良い」
「わかりやしたご隠居、恩にきます。おいら足し算引き算がからっきし弱いんで、いっそのこと、このめでてえ名前、全部入れることにいたしやす。ありがとうさん!」
「おいおいお前さん、全部入れるなんざ正気かい?!おーい!…行っちまったよあのバカ」

とまあ紆余曲折あったわけですが、この作品も世に誕生し、その類いまれなるネーミングからか一躍話題となり、お店で委託販売されるようになります。

「すみませーん!カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、ください」
 
「ありがとうございます、お客様が探しております
カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、は、現在在庫を切らしております。少々お待ちください。他店在庫のツイートを確認します」
「えーと在庫情報、カタンカタンニムトにチャオチャ…あ、文字数いっぱいになっちまったよ…しょうがないな。制作側にアポ取ってみるか」

「すみません。そちらの「カタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、現在在庫が切れておりますが、追加発注は可能ですか?」
「え、なんですって?ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、が、追加発注だって!?」
「ちょっとお前さん聞いたかい? ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒ、が、在庫切れにつき追加発注だってさ」
「何! ウチのカタンカタンニムトにチャオチャオラミィキューブのブロックスブロックミニにブロックス3Dナンジャモンジャのスティッキーブラフブラフブラフブラフ」
「ブラフは三回!」
「おお、そうだそうだ、ブラフブラフブラフのアグリコラアグリコラのコリドールコリドールのパンデミックのパンデミックレガシーのラブレターのローゼンケーニッヒが!?どれ、ちょいとひとっ走り行って、オレがその空っぽの棚を見てきてやる!」
ドタドタドタ…………
「って何だい、在庫はちゃんとあるじゃねぇか店員さん」
「はい、あんまり名前が長いから、中古が出回っちまった」

お後がよろしいようで

2019年2月16日土曜日

お祭りと熱量の話

駄文を書くことにしたい。

気合が足りない時、水風呂に入る。
真冬の最中、気温が一桁の時であろうとも、さっと入り、サッと出る。
冷えた体を温めようとするのか、血流が良くなり、かえって体は温まる。

水浴びではなく、水風呂だ。水に浸かる。
シャワーなどの冷水では、流石に耐えきれない。
常に躍動する水と、動きの緩やかな水とでは、同じ水温だろうとも、奪われる体温は段違いとなる。
冷水だけではなく、温水でもそう。
ぬるめかな、と感じたお湯も、かくはんさせながら入ると、思った以上に熱を感じてしまう。

詳しい話はサイエンスの先生に預けるとして、ここでは心理の面でアプローチを続ける。

ゲームマーケットが近づいている。大阪の本番まで、残すはあと1ヶ月弱となり、出展されるブースの広報活動もこれから活発となる頃だ。
制作も佳境を迎え、カタログを手に、新しい作品は何かをあれこれと巡らす、これも楽しみ方の一つだ。

私の好きなサークルは「熱のある」サークルだ。

それは、どんな作品であろうとも、自分の作品をこよなく愛するような、そんなサークル様だ。

そして、そんなブースからは見えざる「熱量」を感じる。

先に挙げたように、同じ水であろうとも、絶え間なく流動する水と、停滞を続ける水たまりとでは、自己の体から奪われる熱量が俄然違ってくる。

単に新作・旧作、人気作や広報等といったものではなく、言葉ではうまく表現できないアナログ的な「熱量」を、散策することが好きなのだ。

切羽詰った何か、といった鬼気迫るものでも、自社の作品に絶対の自信を誇るが故の優越感のようなものでも、どちらでもなく、「この作品の魅力を現段階で120%引き出せる人間は、他ならぬ私です!」といったオーラが体の隅々から溢れる人間にこそ、興味を惹かれ、そんな方の作品ならば迷わず購入したいと思う。
それらは中々ツイート上の写真や公式ブログ等では掴みきれない、対面販売ならではの効果とも言える。

ゲームマーケットを「祭り」と例えられる方もいらっしゃる。
私はこの表現が大好きで、祭りならば、各ブースの出展者はさほど大きな利潤を得ることなく、いわば「お祭り全体を盛り上げる意味合いで」参加される(と、少なくとも私はそう考えている)」わけであり、りんご飴を目当てにお祭りへと行かないことと同様に、一般入場者の立場となったならば「買いに来る」が第一義ではなく「そんなお祭りの雰囲気を楽しむ」いわば「ゲームを楽しむ」「買うのはついで」として、ゲームマーケットを楽しむことなのか、と考えている。

熱のあるサークルは、いわば神輿の男衆のようなもので、エイサーエイサーと掛け声の大きな人間に人の目が集中するかのごとく、その作品に注目が集まる。
その人間の人となりなど、少なくとも会場全体では気にとめることなどしない。
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」
お祭りの中では、お祭りを一番楽しんだ人間にこそ神が宿るとされるのだ。

だから私は、今回のゲームマーケット大阪、そして、5月の春、と、誰よりも「楽しむ」ことを主眼に置くこととする。

私の中でのゲームマーケットは、誰よりも「楽しむこと」
楽しむ中で、私の中の「ボードゲーム好き」さらには「ボードゲームのクイズが好き」の気持ちが現れること、他の方の熱を帯び、さらに私の中の熱量が高まること。
etc, etc...。

参加者側としても、出展者側としても、誰よりも楽しめるような、そんな工夫をするべく、これから準備を重ねていきたいと思っている。



2019年2月9日土曜日

深呼吸とアウトプットの話

お疲れのようですね。
肩の力を抜いてリラックス
大きく深呼吸。

深呼吸をテーマに考えることがあった。

先日から昼に「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」DJいか氏のツイキャスライブを拝聴し、時折コラボに入る機会に恵まれた。
その際、いか氏の豊富な経験に圧倒されつつ、何より相手側のいか氏が「経験値だけでは計り知れない、嬉しさを表現する魅力」を秘めていることに気がついた。
いか氏は私に忠告する。
「ボードゲームは楽しむものだ」

この3ヶ月、さらに遡れば、昨年からずっと、ボードゲームの「クイズ書籍」制作に没頭するあまり、ボードゲーム本来が持つ「みんなと楽しむ」一面をないがしろにしてはいなかったか。
昨年の夏、ボードゲーム王選手権で予選敗退の苦渋を味わい、その際もこのブログにて「楽しめなかったことが敗因だ」と猛省するそばから、この体たらくだ。

ボードゲームサークル「万屋楽団」のサンジョウバ氏とお話した際も、こんなエピソードがあった。
「ボードゲーム制作者の集まりで、最初に全員でゲームするんですよ。するとみんなが打ち解けるようになるんです」

この言葉に、私は痛く感銘を受けた。

振り返れば実に当たり前の話で、ボードゲームは誰とでも楽しめる、と、それはボードゲームを数十作も所持される方が一様に口を揃える言葉、のはず。
しかるに、これまで自分は、各種職場内外のビジネス、プライベート等の席上はおろか、近隣で参加した各種ボードゲーム会やボードゲーム関連のイベント等においても、それらが積極的に活用できていただろうか、と内省する。

ボードゲームの楽しみ方、それは先の講演の席で草場純先生も「人により多くの楽しみ方がある」と話された。
その言葉に甘んずるわけではないが、ボードゲームが本来得意とする「ほかの方、特に初めてお会いする方とも分け隔てなく打ち解けることができる」という一面をないがしろにし、自分にとって都合良く、言うなれば、自己のやり方に(半ば強引に)顔を向けようとする、
それで本当に良かったのだろうか。


深呼吸。
大きく吐いて、吸う

思うにこの「深呼吸」という動作は、「呼吸」「呼んで(息を吐いて)吸う」と表記する。
耳学問で恐縮だが正しい深呼吸も「まず肺の中の汚れた空気を一旦外に押し出し、新鮮な空気を体内に取り入れる」動作だという。
吸って吐くのが深呼吸、ではない。ということか。

ボードゲームを楽しもうと躍起になるあまり、購入することばかりに精を出し、面白さを自分の中だけに内包したままの状態こそ、まさしく先の「間違った深呼吸」そのものと言える。
そうなるからこそ、先のサンジョウバ氏との会話に登場した「ボードゲームでアイスブレイク」という「基本基礎」を、つい置き去りにしてしまったのではないか。


まずは自分の中の概念を一旦「アウトプット」し、アウトプットする中で、次第に必要にかられた部分を都度「インプット」する。
効率の順番として、私は逆進していたのだ。

先日から開催中のPOO松本氏による「デザイン講義」を受講中にも、その事実をふと思い起こさせる場面に遭遇した。

「自分好みのデザインを模倣、コピーすることは間違いなのか、成長につながらないのか」
この問いに対し、氏はこう答えた
「自分の個性を探る、見つけるためにもまずは一度模倣してみよう。絶対に完コピできないから安心」

自分の気持ち、想いを表現する為には、
まず「創作したいという気持ち」を持つこと(息を吐く)

周囲の書籍から、自分がやりたい方法を見つける(息を吸う)

多くの作品から模倣し、自分の言葉で表現する(息を吐く)

作品の良いところを取り入れる(息を吸う)

それらを周りに披露する(吐く)

評価を受ける(吸う)

フローチャートで表すと、これまで「成長する」という数値化の難しい行為が自分の中だけでも可視化でき、自分の中の「暗中模索」が続くこれまでの制作過程に、一筋の光明が差した心境だ。

この循環が滞ってしまうと、進行する大元が揺らいでしまい、先の「ボードゲーム本来の持ち味」が頭から抜けてしまいかねず、最悪、脇道に逸れたまま我が道を進む憂き目となる。

呼吸する、すなわち「適度のインプット、アウトプット」で、循環を良くする。
体内の循環を良くすることで、悪い空気が体外に排出されるとともに、次第に自己の許容量を超えるほどの実力も知らぬ間に身につくのだろう。

焦ることはない。
今できることを一つづつこなせば良い。

ゲームマーケット大阪、私は「ボードゲームのなぞなぞ本」を頒布する。
思い返せば3ヶ月前の12月、「こんなこといいな、できたらいいな」という他愛もない気持ちのアウトプットから芽吹いた本である。
書籍を買い込み、問題を作り続け、デザインにも目を向け、イラストも描き、アイコンを作り、果ては、さしもの評価のない4コマ漫画まで毎日執筆するようになった。

小さな吐息が、大きな呼吸へと様変わりした、と、カッコ良く言えばそうなるだろうか。

少々体に鞭を打ちながら制作を続けたが、その「夢の実現」までいよいよ完成間近。
本番の3月10日まで、残すところ約1ヶ月を切った。
カタログや手引きなども届き、今後は各制作者による広報、情報戦も幕を開けることとなる。

私は、私なりのやり方で、焦って息を吸う、すなわち周囲の情報に翻弄されることなく、己が身でできることをひとつひとつ「アウトプット(表現)」し、その都度必要な情報を脳内にインプット(仕入れ)ていくことにしたい。


とはいえ、まずはゆっくりと、深呼吸、そう、アランの幸福論でも讃えられた「お腹に新鮮な空気を送り込み、精神をリラックスさせる」という本来の意味合いで、ゆ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っくりと、進行できたらと思う。

2019年2月1日金曜日

笑顔のゲームが好きなのだ〜ニュアンスで表現した諸々の話〜

新刊の話で恐縮だが、今回の表紙には、少々「こだわり」を表現した。

これまで頒布した拙著Board Game Quiz、こちらは「不要なものを極力排除しよう」と進めていった。
その一つが「難易度の表示」だ。
「この問題の難しさは五段階の3~4」など、クイズ番組風に表現することもやぶさかではなかった。
しかしながら、クイズ本としての面白みを前面に押し出すと同時に「読み物としての面白み」をも削ることとなる。
できれば多くの方、とりわけ、クイズに抵抗のある方にも手にとって欲しい
そんな思いから、明確な難易度の表示を避けることにした。

その代わり、ニュアンスで伝える「曖昧な表現」により「この問題は難しい」を表現することにした。
いくつかの技法を駆使したが、そのうちの一つが「色彩による区分」だ。




上巻の表紙は薄い青。軽く、明るい。
幼さ、青空、晴天、等を生起させる。



一方で下巻は暗く重い紫。
重厚さ、博識、額のある、等が連想されるのではないか。

もちろんニュアンスはあくまで「補助」に過ぎず、きちんと「難易度中~高」といった明確な表記で補完すべきだった点、反省する。

秋の新刊NEXTAREAでは、さらに一歩踏み込み、登場人物に「妖艶な女性」を登場させ、クイズそのものの「不可思議な世界観」を表現することにした。


試行錯誤の末、ギリシャ神話の「エキドナ」をモチーフとし、ページの随所にキャラクターを配置させることとした。


そして今回、ゲームマーケット大阪の新刊、である。

クイズ本来の「知識同士の真剣勝負」から一転し「柔軟な思考が問われる」どちらかといえば「楽しさを前面に押し出す本」をニュアンスとして押し出す必要性に駆られた


ならば表紙の主軸はどうだ、キャラクターも一新するべきではないか。

ウンウンと唸りながら試行錯誤を重ね、ようやく表紙が完成した。


前作のエキドナを踏襲、頭身を下げ、より親しみやすさを高める配置とした。
ちなみにキャラクター名は「パンドラ様」と名付けている。

表紙全体のイメージは「おもちゃ箱」
ボードゲームの箱に詰まった「ワクワク、ドキドキ」、そんな楽しさを持つ本です!と表現しているつもりだ。

そして、パンドラ様は「笑顔」を描くことにした。

前回描いた「妖美な女性」とは一転し、笑顔で元気いっぱいの女性、その上、イエローが主体のまさに「パワフルさ」が全面に現れた本。
「難しそうとか考えないで、一緒に遊ぼうよ!」
今回のなぞなぞ本で最も主張したかったそんなメッセージを、あくまで文字ではなく「ニュアンスだけで」表現できたのではないか、と。考えているが、どうだろう。

以前も話題にあげた「ノンバーバルコミュニケーション」。人間は文字だけ、会話だけでは全体の55%しか内容を伝えきれない、相手の表情や言葉遣い、態度等視覚、聴覚等の情報で判断する、という。
ならば最も重要なことは「文字はあくまで補助手段」ではないかと考え、画面全体から伝わる「楽しさ、面白さ」をいかに表現するか、を主軸に、色彩や「おもちゃ箱から連想されるもの」を表現することにした。
帯の部分でニュアンスの補完ができたのではないかと考えている。


そして何より
改めて自分は「笑顔の生まれるボードゲームが好き」だと気がついた。

真剣なゲーム、面白いゲーム、笑える馬鹿なゲーム、重厚さが売りのゲームetc…
そんな中で自分が心惹かれる作品は「笑顔を育む作品」だったことに、改めて気がついたのだ。

プレイ中であれ、その後であれ、同卓を組まれた方相互で笑顔の生まれるゲームがプレイできる時間こそまさに至福に感じ、言うなれば、自分が行き着く作品の果てはその辺りに潜んでいるのかと画策するのである。







2019年1月25日金曜日

軽くて重い「第一歩」の問題 ーやりたいことを阻害するものって何?ー

ボードゲームをテーマに、なぞなぞの本を作ろうと思い立った。
イラストの練習も始めた。
急な思いつきで、北海道へ、沖縄へ、と飛んだ。
年末には念願の電子書籍も出版した。
最近になって、4コママンガも描き始めた。

先日のツイキャスライブにて、「おしゃべりサニバ」MCのすながわ氏に「きっかけは何ですか?」と問われ、ふと、手が止まった。
何だったんだろう、きっかけ。
自己技量の研鑽だの、あわよくば宣伝媒体に、など雑多なことは言えるだろうが、そのいずれもが本質ではない。
一つ言えることは、すべて「思いつき」で始めたことだ。
ある種の「ノリ」のようなものかもしれない。
この「ノリ」という言葉は、婉曲して「ふとしたはずみ」や「勢い」という言葉に置換される。

軽く始めた、しかるに決して「なんとなく」ではない。
「なんとなく」では「片付けられない」。
たとえ無意識化の行動だったにせよ、そこには何かしらの「理由」が存在するのだ。

気軽に始めたからこその利点がある。
初めて気がついたことだが、物事を始める理由なんて、正直、どうだっていいのではないか。
何だっていいのだ。
金銭的な面でも、感覚的なものでも、何でもいい。
それでも気が引けたり、尻込みしたりする気持ちは何だろう。
例えそれが、相手にも自分にも必ずプラスとして帰ってくることであったとしても、つい躊躇してしまう、あの胃の奥から喉元に押し寄せる感覚って、何?
色々と着手するうちに、それら事象の根源を自分なりに悟り得た。

ひとつに「失敗の恐怖」だ。

一歩踏み出すにあたり最大の敵、それは自分にとって「己の心」であり、ひいては「周囲の声」である。
失敗それ自体は、案外、恐れるに足らない。
元来生き物とは「師から教えを被る」より「自ら学び体得する」ようDNAが組成されている。
人間に限らず多くの生き物が、親の教えを享受しつつ「自ら体得する」。
「百聞は一見に如かず」、その言葉の先は俗に「百見は一行に如かず」と続くとされる。
失敗を重ね、実際に己の身で体得することで、自己の記憶や能力が開花し、経験を自らの血肉とするのだろう。

「失敗は投資」
多くの成功者がそう語る。

事実、始める前にあれだけ不安だった事実が、始めてみると思いの外スムーズにことが運んだことも意外と多かったのではなかったか。
「案ずるより産むが易し」
我が国には先人が残したことわざだってある。

もうひとつ、それは「周囲の目」だ。

「お前には無理」といった根拠のない否定は元より、「きっとこうだろうから無理」といった否定的な予測、「過去にこうだったから」などデータを後ろ盾にした忠告など、枚挙にいとまは尽きない。
高度情報化社会、老若問わず多くの人間がフラットな目線で発言できることが、こうした弊害をも生み出したのだろう。

どんな声であれ、外野の声は、薬にも毒にもなり得る。
思うにそれは精神衛生に大きく左右され、元気な時、悲しい時に応じ、自己の体に上手く処方することが重要なのだ。

周囲の冷たい目線は、行動する己の心でさえむしばむ。
自己の能力に自信を持てない、やってどうなる、周囲からどう思われる…。
そんな気持ちに支配されると、結果、自分の気持ちが「誰かがやってくれるはず」に帰結する。
「(自分より能力の上回る)誰か」、掘り下げると「(メリットも多いだろうけれど、加えて、厄介な面倒ごとも多くなるだろうから、それらを一手に引き受けてくれるスーパーマン的な)誰か」。
そんな「存在するはずのない「誰か」」に期待をかける。
コスパなんて言葉を使いたくもないけれど、作業量の差し引きを考えると、ポンとお金だけ出して厄介ごとが片付くほうが「遥かにコスパが良い」
努力で成し得たものは、見る人からすれば非常にコスパの悪い方法とも言える。

まとめると、
これまでの周囲の環境、生活基盤、等々、様々なしがらみ、加えて自己の経験則が「第一歩目」を阻害している。

これまでの人生経験で培われた、自己の判断が故に、こちらの壁を取り払う行為が実に難しい。

では、読者の方が一番気にするであろう
「それら全てをかなぐり捨ててまで、真に得られるもの」
とは?

正直、私自身が成功者と呼べる人間ではない為に、その先の「得られた果実」について正確な記述を行うことができない点、了承願いたい。
しかるに、一点だけ、確実に言えることがある。
ストレスが大きく削減されたことだ。

第一歩目からの再出発
いわば、それまで肩にのしかかった重荷を一旦下ろし、新たな積荷を背負って歩き出す行為だ。
プラスマイナスだけで換算すると、ゼロとなる。
しかしながら、それまでについた筋力や先を読む脳内の経験値の総量で、それらは決してゼロ発進でないはず。

何より、やりたいことをやっている時間は純粋に「楽しい」
会社で、部下・上司・同僚らの目線を気にすることなく、自分のやりたいことを、好きな時間に好きなだけできることは、やはり楽しい。


先日描いた落書き。数ヶ月前、イラストなんて丸に棒の人間しか描けなかった自分。
この程度の稚拙なイラストであろうとも、数ヶ月前の自分には決してできなかったことだ。
そう考えると、自分自身に「お疲れ様!」とエールを送りたくなる。
気持ちの共感があると、その喜びはひとしおだ。
ツイッターなどで「イイね」をもらうだけで、その喜びは何倍にも増幅される。
かっこいい言葉を言える義理ではないが、見るものを幸せにする蝶々も、その前は見てくれの悪いイモムシやさなぎの過程を経て成長したような。

おそらく私の周囲に存在する「やると決めたら即実行できる人」とは、これら「周囲の声」「己の心」などの障害をあっさりクリアできた先の「喜び」「楽しみ」を知り得る人間ではないかと考える
「ボドっていいとも!」パーソナリティの翔さん(@syousandesuyo)がパッと思い浮かんだ。

有言実行。
楽しいことは、なんでもやろう、いや、やります!
楽しいこと、できることをし、自分の内面を外と対峙させるうちに、次第に理解者も生まれ、今まで混迷していた「自分の姿」「自分の行くべき道」も見えてくるかもしれない。


そんな私を見かねてか、podcast「いかラジ」のいか氏からアドバイスを頂戴した。
「自分ができたから満足、くらいが丁度いい。」

私の次の目標
それは「年内中にpodcastを更新すること」だ。
いかさんや、すながわさんらをゲストに呼び、楽しくおしゃべりすることを最終目標に掲げたい。
生命の続く限り、頑張りますとも。

自らの意思が、強固であるほど
様々な試練に苛まれるものだ。
無論、試練を目前に避ける事も出来れば、
逃げる事もできる。
だが、試練の真意は、
そんな己の心を克服することにある。

(「斑鳩」Chapter2、試練ーTrialーより)


2019年1月19日土曜日

人は、誰かになれる。-沖縄旅行記 後編-


沖縄旅行記、前編はこちら>https://hibikre.blogspot.com/2019/01/blog-post_18.html




沖縄旅行、二日目。

曇天模様の空はひんやりとした海風を運ぶ。
気温13度、想像しづらいだろうが、南国といえど、冬場は寒さを感じ得るのだ。
念には念を、と持参したパーカーがきちんと役割を果たすとは。




旅の目的である、昨年のゲームマーケット秋にてお手伝い頂いた「たまご」さんと逢う。
多忙な業務の傍、時間を縫って駆けつけてくれたのだ。
人望の厚さと、持ち前の豪快さ、一方で、説明の繊細さなど多くを併せ持つ、言うなれば「ワイルドカード的」存在だ。

私個人たっての希望で、海を見に行く。




沖縄の海は淡く、広大。
白い砂浜に透き通った水辺では、この時期も数名の海水浴客が戯れていた。
「幸福論」のアランは悩んだ時、海を眺めたという。
さざ波の音は耳に脳に心地よく、多くの詩人が「優しさと雄大さを運ぶ」と表現した、その一片を私も汲み取ることができた。

沖縄本土全体に漂う独特の「のんびり」としたムードを、「沖縄時間」と表現するのだとたまごさんは教えてくれた。
腹が空いたら飯を食い、眠くなったら眠り、遊びたくなったら歌い踊り、少し前に見かけた「経営者がその時間で金を稼ぐよう持ちかけ、その稼いだお金でどうするのかを問われたら「毎日食べて寝て踊るのさ」」と答えた、あの笑い話をふと思い出した。

ルーズ、というわけではない。
察するに、高い必要性を感じないのだろう。
あくせくするな、のんびり生きよう。
それが人間らしく生きる、本来の在り方なのだ、と。

一方で、島国という特性上、新しい文化、新しい情報を積極的に取り入れようとする側面も見られる。
そのためか、遠方のお客様を熱く歓迎する文化が敷かれており、いわば「お客様が何よりのご馳走」と言わんばかりに、私のような来客を多くのご馳走でもてなしてくれた。

北海道の地でも触れた「楽しさを追求し、楽しさの髄を集めた文化」然り、(例えば節分豆を落花生で行うなど)その土地土地の「文化」と呼ばれる背景には何かしら「住む人間の人柄、土地柄」が根付くものだろう。

昨日お邪魔した「カッパのお城」様でも、店主が積極的に「見知らぬボードゲーム」をお客である私に勧めてきたことが、嬉しくもあり、何と無く不思議でもあった。
これもその「沖縄」という土地柄が持つ「楽しいことはどんどん提供しよう」といったおもてなしの精神に基づくものかもしれない。
「めんそーれ(沖縄の方言で「ようこそ」の意味)」とは、まさに沖縄ならではの言葉だ。

昼はちゃんぽんをいただく。





リンガーハットでおなじみの麺を想像したが、沖縄のそれは、野菜炒めを卵でとじたものをご飯の上に乗せたワンプレートランチだ。沖縄ではこちらが一般的だという。
醤油ベースの濃い味付けがご飯にマッチし、食の細い私もかなり食がすすむ。




腹も膨れ、一路「サイコロ堂」様へ。
ゲームマーケットでは都内「コロコロ堂」様とコラボ、年始には価格を大きくオーバーする内容のボードゲーム福袋を販売し話題となった、県内有数のボードゲームショップ・カフェだ。



所狭しと並ぶラインナップは、店内の他に別の倉庫にもストックされていると伺った。
不朽の名作から、最新作のLift OFFまで、先の沖縄時間も相まって、店内は何時間となく過ごしたくなる雰囲気だ。

訪れる常連客も、ボードゲームを遊びに、というよりむしろ「気さくで明るい店長との他愛もない会話」を楽しんでいるように見られた。

これまで各種ゲーム会やカフェにて「定められた時間を最大限楽しもう」とガツガツ多くのゲームを取り出す姿勢だった自分にとって、サイコロ堂様のまったりとした雰囲気は自戒の念すら覚えた。

たまごさん、途中から現れた時化さんらを交え「ギズモ」をプレイ。

緊張と疲れでつたない説明となってしまったことを、この場を借りて謝罪申し上げたい。
しかしながら、さすがインストのプロを誇るたまごさん、説明のプロは聞き手としてもプロフェッショナルであり、私の穴抜けばかりだった説明をきちんとプレイできるまで補足していただいた。
もちろんゲームの内容を一番理解できたであろうたまごさんが勝利をさらっていったことは言うに及ばず。




昨夜も披露したマムマムマーガレットは小洒落た店内でも見栄えし、多くの方の目を引く。
ハンドメイドを手がける方にもプレイしていただき、その丁寧な装飾と、細部にまでこだわったゲーム性に終始感服されたご様子だった。


次に、時化さんお手製のコリドールで対戦する。
時化さんには話していなかったが、実はお邪魔する前に、かなり攻略法を研究していたのだ。
つい立ての置き方と、先読みの方法など、個人的な研究が功を奏し、序盤は優勢に駒を進め、また向こうを上手く妨害できたつもり、だったはずだが、やはり「コリドール普及委員」を自称する相手が数枚も上手、実に一手差で無念の敗北を喫する。
「生兵法は大怪我の基」と先人は上手く言ったもの。次こそリベンジを誓う。


他にも「41」(トランプゲーム)など。
トランプや紙ペンゲーム、ダイスゲームは「いつでもどこでも誰とでも」といったアナログゲームの汎用性の高さも相まって、私は多くのゲームカフェで披露する。


夕刻となり、次はもう一軒のゲームカフェ「五郎茶屋」様へ。



海外から国内作品までこちらも数多くの作品が集う五郎茶屋様では、この年末もクイズや音楽など多くのイベントで盛り上がりを見せた様子。
店長も美麗で明るく知的な方で、多くの作品に自ら興味を示し、先日も単身東京のカフェ様を訪問に訪れるなどパワフルな一面を併せ持つ。

常連のお客様は「いろはことば」をプレイ中。制作された「サイタニヤ」様もこちらに訪れたのだとか。

五郎茶屋様では私個人の作品を主に披露する。

まずは「おさかな小石」
LOGOS社のカードゲームで、最近まで絶版が続いていたが、最近になり、ようやくすごろくや様から再販が発表された。
対面となり、池の魚を効率よく釣ることが目的で、軽さとジレンマがうまく合わさった、昨年の上半期、私のベストゲームに上がる作品だ。

次に拙著「ボードゲームクイズ」を。
先日のクイズ会での「優勝者」、「問題製作者」、「主催者(店主)」、「たまごさん(インストプロ)」の巴戦となり、勝負は一問ごとにパネルの争奪戦となる、かつてない激戦を呈する。
僅差でパネルを獲得した店主が逆転で勝利をもぎ取る形となった。

もうひとつ「ゲーム音楽かるた」
ゲーム音楽でプレイするかるた、と表題そのままの内容で、かるたで勝負する横軸と、音楽を聴く縦軸の両側面を楽しめる作品である。
マリオからAIR、スプラトゥーンからねこあつめまで新旧取り揃えている点が手前味噌ながら自慢だ。
傾向として「ゼルダ」「ファイアーエムブレム」の札が取られにくく、「AIR」「サクラ大戦」の札が瞬時に取られる傾向にあったのかな、と雑感する。

店内で注文した「ホットのさんぴん茶」が絶品で、鼻にスッと抜ける香りが心地よかったので、来店の際は是非ご賞味あれ。

ホテルに戻り、この二日間を振り返る。

明るい店内、気さくな店長。
それらに集うミツバチのごとく、沖縄の各カフェでは多くのお客様が、ボードゲームカフェという場で「ボードゲームカフェという空間」を楽しんでいるかの印象を受けた。

それらは先に挙げた沖縄の風土が持つ、時間の流れ、県民性、そして何より、店主の人がらによるもので、「ゲームカフェでボードゲームをする」といった縛りのゆるさが程よく内包されているのだろう。

働きたい時に働き、食べたい時に食べ、休みたい時に休む。
それらを寛大に受け入れ、包み込み、決して表舞台に出ることなく、常に影で見守るような、言うなれば、沖縄に群生する大樹の如き存在。
それこそが沖縄のゲームカフェだったのか、と考えた。

ガジュマルに代表される沖縄の大樹は、幹も低く、自ら大きく存在を誇示することこそないが、それらは長い時間をかけ、大きな枝葉を為し、新たな影を作り、新芽が息吹き、鳥を呼び、次の世代へとその幹を為し得て行く。

カッパの城、コロコロ堂、五郎茶屋、三者三様、各々が持つ独自の形で沖縄のボードゲーム界隈を、傍らで見守りながら盛り上がりを支えていたような。
そこに新たな「ボードゲームカフェの存在とあるべき姿」を垣間見た気がした私は、疲労する身体の中、心だけがすこぶる弾んでいたのだった。


最終日。

初日から姿を見せることのなかった晴れ間は結局この日も顔を出すことはなく、朝からあいにくの雨模様。
普段傘をささない私もついに観念し安物の傘を購入する。

下半身がずぶ濡れとなりながらお土産物を物色し、無事に帰りの飛行機へと乗り込む。

人混み溢れた飛行機の中で、ぼんやりと考えた。

二進法の考え方では「1」に対局する値は「0」となる。
「有」か「無」すなわち、やるか、やらないか。
やらなければ「0」のまま。何かを行うことで「1」となり、次の桁数へと派生する。
思い切って飛び込むことで、見えてくる世界。
すなわち「0」とは「0」のまま固定された状態のことであり、「1」→「0」に変動することとは意味合いが異なる。

今手にするものを全て吐き出すことで、新たに手にできるもの。
それらは自分をすべからく改心させるものではなく、髄にある部分を残しながら、雑味の部分だけを巧く入れ替えるような。

人はそうして、誰かに会い、成長し、新たな「誰か」へとなり得るのだろう、か。

しばし自由な身となり、こうした放浪の旅を行いながら、私自身、その目指すべき「誰か」となり得たら嬉しい。
帰りの飛行機で、ぼんやりと、そんなことを考えた。



PM16時、羽田空港着。
東京は旧暦の正月を間近に控え、一層厳しい冷え込みを見せたらしい。
慌ててスーツケースからオーバーを取り出すと、旅路で綴ったメモがはらりと飛び出した。



落書きのようなメモを眺めながら、また作業に追われる日常に帰ること、そして、完成した作品をお土産に、いずれまた沖縄にお邪魔すること、
そんな諸々を胸に秘めながら、私はスタンドで買った熱いコーヒーをぐっと傾けた。

作品はアウトプットで磨かれる〜4コマ漫画制作日誌〜

今回のゲームマーケット春は、本当に広報らしい広報活動もそっちのけで制作の方に勤しんだので、せめて自分のブログの中だけでも宣伝させてください。 なぞなぞの本、クイズの本、とともに、もう一冊、わたしのブースの片隅を賑わす本がある。 「きょうもボドびより。」と称された4コ...