2019年1月25日金曜日

軽くて重い「第一歩」の問題 ーやりたいことを阻害するものって何?ー

ボードゲームをテーマに、なぞなぞの本を作ろうと思い立った。
イラストの練習も始めた。
急な思いつきで、北海道へ、沖縄へ、と飛んだ。
年末には念願の電子書籍も出版した。
最近になって、4コママンガも描き始めた。

先日のツイキャスライブにて、「おしゃべりサニバ」MCのすながわ氏に「きっかけは何ですか?」と問われ、ふと、手が止まった。
何だったんだろう、きっかけ。
自己技量の研鑽だの、あわよくば宣伝媒体に、など雑多なことは言えるだろうが、そのいずれもが本質ではない。
一つ言えることは、すべて「思いつき」で始めたことだ。
ある種の「ノリ」のようなものかもしれない。
この「ノリ」という言葉は、婉曲して「ふとしたはずみ」や「勢い」という言葉に置換される。

軽く始めた、しかるに決して「なんとなく」ではない。
「なんとなく」では「片付けられない」。
たとえ無意識化の行動だったにせよ、そこには何かしらの「理由」が存在するのだ。

気軽に始めたからこその利点がある。
初めて気がついたことだが、物事を始める理由なんて、正直、どうだっていいのではないか。
何だっていいのだ。
金銭的な面でも、感覚的なものでも、何でもいい。
それでも気が引けたり、尻込みしたりする気持ちは何だろう。
例えそれが、相手にも自分にも必ずプラスとして帰ってくることであったとしても、つい躊躇してしまう、あの胃の奥から喉元に押し寄せる感覚って、何?
色々と着手するうちに、それら事象の根源を自分なりに悟り得た。

ひとつに「失敗の恐怖」だ。

一歩踏み出すにあたり最大の敵、それは自分にとって「己の心」であり、ひいては「周囲の声」である。
失敗それ自体は、案外、恐れるに足らない。
元来生き物とは「師から教えを被る」より「自ら学び体得する」ようDNAが組成されている。
人間に限らず多くの生き物が、親の教えを享受しつつ「自ら体得する」。
「百聞は一見に如かず」、その言葉の先は俗に「百見は一行に如かず」と続くとされる。
失敗を重ね、実際に己の身で体得することで、自己の記憶や能力が開花し、経験を自らの血肉とするのだろう。

「失敗は投資」
多くの成功者がそう語る。

事実、始める前にあれだけ不安だった事実が、始めてみると思いの外スムーズにことが運んだことも意外と多かったのではなかったか。
「案ずるより産むが易し」
我が国には先人が残したことわざだってある。

もうひとつ、それは「周囲の目」だ。

「お前には無理」といった根拠のない否定は元より、「きっとこうだろうから無理」といった否定的な予測、「過去にこうだったから」などデータを後ろ盾にした忠告など、枚挙にいとまは尽きない。
高度情報化社会、老若問わず多くの人間がフラットな目線で発言できることが、こうした弊害をも生み出したのだろう。

どんな声であれ、外野の声は、薬にも毒にもなり得る。
思うにそれは精神衛生に大きく左右され、元気な時、悲しい時に応じ、自己の体に上手く処方することが重要なのだ。

周囲の冷たい目線は、行動する己の心でさえむしばむ。
自己の能力に自信を持てない、やってどうなる、周囲からどう思われる…。
そんな気持ちに支配されると、結果、自分の気持ちが「誰かがやってくれるはず」に帰結する。
「(自分より能力の上回る)誰か」、掘り下げると「(メリットも多いだろうけれど、加えて、厄介な面倒ごとも多くなるだろうから、それらを一手に引き受けてくれるスーパーマン的な)誰か」。
そんな「存在するはずのない「誰か」」に期待をかける。
コスパなんて言葉を使いたくもないけれど、作業量の差し引きを考えると、ポンとお金だけ出して厄介ごとが片付くほうが「遥かにコスパが良い」
努力で成し得たものは、見る人からすれば非常にコスパの悪い方法とも言える。

まとめると、
これまでの周囲の環境、生活基盤、等々、様々なしがらみ、加えて自己の経験則が「第一歩目」を阻害している。

これまでの人生経験で培われた、自己の判断が故に、こちらの壁を取り払う行為が実に難しい。

では、読者の方が一番気にするであろう
「それら全てをかなぐり捨ててまで、真に得られるもの」
とは?

正直、私自身が成功者と呼べる人間ではない為に、その先の「得られた果実」について正確な記述を行うことができない点、了承願いたい。
しかるに、一点だけ、確実に言えることがある。
ストレスが大きく削減されたことだ。

第一歩目からの再出発
いわば、それまで肩にのしかかった重荷を一旦下ろし、新たな積荷を背負って歩き出す行為だ。
プラスマイナスだけで換算すると、ゼロとなる。
しかしながら、それまでについた筋力や先を読む脳内の経験値の総量で、それらは決してゼロ発進でないはず。

何より、やりたいことをやっている時間は純粋に「楽しい」
会社で、部下・上司・同僚らの目線を気にすることなく、自分のやりたいことを、好きな時間に好きなだけできることは、やはり楽しい。


先日描いた落書き。数ヶ月前、イラストなんて丸に棒の人間しか描けなかった自分。
この程度の稚拙なイラストであろうとも、数ヶ月前の自分には決してできなかったことだ。
そう考えると、自分自身に「お疲れ様!」とエールを送りたくなる。
気持ちの共感があると、その喜びはひとしおだ。
ツイッターなどで「イイね」をもらうだけで、その喜びは何倍にも増幅される。
かっこいい言葉を言える義理ではないが、見るものを幸せにする蝶々も、その前は見てくれの悪いイモムシやさなぎの過程を経て成長したような。

おそらく私の周囲に存在する「やると決めたら即実行できる人」とは、これら「周囲の声」「己の心」などの障害をあっさりクリアできた先の「喜び」「楽しみ」を知り得る人間ではないかと考える
「ボドっていいとも!」パーソナリティの翔さん(@syousandesuyo)がパッと思い浮かんだ。

有言実行。
楽しいことは、なんでもやろう、いや、やります!
楽しいこと、できることをし、自分の内面を外と対峙させるうちに、次第に理解者も生まれ、今まで混迷していた「自分の姿」「自分の行くべき道」も見えてくるかもしれない。


そんな私を見かねてか、podcast「いかラジ」のいか氏からアドバイスを頂戴した。
「自分ができたから満足、くらいが丁度いい。」

私の次の目標
それは「年内中にpodcastを更新すること」だ。
いかさんや、すながわさんらをゲストに呼び、楽しくおしゃべりすることを最終目標に掲げたい。
生命の続く限り、頑張りますとも。

自らの意思が、強固であるほど
様々な試練に苛まれるものだ。
無論、試練を目前に避ける事も出来れば、
逃げる事もできる。
だが、試練の真意は、
そんな己の心を克服することにある。

(「斑鳩」Chapter2、試練ーTrialーより)


2019年1月19日土曜日

人は、誰かになれる。-沖縄旅行記 後編-


沖縄旅行記、前編はこちら>https://hibikre.blogspot.com/2019/01/blog-post_18.html




沖縄旅行、二日目。

曇天模様の空はひんやりとした海風を運ぶ。
気温13度、想像しづらいだろうが、南国といえど、冬場は寒さを感じ得るのだ。
念には念を、と持参したパーカーがきちんと役割を果たすとは。




旅の目的である、昨年のゲームマーケット秋にてお手伝い頂いた「たまご」さんと逢う。
多忙な業務の傍、時間を縫って駆けつけてくれたのだ。
人望の厚さと、持ち前の豪快さ、一方で、説明の繊細さなど多くを併せ持つ、言うなれば「ワイルドカード的」存在だ。

私個人たっての希望で、海を見に行く。




沖縄の海は淡く、広大。
白い砂浜に透き通った水辺では、この時期も数名の海水浴客が戯れていた。
「幸福論」のアランは悩んだ時、海を眺めたという。
さざ波の音は耳に脳に心地よく、多くの詩人が「優しさと雄大さを運ぶ」と表現した、その一片を私も汲み取ることができた。

沖縄本土全体に漂う独特の「のんびり」としたムードを、「沖縄時間」と表現するのだとたまごさんは教えてくれた。
腹が空いたら飯を食い、眠くなったら眠り、遊びたくなったら歌い踊り、少し前に見かけた「経営者がその時間で金を稼ぐよう持ちかけ、その稼いだお金でどうするのかを問われたら「毎日食べて寝て踊るのさ」」と答えた、あの笑い話をふと思い出した。

ルーズ、というわけではない。
察するに、高い必要性を感じないのだろう。
あくせくするな、のんびり生きよう。
それが人間らしく生きる、本来の在り方なのだ、と。

一方で、島国という特性上、新しい文化、新しい情報を積極的に取り入れようとする側面も見られる。
そのためか、遠方のお客様を熱く歓迎する文化が敷かれており、いわば「お客様が何よりのご馳走」と言わんばかりに、私のような来客を多くのご馳走でもてなしてくれた。

北海道の地でも触れた「楽しさを追求し、楽しさの髄を集めた文化」然り、(例えば節分豆を落花生で行うなど)その土地土地の「文化」と呼ばれる背景には何かしら「住む人間の人柄、土地柄」が根付くものだろう。

昨日お邪魔した「カッパのお城」様でも、店主が積極的に「見知らぬボードゲーム」をお客である私に勧めてきたことが、嬉しくもあり、何と無く不思議でもあった。
これもその「沖縄」という土地柄が持つ「楽しいことはどんどん提供しよう」といったおもてなしの精神に基づくものかもしれない。
「めんそーれ(沖縄の方言で「ようこそ」の意味)」とは、まさに沖縄ならではの言葉だ。

昼はちゃんぽんをいただく。





リンガーハットでおなじみの麺を想像したが、沖縄のそれは、野菜炒めを卵でとじたものをご飯の上に乗せたワンプレートランチだ。沖縄ではこちらが一般的だという。
醤油ベースの濃い味付けがご飯にマッチし、食の細い私もかなり食がすすむ。




腹も膨れ、一路「サイコロ堂」様へ。
ゲームマーケットでは都内「コロコロ堂」様とコラボ、年始には価格を大きくオーバーする内容のボードゲーム福袋を販売し話題となった、県内有数のボードゲームショップ・カフェだ。



所狭しと並ぶラインナップは、店内の他に別の倉庫にもストックされていると伺った。
不朽の名作から、最新作のLift OFFまで、先の沖縄時間も相まって、店内は何時間となく過ごしたくなる雰囲気だ。

訪れる常連客も、ボードゲームを遊びに、というよりむしろ「気さくで明るい店長との他愛もない会話」を楽しんでいるように見られた。

これまで各種ゲーム会やカフェにて「定められた時間を最大限楽しもう」とガツガツ多くのゲームを取り出す姿勢だった自分にとって、サイコロ堂様のまったりとした雰囲気は自戒の念すら覚えた。

たまごさん、途中から現れた時化さんらを交え「ギズモ」をプレイ。

緊張と疲れでつたない説明となってしまったことを、この場を借りて謝罪申し上げたい。
しかしながら、さすがインストのプロを誇るたまごさん、説明のプロは聞き手としてもプロフェッショナルであり、私の穴抜けばかりだった説明をきちんとプレイできるまで補足していただいた。
もちろんゲームの内容を一番理解できたであろうたまごさんが勝利をさらっていったことは言うに及ばず。




昨夜も披露したマムマムマーガレットは小洒落た店内でも見栄えし、多くの方の目を引く。
ハンドメイドを手がける方にもプレイしていただき、その丁寧な装飾と、細部にまでこだわったゲーム性に終始感服されたご様子だった。


次に、時化さんお手製のコリドールで対戦する。
時化さんには話していなかったが、実はお邪魔する前に、かなり攻略法を研究していたのだ。
つい立ての置き方と、先読みの方法など、個人的な研究が功を奏し、序盤は優勢に駒を進め、また向こうを上手く妨害できたつもり、だったはずだが、やはり「コリドール普及委員」を自称する相手が数枚も上手、実に一手差で無念の敗北を喫する。
「生兵法は大怪我の基」と先人は上手く言ったもの。次こそリベンジを誓う。


他にも「41」(トランプゲーム)など。
トランプや紙ペンゲーム、ダイスゲームは「いつでもどこでも誰とでも」といったアナログゲームの汎用性の高さも相まって、私は多くのゲームカフェで披露する。


夕刻となり、次はもう一軒のゲームカフェ「五郎茶屋」様へ。



海外から国内作品までこちらも数多くの作品が集う五郎茶屋様では、この年末もクイズや音楽など多くのイベントで盛り上がりを見せた様子。
店長も美麗で明るく知的な方で、多くの作品に自ら興味を示し、先日も単身東京のカフェ様を訪問に訪れるなどパワフルな一面を併せ持つ。

常連のお客様は「いろはことば」をプレイ中。制作された「サイタニヤ」様もこちらに訪れたのだとか。

五郎茶屋様では私個人の作品を主に披露する。

まずは「おさかな小石」
LOGOS社のカードゲームで、最近まで絶版が続いていたが、最近になり、ようやくすごろくや様から再販が発表された。
対面となり、池の魚を効率よく釣ることが目的で、軽さとジレンマがうまく合わさった、昨年の上半期、私のベストゲームに上がる作品だ。

次に拙著「ボードゲームクイズ」を。
先日のクイズ会での「優勝者」、「問題製作者」、「主催者(店主)」、「たまごさん(インストプロ)」の巴戦となり、勝負は一問ごとにパネルの争奪戦となる、かつてない激戦を呈する。
僅差でパネルを獲得した店主が逆転で勝利をもぎ取る形となった。

もうひとつ「ゲーム音楽かるた」
ゲーム音楽でプレイするかるた、と表題そのままの内容で、かるたで勝負する横軸と、音楽を聴く縦軸の両側面を楽しめる作品である。
マリオからAIR、スプラトゥーンからねこあつめまで新旧取り揃えている点が手前味噌ながら自慢だ。
傾向として「ゼルダ」「ファイアーエムブレム」の札が取られにくく、「AIR」「サクラ大戦」の札が瞬時に取られる傾向にあったのかな、と雑感する。

店内で注文した「ホットのさんぴん茶」が絶品で、鼻にスッと抜ける香りが心地よかったので、来店の際は是非ご賞味あれ。

ホテルに戻り、この二日間を振り返る。

明るい店内、気さくな店長。
それらに集うミツバチのごとく、沖縄の各カフェでは多くのお客様が、ボードゲームカフェという場で「ボードゲームカフェという空間」を楽しんでいるかの印象を受けた。

それらは先に挙げた沖縄の風土が持つ、時間の流れ、県民性、そして何より、店主の人がらによるもので、「ゲームカフェでボードゲームをする」といった縛りのゆるさが程よく内包されているのだろう。

働きたい時に働き、食べたい時に食べ、休みたい時に休む。
それらを寛大に受け入れ、包み込み、決して表舞台に出ることなく、常に影で見守るような、言うなれば、沖縄に群生する大樹の如き存在。
それこそが沖縄のゲームカフェだったのか、と考えた。

ガジュマルに代表される沖縄の大樹は、幹も低く、自ら大きく存在を誇示することこそないが、それらは長い時間をかけ、大きな枝葉を為し、新たな影を作り、新芽が息吹き、鳥を呼び、次の世代へとその幹を為し得て行く。

カッパの城、コロコロ堂、五郎茶屋、三者三様、各々が持つ独自の形で沖縄のボードゲーム界隈を、傍らで見守りながら盛り上がりを支えていたような。
そこに新たな「ボードゲームカフェの存在とあるべき姿」を垣間見た気がした私は、疲労する身体の中、心だけがすこぶる弾んでいたのだった。


最終日。

初日から姿を見せることのなかった晴れ間は結局この日も顔を出すことはなく、朝からあいにくの雨模様。
普段傘をささない私もついに観念し安物の傘を購入する。

下半身がずぶ濡れとなりながらお土産物を物色し、無事に帰りの飛行機へと乗り込む。

人混み溢れた飛行機の中で、ぼんやりと考えた。

二進法の考え方では「1」に対局する値は「0」となる。
「有」か「無」すなわち、やるか、やらないか。
やらなければ「0」のまま。何かを行うことで「1」となり、次の桁数へと派生する。
思い切って飛び込むことで、見えてくる世界。
すなわち「0」とは「0」のまま固定された状態のことであり、「1」→「0」に変動することとは意味合いが異なる。

今手にするものを全て吐き出すことで、新たに手にできるもの。
それらは自分をすべからく改心させるものではなく、髄にある部分を残しながら、雑味の部分だけを巧く入れ替えるような。

人はそうして、誰かに会い、成長し、新たな「誰か」へとなり得るのだろう、か。

しばし自由な身となり、こうした放浪の旅を行いながら、私自身、その目指すべき「誰か」となり得たら嬉しい。
帰りの飛行機で、ぼんやりと、そんなことを考えた。



PM16時、羽田空港着。
東京は旧暦の正月を間近に控え、一層厳しい冷え込みを見せたらしい。
慌ててスーツケースからオーバーを取り出すと、旅路で綴ったメモがはらりと飛び出した。



落書きのようなメモを眺めながら、また作業に追われる日常に帰ること、そして、完成した作品をお土産に、いずれまた沖縄にお邪魔すること、
そんな諸々を胸に秘めながら、私はスタンドで買った熱いコーヒーをぐっと傾けた。

2019年1月18日金曜日

人は、誰かになれる。-沖縄旅行記前編-

沖縄へ行くことにした。
そう決めたのは、北海道ボドゲ博から帰宅し、数日経った日のこと。


いくつか理由がある。
一つが、約束を果たすため。
以前ゲームマーケット秋でお手伝いして頂いた「たまご」さんに、お礼に伺うこと。ありがとうの気持ちを伝えること。
(リンク先>ブログ第73話「たまごさんの話」より


(※写真と本文は一切関係ありません)


一つが、小冊子の広報活動。
せっかく作った私の小冊子「Board Game Quiz NEXTAREA」、ゲームマーケット含む各イベント後、即日通販に回すという行為に、何故か違和感を感じていた。
せっかくの作品、見えない相手ではなく、直接対面でお渡しし、お渡しすると同時にお礼も伝えたい。
そのついでに観光もできたら最高だ。

1月15日(火)、AM7:00
11時羽田発の飛行機に乗る私は、この時間もギリギリまで原稿作業に追われていた。ゲームマーケット大阪新刊のレイアウトや問題作成など、残って作業するべきでは?といった己の声と格闘していた。
「気分転換は作業の能率を上げる」
自分自身にそう言い訳すると、私はスーツケースに無理やり荷物を詰め、旅の支度を整えた。
あれもこれもと詰め込んだ中身は、約9割をボードゲームが占める。別のカバンにはiPadや書籍、問題を書き留めるノートの束など、我ながら、おおよそ観光旅行とは言い難い。


PM14:50、沖縄、那覇空港へ到着。
バナナの木の生える庭、三線の音楽が響く構内、各所に漂う南国ムードとは裏腹に、海風の影響もあるためか、少し肌寒さすら感じる。
強い日差しの中、合間にかかったウロコ雲が、この先の行程をそれとなく暗示させるようにも感じた。

市内を見回すと、瓦の吹いた屋根ではなく、コンクリートの白い平屋建て、いかにも南国らしいアパートが建ち並ぶ。ボードゲーマーなら「サントリーニ」のような建物でわかっていただけるだろうか。門柱にはいかめしい顔のシーサーが佇み、道行く人間をその形相で見守っている。

ゆいレールで市内のホテルへと向かい、まずは周辺のコンビニで目に付いた「沖縄らしきもの」を口にする。
神戸のシャッツィ様でも堪能できた沖縄の飲み物「ルートビア」を求めたが、入った先には無く、手にした飲み物は「ドクターペッパー(ロング缶)」。こちらも関東では、雑貨屋以外で滅多に目にする機会は少ない。

沖縄在住のフォロワー様の勧めで、向かう先は浦添市のボードゲームショップ「カッパのお城(Cappa Castle)様」。
合言葉は「持っててよかったボドパス2(ボードゲームカフェパスvol.2)」


店長のライアンさんは英語が母国語ながら、多少の日本語も堪能な方。
とはいえ、さほど英語ができる方ではなかった私、カタコトの英語を駆使しつつ会話を繰り広げる。




店内は海外のボードゲームが主体。海外の見知らぬ作品、まだ国内では一般流通されていない「My Little SCYTHE」や「MARVER版5minutes dungeon」、他にも、すでに国内ではお目にかかれなくなった「プエルトリコ」といった作品が所狭しと並ぶ。
中には「英訳版横浜紳商伝」などの国内作品も。

ライアンさんは「これも面白いです」とオススメのボードゲームを色々と教えてくれる。とても気さくで明るい方だ。
Onitamaというアブストラクトゲームを勧められ、さっそく一戦交えることにした。



相手の師匠駒を取るか、相手の門へ自分の師匠駒を進めることができたら勝利。
進むルートは各自に公開された手札で定められ、使用すると中央の捨札へ、代わりに、相手が直前に捨てた札を拾うことができる。
カード一枚一枚に効果が異なること、独自の雰囲気を持つことが、仄かにトレーディングカードゲームらしさすら感じる。

結果は惜敗。しかしながら、高級感漂うパッケージと駒、各種カードに、しばし見惚れてしまったことと、店長の言葉巧みなリードに感服できたことに私は心酔した。

せっかくの機会だったので、初めて見聞きしたボードゲームを購入する。
こちらもライアンさんの勧めによるもの。


「SLIP SHIP」は、ライアンさんも「スペースインベーダー」ライクと紹介してくださった作品。
自分の駒を指で弾き、敵カードを撃墜しつつマザーシップを全員で破壊することが目的のようだ。タイトルがアンビグラム(上下をひっくり返しても読める文字)というデザインも面白い。

次の約束があったため、名残惜しくも移動することに。

市内在住のフォロワー様と待ち合わせをする。
いつもツイキャスライブ上で作業キャスなどを行う「防破亭時化」様。
終始謙遜されていらっしゃったけれど、明るく陽気で、どんな方とも気さくに話される方。
先日は人気ポッドキャスト「おしゃべりサニバ」にも出演されたほどの人気ぶりを博す。

まずは時化さんのご紹介するお店で腹ごしらえを。
沖縄名物「キングタコスのタコライス」、ボリュームがあり、スパイシーで食が進む。
チーズにひき肉にトマトにサルサソース、さらに「ご飯」、まさに美味しいもののごちゃ混ぜ(チャンプル)である。

場所を変え、私の用意したボードゲームを披露することに。

・ワードスナイパーファミリー
カバンの中に潜ませる、私の中では鉄板の作品だ。予想だにしなかった言葉が飛び出す過程も楽しい。

・メキシコ
サイコロ2つで楽しめるポーカーライクなゲーム。こちらは「ダイスゲーム百科」にて、かのライナー・クニツィア氏が考案したもの。面白さの他に「サイコロだけでもゲームができる」ことが伝わるかと思う。

・マムマムマーガレット
時化さんがコリドールを普及される方とお聞きし、こちらも負けじとアブストラクト作品を持参したもの。色鉛筆とウッドバーニングでひとつひとつ丁寧に仕上げられ、強さと繊細さを併せ持つ色彩が、ハンドメイド独自の温かみをほのかに感じさせる、しかるに内容は高いゲーム性を保持する作品。

どの作品も喜んでもらえたようで、私も満足できた。
(なお、勝負は私の全戦全敗で終わった。)

ホテルに戻る。
すでに初日だけで実り多き1日だったが、今回の旅の主旨だけを見返すと、ノルマの半分をこなしたに過ぎない。

昼間の照りつける太陽から一転し、夜半からはポツポツと小雨が落ち始めた。
明日の本戦に備え早めにベッドに潜り込むが、案の定、上手く寝付けない。
先ほど口にしたドクターペッパーのカフェインが効き過ぎたのかと反省することにした。



後編につづく。


2019年1月13日日曜日

「楽しさの熱量」の話

私信だが、私の日常は、このところ、プライベートな面でかなりアクティブな動きが続いている。
良いこと悪いことすべてひっくるめ、何か「楽しんでもらえる」ことについて深く考えさせられた。

12日土曜日、横浜のボードゲームショップ「リゴレ」にて、一風変わったボードゲーム会が開催された。

「楽しい気分で遊びたい同士で集まる会」と称するこのゲーム会は「☆勝利点の高い人が勝者です。最も楽しい気持ちになれた人が別の意味で勝者です(後略)」と続く」

「楽しいこと」と漠然と括られたテーマ。勝つことに必死となるゲーム会とは異なり、あくまで「ボードゲームを参加する人全員で楽しもう」が主たる目的だ。

「勝ったから良いゲーム」
私の喉元に長らく引っかかっていたこの言葉。

しかしながら「エンジョイ勢は勝利にこだわらないから意識が異なる」とも言えず、やり場のない違和感を抱えたままであった。

本ゲーム会に参加した率直な感想は「これが本来のボードゲームの良さなのでは?」を再確認できたことだ。
楽しい時間を、参加された方々と共に、楽しく過ごす。
真剣勝負の世界から一線を画した「勝っても負けても楽しく過ごせる時間」、これは本来ボードゲームが得意とする「誰でも気兼ねすることなく楽しめる」部分の本領が発揮された瞬間だったのではないかと考えた。

人間の付き合いと同様に、ボードゲームにも得手不得手がある。
食わず嫌いはともかく、修行ではないのだから、嫌な思いを押し殺してまでボードゲームを楽しむ必要など、ない。
ならばプレイを選別する際に必要なステータス、それは「いかにこの作品を楽しく味わえるか」を見極める能力ではないだろうか。


「世界で一番美味い料理は」
この回答には十人十色、多くの回答が寄せられる。
世界三大珍味をふんだんにあしらったフルコースのディナーかもしれない。
巡り巡って行き着く先が「お茶漬け」になるかもしれない。
「我が子が自分のために一生懸命こしらえたカレーライス」と答える方もいるだろう。

「楽しいを過ごせる時間」
「勝ち負け」の領域とはもっと別の世界に位置する、楽しむ、または、楽しませるゲーム会。
「参加して楽しかった」の諸元は一体何だったのだろう。
モヤモヤする気持ちを取りまとめようと一思案するも、ついにその夜は結論に到達できなかった。


翌13日、珠洲ノらめるさんのバースデーライブが開催されると聞き、喜び勇んで参加した。

数多くの学びがあり、歌手が歌い、踊り、観客全体が大いに弾ける中、影で必死にメモを取る私は、おおよそ変人に見られてしまったことだろう。

ライブの構成が見事だったので紹介したい。

オープニングの「モノローグ」で会場の空気を高め、耳が飽きることのないよう、数曲ごとにコラボを入れたり曲調を変えたり、なども挟む。
終盤はアコースティックな曲をはさみ、最後の曲は今回最もテンポの速い曲で駆け抜けた、という印象だった。
「プログレッシヴ(漸進的)癒やし系アーティスト」、看板に偽り無し。「一歩先の方法で心を癒します」そう捉えることにした。

話は変わり、先日ツイキャスライブにて、「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」のいか氏と、こんな話題で盛り上がった。

「相手に楽しんでもらうには、自分が偉そうに振る舞わないこと」

誰にでも分け隔てなく接するいかさんから、ふと、そんな言葉が飛び出した。
会話中は「年齢でも何でも「高圧的に振る舞う相手、今風の言葉で「マウントを取る」相手とは、接触したくなくなる、と捉えたが、後から考えるに、一元的ではなく「人間の更に根底へと掘り下げるべき」問題だったのではないかと思い、私は先の言葉を『緊箍児(きんこじ、西遊記の孫悟空が頭につけている輪っか)』の如くジワジワ頭を締め付ける問題ではないかと思い直した。


楽しんでもらうには。

少し前まで、私は「こちらが楽しい雰囲気を醸成すれば、興味のある方はどんどん集まってくる」
そんなある種の「勘違い」をしていたかのように思う。

全部が間違いとは言えない。私自身も「面白そう」と興味を持った作品の多くは、他の方が楽しくプレイされる姿がきっかけだからだ。

だからといって、「楽しさ=自分だけが享受できるもの」と捉えてしまうと、例えば内輪ネタで盛り上がる雰囲気だった場合、本当に自分は真から興味を注がれただろうか、と振り返った。

「楽しさ」という感覚で表現する「アナログ」的な概念を、デジタル、すなわち数値等を用いた概念を用いてはどうだろう。

「楽しい」という言葉をさらに掘り下げ
ここでは「楽しさの熱量」という言葉で仮に表現する。


例えば、あくまで私個人の話であるが
「俺はこのボードゲームなら誰にも負けない絶対の自信がある!」
そう豪語された状態で、果たしてこの相手と、その「絶対に敗色が濃厚な」ボードゲームを、一緒に遊びたいと思うだろうか。

私なら少し考える。
「相手がどんな動きをするか」といった興味関心とは裏腹に「そうまで豪語するならば、きっと相手の思うがまま、サンドバッグにでもされることだろう。ならば勝負を控えるか」と、避けて通るかもしれない。
むしろこれまでのプレイ時において、圧倒的に自分は「後者」に属していた。

それはなぜか。

「ひとつのボードゲームでどれだけ楽しめるか」の熱量を相手と比較し、「どう足掻いても相手に叶うとは到底思えない」と瞬時に判断したならば、私は直接の勝負をやめ敬遠する側に回るのではないか、と考えたのだ。

それらを差し引いても「一緒にプレイしたい」と思える相手とは、その際にどうした対応を取っていただろう。

よくよく思い返すと、それは「相手が「好き」の熱量をどんどん与える姿勢」にあったのではないかといった結論に帰結した。

どれだけ強い相手であろうとも、どれだけ「絶対に負けるに決まっている」と事前に察知した相手でも、「プレイすることで相手の「楽しさの熱量」のおこぼれを頂戴できるような相手」ならば、むしろ砂漠に湧き出るオアシスの如く、プレイに興味が惹かれるのではないだろうか、と。


無論、ボードゲームに限った話ではない。
クイズでもスポーツでも、趣味でも勉強でも何でも、「相手と共にプレイする」際、目に見えない、それこそDNA的な「野生のカン」をもって「全体の雰囲気」を瞬時に察し、肌身で伝わる直感のようなものから「相手の楽しさエネルギー」を、知らず知らず、個々人で比較・検討していたのではないだろうか。

「勝ったから良いゲーム」の言葉に自分が違和感を拭えなかった理由は、それら「勝つ以外にも楽しさの熱量を享受する方法はごまんとある」に終着した。
「がむしゃらに勝つことを追求する」だけでは、ゲームそのものが本来持ち合わせる「楽しさ熱量」の総量を、強い人間だけで分配する事態に陥ってしまう。

そうではなく「相手の現状を瞬時に察し、全体の楽しさの雰囲気を自分が盛り上げるよう積極的に醸成する能力」こそ、プレイ時には求められ、それら雰囲気の醸成を難なくこなせる諸先輩がた、いわゆる「この人とならもう一度遊びたい欲の湧く人材」こそエンターティナーと呼称されるだろうし、あるいは、その華麗なるテクニックを駆使しなければ務まらない点を踏まえ「プロフェッショナル」と称されるかもしれない。
「楽しさを知るからこそ、出し惜しみすることなく、多くの人に熱量を分配できる人物」
これこそ「楽しい雰囲気」を醸成できる人間の真の姿だったのではないだろうか。

分け与えるだけではない。
豪速球を駆使する剛腕のピッチャーは、それを受ける女房役の「キャッチャー」があってしかるべき存在だ。
「熱量をもらう側」にだって、それら高い熱量を受け取るだけの姿勢や心構えを持ち合わせなければ、コミュニケーションの根本となる「(会話の)キャッチボール」が成り立たなくなってしまう。


これらを踏まえて、私個人の話。
先のゲーム会では「プレイ中誰よりも人一倍騒ぎ(本当にすみません)」ライブ中は「他の方に負けぬよう声で、手拍子で、応援(こちらも本当にすみませんすみません)」し続けた私。

周囲に忌避の目で見られようとも、「楽しさの度合いでは負けないぞ!」と意気込み、時には得られた熱量を「もっと楽しもう!」と分配する側に回るよう知らぬ間に振る舞っていた。
しかるに、やはり熱量の分配は一朝一夕に身につくものではない。周囲に楽しさを伝播させるには、まだ体感し得ぬ「それ相応の技量」が必要と実感した。
笑顔?応援?精神衛生?
今後も料亭の職人の如く、一生をかけて試行錯誤を続けることだろう。

くじけてなるものか!


「「また明日あなたと遊びたい」と、言われるようなプレイで遊びましょう。」
カタンの作者クラウス・トイバー氏の名言である。
多くを経験し、多くを知り得た上でなお「また一緒に遊びたい」と思わせるプレイスタイルとは。

言葉の真意は、どうやらその辺りにあると画策している。










2019年1月1日火曜日

情のかたまりを届けたい-2019年の抱負に変えて-

このブログを執筆している時点で、2019年1月1日
新年、あけましておめでとうございます
昨年はまさしく激動の一年、多くの方との出会いがあり、その一方で別れもあり、考え、悩み、苦しみあえぐ中、未だ模索する最中となる平成最後の年を迎えました

慌てて駆け込んだブログの電子書籍化もなんとか一段落、これからしばらくは、ゲームマーケット大阪に向けての制作に傾注します。


改めまして自己紹介を。
このブログのテーマは「にんげんっていいな」です。

ボードゲームを通じて私「番次郎」が体験・実感した「人間の温かみ」をテーマに、少々長めの文章を綴っております。
今年もよろしくお願い致します。


さて、その小冊子制作の話。
欠かせない作業が「文章校正」であり、何度行っても、誤字・脱字のバグ(英語で「小さな虫」を意味するcomputer bug、真空管コンピュータに熱を求めて蛾が集まりコンピュータがたびたび止まったことに由来するとか)が根治できない。

紙面に刷り出し、日を置き、何度となく目視や、時に実際に声に出しつつ確認するのだが、些細な誤字はおろか、問題文の大幅なミスも頒布後に発生する始末。

購入されました方には、この場を借りて深く謝罪致します。


さて、場面は変わって、先日の話。
プレイ中に経験された方も多いと察するが、ある作品をプレイする際のこと。こちらの次の一手がなかなか決まらずウンウンとうなり声をあげる中、相手はすでに次の一手が決まったらしく、涼しげな顔をしている。
ところがしばらくすると、立場が一転、今度は向こうがうなり声を上げながら長考を始め、その一方で私は次の一手が早々に決まり、余裕の笑みでコーヒーをすする場面があった。

ボードゲームの長考問題もしばしば話題に取りざたされる。

岡目八目ということわざがある。
囲碁の世界に由来するこの言葉は、実際の対戦中よりも、側から見ている人間の方が盤面の方を何手先も読むことができる、という、皮肉も似た格言だ。
広辞苑によると「〜(前略)転じて、第三者には、物事の是非、利・不利が当事者以上にわかること」と記載されている。


これはあくまで持論だが、「情」が思考を妨げるからではないか。

前職ではよく「職場に私情を持ち込むな」と注意されたが、この場合、単に上司が「私語を慎め」という言葉をカッコよく言い換えたに過ぎない。

ここでの情とは、愛情や情熱など、「気持ちが入ること」を意味する「情」だ。

気持ちと書くと体裁は良いかもしれないが、要は「個人の評価」であり、例えば物事を冷静に評価・判別する際の妨げとなる要素とも言える。
情が入ることで、物事に対する相対評価に狂いが生じるのがその理由だ。
「頑張っているからちょっとオマケ」
「偉そうに見えるからあいつとは距離を置こう」
公平甚大を重んじる世界では、確かに控えるべき言葉かもしれない。

情を介入させず、冷静な立場で評価を行うことにより、物事を相手に伝える精度も比較的向上する。
「うまい!」「やばい!」などの感情だけでは、確かに個人の体験談としてのリアリティは精度を増すだろうが、読み手、受け手のイメージする「評価の精度」にはイコールと貼らず、その精度に揺らぎが生じる。
こうした場面では「糖質カット」「乳脂肪分ゼロ」「北海道産」など、第三者の観点でも評価の変わらない文言を使用すれば、精度は飛躍的に高くなる。
これら精度を高く維持することで「受け手の情報が永続的」となり、次に相手に伝える際も、より高い精度を保ったまま別の相手へと伝聞することが可能となる。

少し難しくなった。
これは例えば恋愛相談などの場面において、高ぶった相手の感情を落ち着かせるため、一旦、相手の感情を「整理」する方法を取る。
相手の状況を丁寧に聞き出し、紙に書き留め、相関関係や「できること」、「できないこと」等を、聞き手もしくは第三者がリストや表にまとめる。
紙面にまとめることで、個人の感情を「整理・視覚化」し問題の根本を確認しやすくできると同時に、先に挙げた「情」の概念を幾分でも取り払い、第三者的な評価・分析ができるよう促すのだ。
日記などにその日あったことを書き出す作業も、これに近いと言えるだろう。


ここまで、あたかも厄介者のような「情」だが、実は私自身、この「情」なくしてボードゲームは存在し得ないと断言するほど重要な概念と考えている。

○○賞の審査員や、ボードゲームのクロスレビュー等、どうしても必要にかられる場面は別として、例えばツイッター等でボードゲームの感想を上げる際、「楽しい」「面白い」を喚起できるような書き方を極力添えるよう心がけている。
具体的には、「面白い」「思わず口元が緩む」など、真に感情に訴える場面を表現したり、その一方で、たとえ作品の面白みに気づかなかったとしても、極力マイナスの情報などはツイートしないよう心がけている。

それは私が「ボードゲーム」に「情」という概念が密接に結びつくものと考えるからだ。

ボードゲームの相手とは他の誰からぬ「他人」であり「人間」である。ソロプレイなどにおいては「他人を投影した自分」とも言えるだろうか。

他人(人間)を相手とするから、その場の雰囲気、相手の心情の変化、細部気候、体調等々、様々な要因が重なり、そのプレイスタイルが都度大きく変化する。
ましてコミュニケーションを主体とするならば、楽しむ対象は自分だけではなく、相手を含む他のプレイヤー全体、ひいてはその場のプレイスタイルにも波及する。

環境によって、面白さの振れ幅は大きく揺れ動くのだ。

ならば、真に伝えるべきは「ダメだった」「つまらなかった」などのアラを探し伝達する作業ではなく、どこまで作品を最大限に体験することができたか、この作品のポテンシャルを最大限に引き出すにはどんな言葉で飾れば良いのか、を考えた方が良いのではないか。

それはあたかも「情のかたまり」と呼べるだろう。


私個人の意見として、情を動かされるまで面白味を感じた作品ならば(ボードゲームに限らず)それらをありのまま伝えること自体、決して悪行ではないと考える。

製作者以外の第三者の心を突き動かし、多くの感動(良い面も、悪い面もひっくるめて)を呼び起こすことができた、それは作品として立派に完成されていると呼べるのではないか。


私はもっと「情を動かされるような」作品に、今後もたくさん触れ合っていきたい。

そしてそれら「情のかたまり」を、私の作品を拝読された方々全員に、165km/hのストレートを以ってお届けしたい。


今年一年も、番次郎ブースは何事にも全力で臨みます。
みなさま、よろしくお願い致します。

作品はアウトプットで磨かれる〜4コマ漫画制作日誌〜

今回のゲームマーケット春は、本当に広報らしい広報活動もそっちのけで制作の方に勤しんだので、せめて自分のブログの中だけでも宣伝させてください。 なぞなぞの本、クイズの本、とともに、もう一冊、わたしのブースの片隅を賑わす本がある。 「きょうもボドびより。」と称された4コ...