2019年1月1日火曜日

情のかたまりを届けたい-2019年の抱負に変えて-

このブログを執筆している時点で、2019年1月1日
新年、あけましておめでとうございます
昨年はまさしく激動の一年、多くの方との出会いがあり、その一方で別れもあり、考え、悩み、苦しみあえぐ中、未だ模索する最中となる平成最後の年を迎えました

慌てて駆け込んだブログの電子書籍化もなんとか一段落、これからしばらくは、ゲームマーケット大阪に向けての制作に傾注します。


改めまして自己紹介を。
このブログのテーマは「にんげんっていいな」です。

ボードゲームを通じて私「番次郎」が体験・実感した「人間の温かみ」をテーマに、少々長めの文章を綴っております。
今年もよろしくお願い致します。


さて、その小冊子制作の話。
欠かせない作業が「文章校正」であり、何度行っても、誤字・脱字のバグ(英語で「小さな虫」を意味するcomputer bug、真空管コンピュータに熱を求めて蛾が集まりコンピュータがたびたび止まったことに由来するとか)が根治できない。

紙面に刷り出し、日を置き、何度となく目視や、時に実際に声に出しつつ確認するのだが、些細な誤字はおろか、問題文の大幅なミスも頒布後に発生する始末。

購入されました方には、この場を借りて深く謝罪致します。


さて、場面は変わって、先日の話。
プレイ中に経験された方も多いと察するが、ある作品をプレイする際のこと。こちらの次の一手がなかなか決まらずウンウンとうなり声をあげる中、相手はすでに次の一手が決まったらしく、涼しげな顔をしている。
ところがしばらくすると、立場が一転、今度は向こうがうなり声を上げながら長考を始め、その一方で私は次の一手が早々に決まり、余裕の笑みでコーヒーをすする場面があった。

ボードゲームの長考問題もしばしば話題に取りざたされる。

岡目八目ということわざがある。
囲碁の世界に由来するこの言葉は、実際の対戦中よりも、側から見ている人間の方が盤面の方を何手先も読むことができる、という、皮肉も似た格言だ。
広辞苑によると「〜(前略)転じて、第三者には、物事の是非、利・不利が当事者以上にわかること」と記載されている。


これはあくまで持論だが、「情」が思考を妨げるからではないか。

前職ではよく「職場に私情を持ち込むな」と注意されたが、この場合、単に上司が「私語を慎め」という言葉をカッコよく言い換えたに過ぎない。

ここでの情とは、愛情や情熱など、「気持ちが入ること」を意味する「情」だ。

気持ちと書くと体裁は良いかもしれないが、要は「個人の評価」であり、例えば物事を冷静に評価・判別する際の妨げとなる要素とも言える。
情が入ることで、物事に対する相対評価に狂いが生じるのがその理由だ。
「頑張っているからちょっとオマケ」
「偉そうに見えるからあいつとは距離を置こう」
公平甚大を重んじる世界では、確かに控えるべき言葉かもしれない。

情を介入させず、冷静な立場で評価を行うことにより、物事を相手に伝える精度も比較的向上する。
「うまい!」「やばい!」などの感情だけでは、確かに個人の体験談としてのリアリティは精度を増すだろうが、読み手、受け手のイメージする「評価の精度」にはイコールと貼らず、その精度に揺らぎが生じる。
こうした場面では「糖質カット」「乳脂肪分ゼロ」「北海道産」など、第三者の観点でも評価の変わらない文言を使用すれば、精度は飛躍的に高くなる。
これら精度を高く維持することで「受け手の情報が永続的」となり、次に相手に伝える際も、より高い精度を保ったまま別の相手へと伝聞することが可能となる。

少し難しくなった。
これは例えば恋愛相談などの場面において、高ぶった相手の感情を落ち着かせるため、一旦、相手の感情を「整理」する方法を取る。
相手の状況を丁寧に聞き出し、紙に書き留め、相関関係や「できること」、「できないこと」等を、聞き手もしくは第三者がリストや表にまとめる。
紙面にまとめることで、個人の感情を「整理・視覚化」し問題の根本を確認しやすくできると同時に、先に挙げた「情」の概念を幾分でも取り払い、第三者的な評価・分析ができるよう促すのだ。
日記などにその日あったことを書き出す作業も、これに近いと言えるだろう。


ここまで、あたかも厄介者のような「情」だが、実は私自身、この「情」なくしてボードゲームは存在し得ないと断言するほど重要な概念と考えている。

○○賞の審査員や、ボードゲームのクロスレビュー等、どうしても必要にかられる場面は別として、例えばツイッター等でボードゲームの感想を上げる際、「楽しい」「面白い」を喚起できるような書き方を極力添えるよう心がけている。
具体的には、「面白い」「思わず口元が緩む」など、真に感情に訴える場面を表現したり、その一方で、たとえ作品の面白みに気づかなかったとしても、極力マイナスの情報などはツイートしないよう心がけている。

それは私が「ボードゲーム」に「情」という概念が密接に結びつくものと考えるからだ。

ボードゲームの相手とは他の誰からぬ「他人」であり「人間」である。ソロプレイなどにおいては「他人を投影した自分」とも言えるだろうか。

他人(人間)を相手とするから、その場の雰囲気、相手の心情の変化、細部気候、体調等々、様々な要因が重なり、そのプレイスタイルが都度大きく変化する。
ましてコミュニケーションを主体とするならば、楽しむ対象は自分だけではなく、相手を含む他のプレイヤー全体、ひいてはその場のプレイスタイルにも波及する。

環境によって、面白さの振れ幅は大きく揺れ動くのだ。

ならば、真に伝えるべきは「ダメだった」「つまらなかった」などのアラを探し伝達する作業ではなく、どこまで作品を最大限に体験することができたか、この作品のポテンシャルを最大限に引き出すにはどんな言葉で飾れば良いのか、を考えた方が良いのではないか。

それはあたかも「情のかたまり」と呼べるだろう。


私個人の意見として、情を動かされるまで面白味を感じた作品ならば(ボードゲームに限らず)それらをありのまま伝えること自体、決して悪行ではないと考える。

製作者以外の第三者の心を突き動かし、多くの感動(良い面も、悪い面もひっくるめて)を呼び起こすことができた、それは作品として立派に完成されていると呼べるのではないか。


私はもっと「情を動かされるような」作品に、今後もたくさん触れ合っていきたい。

そしてそれら「情のかたまり」を、私の作品を拝読された方々全員に、165km/hのストレートを以ってお届けしたい。


今年一年も、番次郎ブースは何事にも全力で臨みます。
みなさま、よろしくお願い致します。

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