2019年1月13日日曜日

「楽しさの熱量」の話

私信だが、私の日常は、このところ、プライベートな面でかなりアクティブな動きが続いている。
良いこと悪いことすべてひっくるめ、何か「楽しんでもらえる」ことについて深く考えさせられた。

12日土曜日、横浜のボードゲームショップ「リゴレ」にて、一風変わったボードゲーム会が開催された。

「楽しい気分で遊びたい同士で集まる会」と称するこのゲーム会は「☆勝利点の高い人が勝者です。最も楽しい気持ちになれた人が別の意味で勝者です(後略)」と続く」

「楽しいこと」と漠然と括られたテーマ。勝つことに必死となるゲーム会とは異なり、あくまで「ボードゲームを参加する人全員で楽しもう」が主たる目的だ。

「勝ったから良いゲーム」
私の喉元に長らく引っかかっていたこの言葉。

しかしながら「エンジョイ勢は勝利にこだわらないから意識が異なる」とも言えず、やり場のない違和感を抱えたままであった。

本ゲーム会に参加した率直な感想は「これが本来のボードゲームの良さなのでは?」を再確認できたことだ。
楽しい時間を、参加された方々と共に、楽しく過ごす。
真剣勝負の世界から一線を画した「勝っても負けても楽しく過ごせる時間」、これは本来ボードゲームが得意とする「誰でも気兼ねすることなく楽しめる」部分の本領が発揮された瞬間だったのではないかと考えた。

人間の付き合いと同様に、ボードゲームにも得手不得手がある。
食わず嫌いはともかく、修行ではないのだから、嫌な思いを押し殺してまでボードゲームを楽しむ必要など、ない。
ならばプレイを選別する際に必要なステータス、それは「いかにこの作品を楽しく味わえるか」を見極める能力ではないだろうか。


「世界で一番美味い料理は」
この回答には十人十色、多くの回答が寄せられる。
世界三大珍味をふんだんにあしらったフルコースのディナーかもしれない。
巡り巡って行き着く先が「お茶漬け」になるかもしれない。
「我が子が自分のために一生懸命こしらえたカレーライス」と答える方もいるだろう。

「楽しいを過ごせる時間」
「勝ち負け」の領域とはもっと別の世界に位置する、楽しむ、または、楽しませるゲーム会。
「参加して楽しかった」の諸元は一体何だったのだろう。
モヤモヤする気持ちを取りまとめようと一思案するも、ついにその夜は結論に到達できなかった。


翌13日、珠洲ノらめるさんのバースデーライブが開催されると聞き、喜び勇んで参加した。

数多くの学びがあり、歌手が歌い、踊り、観客全体が大いに弾ける中、影で必死にメモを取る私は、おおよそ変人に見られてしまったことだろう。

ライブの構成が見事だったので紹介したい。

オープニングの「モノローグ」で会場の空気を高め、耳が飽きることのないよう、数曲ごとにコラボを入れたり曲調を変えたり、なども挟む。
終盤はアコースティックな曲をはさみ、最後の曲は今回最もテンポの速い曲で駆け抜けた、という印象だった。
「プログレッシヴ(漸進的)癒やし系アーティスト」、看板に偽り無し。「一歩先の方法で心を癒します」そう捉えることにした。

話は変わり、先日ツイキャスライブにて、「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」のいか氏と、こんな話題で盛り上がった。

「相手に楽しんでもらうには、自分が偉そうに振る舞わないこと」

誰にでも分け隔てなく接するいかさんから、ふと、そんな言葉が飛び出した。
会話中は「年齢でも何でも「高圧的に振る舞う相手、今風の言葉で「マウントを取る」相手とは、接触したくなくなる、と捉えたが、後から考えるに、一元的ではなく「人間の更に根底へと掘り下げるべき」問題だったのではないかと思い、私は先の言葉を『緊箍児(きんこじ、西遊記の孫悟空が頭につけている輪っか)』の如くジワジワ頭を締め付ける問題ではないかと思い直した。


楽しんでもらうには。

少し前まで、私は「こちらが楽しい雰囲気を醸成すれば、興味のある方はどんどん集まってくる」
そんなある種の「勘違い」をしていたかのように思う。

全部が間違いとは言えない。私自身も「面白そう」と興味を持った作品の多くは、他の方が楽しくプレイされる姿がきっかけだからだ。

だからといって、「楽しさ=自分だけが享受できるもの」と捉えてしまうと、例えば内輪ネタで盛り上がる雰囲気だった場合、本当に自分は真から興味を注がれただろうか、と振り返った。

「楽しさ」という感覚で表現する「アナログ」的な概念を、デジタル、すなわち数値等を用いた概念を用いてはどうだろう。

「楽しい」という言葉をさらに掘り下げ
ここでは「楽しさの熱量」という言葉で仮に表現する。


例えば、あくまで私個人の話であるが
「俺はこのボードゲームなら誰にも負けない絶対の自信がある!」
そう豪語された状態で、果たしてこの相手と、その「絶対に敗色が濃厚な」ボードゲームを、一緒に遊びたいと思うだろうか。

私なら少し考える。
「相手がどんな動きをするか」といった興味関心とは裏腹に「そうまで豪語するならば、きっと相手の思うがまま、サンドバッグにでもされることだろう。ならば勝負を控えるか」と、避けて通るかもしれない。
むしろこれまでのプレイ時において、圧倒的に自分は「後者」に属していた。

それはなぜか。

「ひとつのボードゲームでどれだけ楽しめるか」の熱量を相手と比較し、「どう足掻いても相手に叶うとは到底思えない」と瞬時に判断したならば、私は直接の勝負をやめ敬遠する側に回るのではないか、と考えたのだ。

それらを差し引いても「一緒にプレイしたい」と思える相手とは、その際にどうした対応を取っていただろう。

よくよく思い返すと、それは「相手が「好き」の熱量をどんどん与える姿勢」にあったのではないかといった結論に帰結した。

どれだけ強い相手であろうとも、どれだけ「絶対に負けるに決まっている」と事前に察知した相手でも、「プレイすることで相手の「楽しさの熱量」のおこぼれを頂戴できるような相手」ならば、むしろ砂漠に湧き出るオアシスの如く、プレイに興味が惹かれるのではないだろうか、と。


無論、ボードゲームに限った話ではない。
クイズでもスポーツでも、趣味でも勉強でも何でも、「相手と共にプレイする」際、目に見えない、それこそDNA的な「野生のカン」をもって「全体の雰囲気」を瞬時に察し、肌身で伝わる直感のようなものから「相手の楽しさエネルギー」を、知らず知らず、個々人で比較・検討していたのではないだろうか。

「勝ったから良いゲーム」の言葉に自分が違和感を拭えなかった理由は、それら「勝つ以外にも楽しさの熱量を享受する方法はごまんとある」に終着した。
「がむしゃらに勝つことを追求する」だけでは、ゲームそのものが本来持ち合わせる「楽しさ熱量」の総量を、強い人間だけで分配する事態に陥ってしまう。

そうではなく「相手の現状を瞬時に察し、全体の楽しさの雰囲気を自分が盛り上げるよう積極的に醸成する能力」こそ、プレイ時には求められ、それら雰囲気の醸成を難なくこなせる諸先輩がた、いわゆる「この人とならもう一度遊びたい欲の湧く人材」こそエンターティナーと呼称されるだろうし、あるいは、その華麗なるテクニックを駆使しなければ務まらない点を踏まえ「プロフェッショナル」と称されるかもしれない。
「楽しさを知るからこそ、出し惜しみすることなく、多くの人に熱量を分配できる人物」
これこそ「楽しい雰囲気」を醸成できる人間の真の姿だったのではないだろうか。

分け与えるだけではない。
豪速球を駆使する剛腕のピッチャーは、それを受ける女房役の「キャッチャー」があってしかるべき存在だ。
「熱量をもらう側」にだって、それら高い熱量を受け取るだけの姿勢や心構えを持ち合わせなければ、コミュニケーションの根本となる「(会話の)キャッチボール」が成り立たなくなってしまう。


これらを踏まえて、私個人の話。
先のゲーム会では「プレイ中誰よりも人一倍騒ぎ(本当にすみません)」ライブ中は「他の方に負けぬよう声で、手拍子で、応援(こちらも本当にすみませんすみません)」し続けた私。

周囲に忌避の目で見られようとも、「楽しさの度合いでは負けないぞ!」と意気込み、時には得られた熱量を「もっと楽しもう!」と分配する側に回るよう知らぬ間に振る舞っていた。
しかるに、やはり熱量の分配は一朝一夕に身につくものではない。周囲に楽しさを伝播させるには、まだ体感し得ぬ「それ相応の技量」が必要と実感した。
笑顔?応援?精神衛生?
今後も料亭の職人の如く、一生をかけて試行錯誤を続けることだろう。

くじけてなるものか!


「「また明日あなたと遊びたい」と、言われるようなプレイで遊びましょう。」
カタンの作者クラウス・トイバー氏の名言である。
多くを経験し、多くを知り得た上でなお「また一緒に遊びたい」と思わせるプレイスタイルとは。

言葉の真意は、どうやらその辺りにあると画策している。










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