2019年1月25日金曜日

軽くて重い「第一歩」の問題 ーやりたいことを阻害するものって何?ー

ボードゲームをテーマに、なぞなぞの本を作ろうと思い立った。
イラストの練習も始めた。
急な思いつきで、北海道へ、沖縄へ、と飛んだ。
年末には念願の電子書籍も出版した。
最近になって、4コママンガも描き始めた。

先日のツイキャスライブにて、「おしゃべりサニバ」MCのすながわ氏に「きっかけは何ですか?」と問われ、ふと、手が止まった。
何だったんだろう、きっかけ。
自己技量の研鑽だの、あわよくば宣伝媒体に、など雑多なことは言えるだろうが、そのいずれもが本質ではない。
一つ言えることは、すべて「思いつき」で始めたことだ。
ある種の「ノリ」のようなものかもしれない。
この「ノリ」という言葉は、婉曲して「ふとしたはずみ」や「勢い」という言葉に置換される。

軽く始めた、しかるに決して「なんとなく」ではない。
「なんとなく」では「片付けられない」。
たとえ無意識化の行動だったにせよ、そこには何かしらの「理由」が存在するのだ。

気軽に始めたからこその利点がある。
初めて気がついたことだが、物事を始める理由なんて、正直、どうだっていいのではないか。
何だっていいのだ。
金銭的な面でも、感覚的なものでも、何でもいい。
それでも気が引けたり、尻込みしたりする気持ちは何だろう。
例えそれが、相手にも自分にも必ずプラスとして帰ってくることであったとしても、つい躊躇してしまう、あの胃の奥から喉元に押し寄せる感覚って、何?
色々と着手するうちに、それら事象の根源を自分なりに悟り得た。

ひとつに「失敗の恐怖」だ。

一歩踏み出すにあたり最大の敵、それは自分にとって「己の心」であり、ひいては「周囲の声」である。
失敗それ自体は、案外、恐れるに足らない。
元来生き物とは「師から教えを被る」より「自ら学び体得する」ようDNAが組成されている。
人間に限らず多くの生き物が、親の教えを享受しつつ「自ら体得する」。
「百聞は一見に如かず」、その言葉の先は俗に「百見は一行に如かず」と続くとされる。
失敗を重ね、実際に己の身で体得することで、自己の記憶や能力が開花し、経験を自らの血肉とするのだろう。

「失敗は投資」
多くの成功者がそう語る。

事実、始める前にあれだけ不安だった事実が、始めてみると思いの外スムーズにことが運んだことも意外と多かったのではなかったか。
「案ずるより産むが易し」
我が国には先人が残したことわざだってある。

もうひとつ、それは「周囲の目」だ。

「お前には無理」といった根拠のない否定は元より、「きっとこうだろうから無理」といった否定的な予測、「過去にこうだったから」などデータを後ろ盾にした忠告など、枚挙にいとまは尽きない。
高度情報化社会、老若問わず多くの人間がフラットな目線で発言できることが、こうした弊害をも生み出したのだろう。

どんな声であれ、外野の声は、薬にも毒にもなり得る。
思うにそれは精神衛生に大きく左右され、元気な時、悲しい時に応じ、自己の体に上手く処方することが重要なのだ。

周囲の冷たい目線は、行動する己の心でさえむしばむ。
自己の能力に自信を持てない、やってどうなる、周囲からどう思われる…。
そんな気持ちに支配されると、結果、自分の気持ちが「誰かがやってくれるはず」に帰結する。
「(自分より能力の上回る)誰か」、掘り下げると「(メリットも多いだろうけれど、加えて、厄介な面倒ごとも多くなるだろうから、それらを一手に引き受けてくれるスーパーマン的な)誰か」。
そんな「存在するはずのない「誰か」」に期待をかける。
コスパなんて言葉を使いたくもないけれど、作業量の差し引きを考えると、ポンとお金だけ出して厄介ごとが片付くほうが「遥かにコスパが良い」
努力で成し得たものは、見る人からすれば非常にコスパの悪い方法とも言える。

まとめると、
これまでの周囲の環境、生活基盤、等々、様々なしがらみ、加えて自己の経験則が「第一歩目」を阻害している。

これまでの人生経験で培われた、自己の判断が故に、こちらの壁を取り払う行為が実に難しい。

では、読者の方が一番気にするであろう
「それら全てをかなぐり捨ててまで、真に得られるもの」
とは?

正直、私自身が成功者と呼べる人間ではない為に、その先の「得られた果実」について正確な記述を行うことができない点、了承願いたい。
しかるに、一点だけ、確実に言えることがある。
ストレスが大きく削減されたことだ。

第一歩目からの再出発
いわば、それまで肩にのしかかった重荷を一旦下ろし、新たな積荷を背負って歩き出す行為だ。
プラスマイナスだけで換算すると、ゼロとなる。
しかしながら、それまでについた筋力や先を読む脳内の経験値の総量で、それらは決してゼロ発進でないはず。

何より、やりたいことをやっている時間は純粋に「楽しい」
会社で、部下・上司・同僚らの目線を気にすることなく、自分のやりたいことを、好きな時間に好きなだけできることは、やはり楽しい。


先日描いた落書き。数ヶ月前、イラストなんて丸に棒の人間しか描けなかった自分。
この程度の稚拙なイラストであろうとも、数ヶ月前の自分には決してできなかったことだ。
そう考えると、自分自身に「お疲れ様!」とエールを送りたくなる。
気持ちの共感があると、その喜びはひとしおだ。
ツイッターなどで「イイね」をもらうだけで、その喜びは何倍にも増幅される。
かっこいい言葉を言える義理ではないが、見るものを幸せにする蝶々も、その前は見てくれの悪いイモムシやさなぎの過程を経て成長したような。

おそらく私の周囲に存在する「やると決めたら即実行できる人」とは、これら「周囲の声」「己の心」などの障害をあっさりクリアできた先の「喜び」「楽しみ」を知り得る人間ではないかと考える
「ボドっていいとも!」パーソナリティの翔さん(@syousandesuyo)がパッと思い浮かんだ。

有言実行。
楽しいことは、なんでもやろう、いや、やります!
楽しいこと、できることをし、自分の内面を外と対峙させるうちに、次第に理解者も生まれ、今まで混迷していた「自分の姿」「自分の行くべき道」も見えてくるかもしれない。


そんな私を見かねてか、podcast「いかラジ」のいか氏からアドバイスを頂戴した。
「自分ができたから満足、くらいが丁度いい。」

私の次の目標
それは「年内中にpodcastを更新すること」だ。
いかさんや、すながわさんらをゲストに呼び、楽しくおしゃべりすることを最終目標に掲げたい。
生命の続く限り、頑張りますとも。

自らの意思が、強固であるほど
様々な試練に苛まれるものだ。
無論、試練を目前に避ける事も出来れば、
逃げる事もできる。
だが、試練の真意は、
そんな己の心を克服することにある。

(「斑鳩」Chapter2、試練ーTrialーより)


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