2019年3月2日土曜日

対人戦と云ふは優しさと見付けたり

ツイキャスライブでいかラジのいか氏のコラボに上がった際の話題だ。
「カタンの上級者は、相手を蹴落とすような交渉ごとはしない」

この件に関し、以前、モノポリーの日本選手権上位者と対戦した方も「あの方と交渉する時に、なぜか(相手ではなく)こちらが有利となるような交渉を持ちかけてくる」とお聞きした。
いかさんの話の中にも、カタンのプレイヤーにモノポリーのプレイヤーが存在すると話されていたことからも頷ける話だ。
上位者ともなると、周囲の状況に常に気を配り、相手が何を求め、自分にできることは何か、その中の最善手は何か、といったありとあらゆる選択肢の枝葉を伸ばすのだろう。

落ち物パズルに似ている。
手弁当で何連鎖と作成することが対戦において必ず強みとなるわけではない。
上位者同士の対戦では、急所となる場面で妨害となる連鎖、まとめ消しなどを発動させ、相手の狙いを狂わせる。
「勝つためには、高い点を取ることではない、相手より1点でも多い点数を取れば良い」
これはプロボウラーの方からも似たような話を聞いた覚えがある。
ボウリングのトーナメントでは、単にピンを倒すだけではなく、オイルの塗り具合やコンディション、さらには、相手のフレームのオイルを剥がすような投球をわざとしかけるといった面もあるのだとか。
「勝負の醍醐味はそこにある」
と記憶している。

カタンの話に戻る。
かくいう私も、実は先ほどのツイキャスライブ後に自己の苦い経験を思い出した。
カタン、しばらく遠ざかっていたけれど、そういえばこんな経験をした身である。
早速その日の日課4コマのネタに仕立て上げた。


なぜ上級者は強引な交渉をしないのか。
それは「そうした交渉ごとを一度でも持ちかけたプレイヤーは、その後、他のプレイヤーに警戒されてしまうから」であるといかさんは話す。

カタンの制作者クラウス・トイバーの言葉にも
「またあなたと遊びたい、そんなプレイをしましょう」
察するに、トイバー自身も勝ち方にこだわるが故に楽しさをないがしろにするプレイヤーへの警鐘を促したのだろう。

ボードゲームに限った話ではない。
連珠の福井6段とお手合わせした際も、こちらがなすすべなくコテンパンに、ではなく、もう一手でこちらが勝利となる寸前でスルリと相手が勝ちを持っていった、それが何戦も続いた、といった印象だ。
連珠だけではなく、オセロの名人の方とお会いした際もそうだった。
明らかに序盤こちらの色ばかりで埋め尽くされた盤面が、相手の一手で総入れ替えされるが如く盤面が入れ替わったのだ。
「オセロにおいて、序盤なんて関係ないからね」
そんな言葉を、手ほどきをいただいた日本オセロ連盟の方から頂戴した。

ドイツゲームを含む、アナログゲーム本来の魅力とは「何かしらの形でもう一度相手と遊びたくなる状況を(さも自然の如く)生み出せる」にあるのではないか。

一つの考えとして、聞いてほしい。
ボードゲームはテレビのゲームとは違い一人で遊べるものではない。ともにプレイする人間が必要で、盤面の世界をともに冒険する、感動を享受する「仲間」が必要である。
それらは単純に「NPC」といったコンピュータやオートマカードなどの存在に置き換えられる存在ではない。

なぜか。
それは相手を通じる行為が、ひいては「自己の意志を確認する行為」へと結びつくからである。

ボードゲームとは、相手との意思疎通を通じ、自分の思考過程を盤面に投影させ、意思を明確化する遊びだと考える。
それらを周囲に確認、同意させ、うまく周囲と調和を図りつつ、勝利を目指す。

難しく表現したが、要は、盤面で流れる時間の中に、それら目に見えない「心の交流」が、わずかな時間の中でプレイヤー相互にやり取りされているのである。

意思と意思とをぶつからせつつ、時に衝突し、しかしながらその根本は面白さに置き、結果という形で勝敗を目指す、
だからこそ、同じ戦略、戦法が存在せず、同じ相手だろうと、時間単位で戦い方が大きく変化を遂げる。
相手も変われば、それに応じ、自分の思考も変わる。
アナログゲーム本来の楽しみはどうやらその「相手と接触を図ることで、盤面が常に変化し、都度、思考することを要求される」辺りに存在し、表面的な「コンポーネントの豪華さ」や「ゲームシステムの妙」はそれらを引き立てる存在ではないか、と、考えた。

元々、家族でプレイすることを前提とするドイツ製のボードゲームの中には、「メンシュ(邦題:イライラしないで)」https://shop.neu-icarus.com/items/13244217   のような、相手への妨害をよしとするルールの双六が多数存在する。
細部はまた別の機会に考察するとして、これらの作品がドイツ国内で長年愛された背景には、「相手に対し何かしらの接触を行うことこそが、ボードゲームならではならではの醍醐味」とされたからではないか、と勝手に妄想する。

以前、とある方が(運の要素を排除した作品の総称、という意味合いでの)アブストラクトの魅力について、こんな言葉を述べた。
「相手がどう迫ってくるかが人それぞれで、それに対して、自分がどう攻めるかを考えることが楽しい」
これも、樹形図やフローチャートで計算されたコンピュータとの思考合戦ではなく、空気を隔てた向こうに生の人間がいる、という前提だからこそ為し得る味わいなのだろう。
これが仮にCPUだったならば、人間は「攻略する」ことに重きを置くに違いない。
その日の体調や思考、こちらが仕掛ける会話や、何気ない仕草等、一手で大きく変化する盤面、対人戦の面白さを通じ、やはり「自己の姿を投影」させている。

俗な話ではあるが、人間の目は前を向くように付けられており、自分の姿を自分で確認できない構造となっている。
相手を通じることでしか、自分の人となりを確認できない、とも取れる。

これらを踏まえた上で、冒頭の「カタン上位者が相手に有利となる交渉をわざと仕掛ける」行為について考えると、実に納得ができる。
「良い行為には良い行為が返ってくる」
因果横暴、いい人には、いい人間が集まる。逆も然りで、悪い人間には、相応の目を持った人間が、それなりの数だけ集うものだ。悪いツイートだって、バズればフォロワーの数”だけ”は増やせることに通じる。
だからこそ、相手に優しく接することで、優しさの行為は連鎖し、ひいては、自分の行為が良い方向へと広がりを見せるからなのだろう。



長々と述べてしまったが、今回の結論を端的に表すならば、たったの一言で済む。

「性格の悪い人間と遊ぶ名作は皆駄作だが、気の合う人間とならばジャンケンだって面白い」





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