2019年4月20日土曜日

インプットとアウトプット

漫画家あやめゴン太先生のツイートにあった何気ない言葉だったと思う。

「なんでこんなに本があるの? それはね、本が好きだからだよ」

好きだから、必然的に、その総量は多くなる。
当たり前のようで、意外とそうでもないことがあることに気がついた。

ボードゲームが好きで、好きが興じて、ブース設営3年目となる今年、またも「3冊の新刊を出します」などと無謀なチャレンジを行う自分。
読みたい本はたまり、遊びたいボードゲームも積み重なり、できるか否かの気持ちばかりが焦る中、刻々と時間ばかりが過ぎていく。
周囲のテストプレイ会などのツイートを横目に、名門大学受験に匹敵する程のデスクワークが続く自分。
「好きなことって、何?」という錯覚に苛まれそうになると、邪気を払うかのようにかぶりを振って、また前を向く。
この頃はそんな生活を送っている。

量がその人を支える。
ボードゲームが好きだから、その人には、それだけのボードゲームの量的な数もあれば、または知識なり経験なりといった知的財産のようなものも存在する。
本が好きだから、本をたくさん所持しているし、必然的に、本をたくさん読んでいる。
TRPGのステータス振りのように、ある人はこの値が少なく、ある人はこの値が多い、それらを鑑みた上で、パーティ内での性格や役割が形成される。

逆も然り。
少なければ、やはり、何もできない。
手にする物量が少なければ、できる範囲もそれだけ限られるだろうし、また、インプットする量が少ないならば、絶対的な経験値を持つ人間に圧倒されてしまうだろう。

「好き」が持つ特徴の一つに、インプット、つまり内面に取り入れられるがゆえに、なかなか自分では見えにくい点ある。
自分で「**が好きです!」が見えにくい、自覚しづらい、自覚できるまで時間を要するのでははないか。

インプット、体内に取り入れることとは、自分の中に多くの「コト」「モノ」を「取り入れる」ことにある。
取り入れてしまうということは、体内で消化され、自分の中のパーツとして形成され、細胞の一つとして体内に組成される。
自分の中のひとつとなるのだ。
自分の中のパーツとなったものは、自分ではなかなかその利便性に気がつきにくい。
「人間は腕が二本あり、指を自在に動かせる」を、日頃から幸せだと感じている人は少ないのではないか。

では逆に「アウトプット」はどうか。
アウトプット、他人に向けて「主張」することで、自分の存在を他に「アピール」することができる。
「自分はこうなのです」「自分という生き物はここにおり、こんな形をして、これが好き、嫌いなのです」
常日頃から発信する言葉や言動などで、周囲の人間に「アウトプット」することで、自分の存在を「インプット」する役割を果たしている。
「ああ、他に比べて、自分はこうだったのか」「やっぱり私は**が好きだったのか」
アウトプットすることで、自分の「好き」を主張することで、改めて強く認識できるのだ。

好きなことを主張することは、深呼吸することに似ている。
窓を開けたら空気は「逃げ」たのちに新鮮な空気が「入る」
苦しくなったら、まずは呼吸を「吐く」
吐くだけ吐いたら、少しづつ「吸う」
他人ごととは言えないが、好きであることの回答を積極的に仰ぐのではなく、ゆっくり、無理せず、自分のできる範囲内で吸収すれば、自ずと自分の行なった回答はやってくる。
言うなれば、苦しみながら呼吸を行うことはない。
回答に無理をして急を寄こそうとするから「無理」が生じる。
それでもやはり、インプットする時点では見えにくい点を他人の目線で評価される嬉しさや喜びには到底かなわないのですけれどね。


ゲームマーケット春2019開催まで残すところ1ヶ月あまりとなった。
多くの製作者が大詰めを迎え、積極的に広報活動を行い、自分の作品をアピールしている。
「見てください!遊んでいってください!」
私個人として、ゲームマーケットはモノを売り買いする場、という目的は二の次、3、4、5の次ぐらいだ。
モノを買う立場として、それら製作者の方々の「好き」を全身に享受する場として
一方で、モノを売る立場として、私の「好き」を全身全霊でアピールする場として
臨む所存だ。

だから、今は必死でアウトプットを続けるしか、ない。
自分の中に蓄積された「好き」の総量をあらん限りに放出させ、小冊子にしたため、エナジーみなぎる小冊子として上手く昇華できるよう、最善の努力を行うより、他はない。
それが何よりのアウトプットであり、ひいては自分の「ボードゲームが好きなのです!」をアピールできる一番の方法ではないだろうか。


そんなことを考えながら、今回もまた多くの製作者様からたくさんの刺激を受けるために5月25.26日とビッグサイトにお邪魔したいと思います。
私は日曜L02ブースの片隅で、ひっそりと本を売りつつ、ボードゲームのクイズを読んでいることに致します。

よろしくお願い致します。



2019年4月14日日曜日

楽しむために勝つ、とは。

最近は作業のお供にポッドキャストやツイキャスライブ等を拝聴することが多い。
その中で感じたことを話題として提供したいと思う。

先日のおしゃべりサニバ第148回で「好きすぎて上手くなり、相手がいなくなった」という内容の話題で盛り上がっていた。

将棋や囲碁など、競技人口が多い遊戯ならば、上を見上げるとキリが無い分、好きなだけ成長でき、好きなだけ身の丈に応じた相手が存在する。

しかるに、好きなボードゲームとなると話は別だ。
いくら好きなゲームであろうとも、同じゲームに付き合うならともかく、強くなりすぎた相手にむざむざ負け戦を挑むような相手と、再び一緒に遊びたいと思うような、強靭な精神の持ち主など極めて稀だろう。

何度か引用したトイバーの言葉「またあなたと一緒に遊びたい、そんなプレイをしましょう」
そんな言葉が一瞬頭をよぎる。


が、それも杞憂であることに気づいた。


少し前に、こんな漫画を描いた


本当に上手いプレイヤーとは、どういったプレイスタイルを取るのか。


それは「勝って楽しい」ではない。
「楽しむために勝つ」だ。

以前オセロ有段者の方とオセロでお手合わせをする機会に恵まれた。
序盤はこちらが圧制だった。
にも関わらず、終盤からあれよあれよと駒を返され、気がつけば盤面は相手の駒だらけ。見るも無残な形での完敗を喫したのだった。

「オセロでは、序盤なんて関係ないですからね」

盤面の毛バタがハゲてうっすら木目が見えるほど、何度も何度も使い込まれたであろうオセロの盤面を、私はジッと凝視しながら、その方のお話しを伺った。
丁寧に、笑顔を交え、一手、一手と解説してくださる。

「ここでこっちを置きたくなるでしょ?実は隣のこっちに置くとですね、ほら!実はここで互角になってたんですよー!」


プロの技量とは、数かぎりない選択肢の中から最適解を見つけ出せる、ばかりではない。むしろ「AかBか、究極の選択」といった二択、三択の盤面を何度も何度も展開するうちに、そこから最適解ばかりを巧みに選択できるプレイヤー、それこそが私の思う「プロ」ではないかと考えた。


余談だが二択もバカにはできない。有名な話に、0,1mmの紙を何回折り曲げると富士山と同じ高さになるか、といった数学の問題がある。
答えはたったの(?)24回。
細部計算は省略するが、2×2…×2を続けると、24回折ることで、折り紙程度の厚さだろうとも富士山の高さに到達できる、という計算上の話である。

閑話休題
オセロの盤面では一人30手、最初の定石はあるかもしれないが、常に二択と考えても、その数は5億通りに及ぶ。

オセロに限らず、ボードゲームや囲碁、将棋の上手い方は、その中で「いま自分や相手が一番楽しめる方法とは何か」を常に模索し、相手がどう考え、どうしてここでこんな手を打ったのか、といった全体まで俯瞰できる余裕と余力があるからこそ、なのだろう。


同じeスポーツつながりで「ぷよぷよ」なども、自分の状況だけでなく、次に落ちてくる駒や、相手の状況を即座に判断する技量が、上級者ともなると要求される。

それらを踏まえた上での感想戦は、同じレベルの相手より、やはり上級者とのやりとりの方が面白い。
自分では「なんとなく」と思って打った手が、実はもう少し冷静に考えて別の手、往々にしてそれらは二択に絞った際に最後まで迷った挙句、最後に切り捨てた方の手だったりするが、の方が妙手だったりする。
その「気づき」があるから面白い。楽しい。
単に自慢話を聞かされたり、自分のダメさ加減を言及されるだけの感想戦なんて、勉強目的でない限り、つまらないではないか。

それは感想戦も含めた「一局全体」が、自分、相手、相互に楽しいからであり、自分だけではなく「お互いが楽しむために」ゲームが存在するからではないか。
そして上級者ともなると、その辺りの楽しさ(勝敗に左右されない、あくまで楽しむための、という意味合いで)を熟知しているのではないか。


先に挙げた言葉を裏返して解釈すると、「ボードゲームはやはり一人では遊べない」のである。
ポッドキャストの中でも話題に上がったが、勝ってばかりでは、やはりツマラナイ。退屈だ。
古典では退屈を「徒然(つれづれ)」と呼び、物悲しい、という意味と同義で使用される。
だからつい自分の自慢に走りがちとなる。
何気なく口に出た言葉が自慢に捕らえられ、その自画自賛が過ぎると、やはりつまらないどころか、神経を逆なでする恐れもある。
「あの人と(あのゲームで遊ぶと)どうせ負けるだろうし」「負けた挙句、自慢話聞かされるんじゃあな」
悪循環を断ち切るには、やはり「相手を思うプレイ」が必要とされる。
いくら人工知能が世界を跋扈しようとも、対人で繰り広げられる「会話のやり取り」や「思いもよらない妙手と、時に悪手も見せる奇想天外な展開との隣り合わせ」が混在する対局こそ、人工知能が到達できない、それこそアナログゲームが真の強みを見せる「人と人とのつながり」ではないか。


考えてみれば、美味しい料理が食べたい時は、自力で作る他に、腕の立つ料理人のいるレストランに向かえば、良い思いをすることもできるだろう。
美味しいレストランでは、その手腕をいかんなく発揮するシェフが腕によりをふるってあなたにディナーを提供する。
飾る言葉もいらず、一言「美味しかったです」があれば、それだけで相手も喜んでくれるに違いない。


「会話は知性のご馳走である」
最近読んだジョン・トッド著「自分を鍛える」からの引用である。
上手くなることで離れるには、といった問題の根底には、やはり当人の「勝って楽しい」が先行するからではないか。(もちろん競技・スポーツの「厳しさ」が持つ側面を「勝てなくても楽しむには」といった問題に展開させるとまた別だが)
それらを踏まえ、私の思うプロとは、相手に気づきと楽しさがもたらす「知性のご馳走を提供する一流シェフ」のような存在であり、いわばそれは「楽しむために勝つ」ことが念頭にあるプレイヤーのことを指すのではないかな、と思い、自分の目指すべき道もどうやらその辺りに眠っていることを再確認したのであった。




2019年4月7日日曜日

ふりだしに、戻りました。ー根本を見直すことで見えてきた世界の話ー

先日、POO松本先生というデザイン関連の先生の元、私の小冊子をビシバシと指導される機会に恵まれた。
約8時間余にわたる猛抗議は、時折涙ぐんでしまうほどで、強さの中に情熱のある指導であり、メモ代わりにと用意したノートはほとんどのページで黒ずんでしまった。

その中の一つを紹介したい。

ページを開けるなり、先生の口から出た言葉は
「で、これは誰に向けての本なの?」

もちろん、小冊子を作るからには自分なりにテーマを定めてはいたが、それではあまりに「漠然と」しすぎている、と指摘された。

「若者?初心者?子供?お年寄り?その辺りがブレてない?」

根本も根本、スタート地点の問題である。
私の小冊子が抱えていた問題は、主軸となる「骨組み」、大黒柱そのものがすでに揺らいでいた、というわけである。
言うなれば、この時点で「指導を受けるフィールドにすら上がっていない」とも言える。

あ、イタタタ。

クラウゼウィッツの戦略の本や、孫子の戦略の本やら、ビジネスでも活用できるだろうとあれこれ戦略の本を読み漁ったから、おぼろげにわかる。
「全方向同時打撃」なんて構えていたら、あっという間に兵站組織が瓦解してしまう。
敵が企図する目的をしっかりと見定め、時に応じて刻々と変化する戦況をよく観察し、我に乗じる敵の弱点とする方向に、あらん限りの火力を指向する、
そんな戦闘の基本・基礎すら“わかっていなかった”のだ。

闇雲に頑張ることで、なんとなく「許された」気になっていなかったか、自分。

指導を受けながら、心の中の重い塊がズシン、ズシンとのし掛かり、その上からさらに厳しく飛び交う、細かなデザイン面での指導…。

辛さ、厳しさに耐え忍びながら、その日の夜、もう一度、乱雑に書き留めたノートを見返す。
デザイン云々の話ではない。
これまでの自分が残してきた、雑さ、荒さ、その他諸々の「甘さ」が、やはりわかるかたにはお見通しだったのだ。
恥ずかしさのあまり、次回作成の本など頒布するにおこがましい思いもした。
体調のせいだと言い聞かせ、早めに就寝し、1日だけ気持ちを寝かせることにした。


翌朝、
乱雑な文字のノートはそのまま。
頭の中だけは余計な雑味が少し抜けたのか、幾分カラになったような、すがすがしい気分。

パソコンに向かい、昨日の事項を一つ一つ修正する。
構造を一からやり直す作業に深いため息が溢れる。手が止まり、なかなかキーボードが進まない。


先生は5月に新刊を出すことを「馬鹿か!死ぬぞ!」と応じた上で「よし、死ね!」と承諾してくださった。
頑張ることしか取り柄のない自分が、また一からスタートする、その期限は実に1ヶ月を切ってしまった。
材料はあるが、時間も体力も、まして余分な資金もない、
そんな中で本当にできるか否か。今回も大勝負を強いられることとなった。
毎回毎回、本当に私は馬鹿だと思う。

無理だ、と思ったらそこで糸が切れてしまう。
だから、コツコツと続けるしかない。
一歩一歩、と歩き続けているうちに、ゴールも見えてくるだろう。
今はまだ、見えない先のことなど考えず、目の前のハードルだけを、一つ一つ、着実にこなしていく、それだけだ。


まずは「主軸」ターゲット層を見直す作業から取り掛かった。


一つ、皆さんに約束したいことがある。
それは、作品を頒布する中で、それらの質を確実に上回ることだ。
決して過去作の「焼き回し」などといったことはしない、したくない。


そのためにまず、問題数の選別を行うことにした。
これまでの小冊子では「数の多さ」を何かしらの武器にしていた気がする。
どなたかが(小冊子の件ではないけれど)話していた。
「あまり多すぎても、見やしませんよ」
だから、問題数を半分ほど一気に減らす作業を行うことにした。
いわば果物の摘果のような作業だ。
問題数が減る代わりに、一問一問のクオリティが高く、甘い、どの問題も自信を持ってオススメできるラインナップを揃えることができる。

そして、ターゲットをさらに絞ることにした。
言うなれば、これまで「老若男女、どなたでも楽しめます!」と、ぼんやりした表現で濁したターゲット層を、ギュッと絞ることにした。
「初めての方がボードゲーム知識を蓄えられる一冊」
初めての方が読むことで、ボードゲーム・アナログゲームの知識をそれなりに身に付けることができる一冊、と、銘打つことにした。
これはアナログゲームのなぞなぞ本2巻や4コマの2巻も同様のコンセプトだ。


「いらっしゃい、ここは初めての方が装備を整えるお店だよ」
そんな基本コンセプトで、番次郎ブースは、ゲームマーケット春、そして北海道、と、挑むことに決めた。


そして、大事なことをもう一つ。

ゲームマーケット春が終わったら、少し間を取り、作品をじっくり練りたいと思う。
有り体に言えば、北海道ボドゲ博に向けての新刊は、今は出す予定はない、です。ごめんなさい。

これも先の「クオリティ維持」の話につながる。
今回の大阪新刊、自分なりにIllustratorもインデザインも勉強し、小手先の技を駆使し、さらなるパワーアップを図ったつもりだった。
が、やはり先生の目はごまかせなかった。
「大阪新刊、突貫工事で作ったろ。前の(BoardGameQuiz本)方よりも、クオリティが落ちてるぞ。」

だから、というわけではないが、もっとインプットしたい。もっと気持ちに余裕を持ち、小冊子制作以外にももっと色々な面で、多くのことを学びたい。ポッドキャストも作りたいし、本もたくさん読みたい。買ってから遊んでいないボードゲームだって山のようにある。
ボードゲームが持つ「楽しむ」ことの根本を忘れることのないよう、しっかりと土台を踏み固めたい。何よりもまず、求職のあても探さなくちゃね。



原点に立ち返り、言うなれば、スタートに戻ることで、改めてその根本を見直すことができ、その先でようやく見えてきた、自己の現実と、行く先の未来。
今回の講義で学んだ新たな視点をもとに、自分の持つ可能性、そして「一人だからできること」そして「表現するからこそ、見えてくること」決して良いことばかりではなく、キツく、つらい言葉の中から、磨かれる自分。
艱難汝を玉にす、と、自分に言い聞かせながら、とは言いつつ、時折お茶でも入れながら、余裕を持たせつつ、この先も「ボドゲクイズのひと」として、そしてこれからは「初心者の館のオヤジ」としても、その両面で頑張りますとも。



このブログも区切りがよく100件目を迎えることができました。
他の方とは違い、ボードゲームの紹介もなく、日々、感じたことを、長々と綴るだけのブログとなりますが、今後もゆるく続けていきたいと思います。
よろしくお願い致します。



学ぶこと、奢らないこと。〜バネスト20周年記念ボードゲーム会に参加して〜

名古屋市北区のゲームストア・バネストが今年で20周年を迎える。 それを記念し、20周年記念ボードゲーム会と銘打たれた大規模なゲーム会が開かれるのだという。 開催の知らせを耳にした私は予定の有無など考えずに申し込みを済ませた。 ゲームマーケット秋に向けての入稿や来週に迫る神...