2019年4月14日日曜日

楽しむために勝つ、とは。

最近は作業のお供にポッドキャストやツイキャスライブ等を拝聴することが多い。
その中で感じたことを話題として提供したいと思う。

先日のおしゃべりサニバ第148回で「好きすぎて上手くなり、相手がいなくなった」という内容の話題で盛り上がっていた。

将棋や囲碁など、競技人口が多い遊戯ならば、上を見上げるとキリが無い分、好きなだけ成長でき、好きなだけ身の丈に応じた相手が存在する。

しかるに、好きなボードゲームとなると話は別だ。
いくら好きなゲームであろうとも、同じゲームに付き合うならともかく、強くなりすぎた相手にむざむざ負け戦を挑むような相手と、再び一緒に遊びたいと思うような、強靭な精神の持ち主など極めて稀だろう。

何度か引用したトイバーの言葉「またあなたと一緒に遊びたい、そんなプレイをしましょう」
そんな言葉が一瞬頭をよぎる。


が、それも杞憂であることに気づいた。


少し前に、こんな漫画を描いた


本当に上手いプレイヤーとは、どういったプレイスタイルを取るのか。


それは「勝って楽しい」ではない。
「楽しむために勝つ」だ。

以前オセロ有段者の方とオセロでお手合わせをする機会に恵まれた。
序盤はこちらが圧制だった。
にも関わらず、終盤からあれよあれよと駒を返され、気がつけば盤面は相手の駒だらけ。見るも無残な形での完敗を喫したのだった。

「オセロでは、序盤なんて関係ないですからね」

盤面の毛バタがハゲてうっすら木目が見えるほど、何度も何度も使い込まれたであろうオセロの盤面を、私はジッと凝視しながら、その方のお話しを伺った。
丁寧に、笑顔を交え、一手、一手と解説してくださる。

「ここでこっちを置きたくなるでしょ?実は隣のこっちに置くとですね、ほら!実はここで互角になってたんですよー!」


プロの技量とは、数かぎりない選択肢の中から最適解を見つけ出せる、ばかりではない。むしろ「AかBか、究極の選択」といった二択、三択の盤面を何度も何度も展開するうちに、そこから最適解ばかりを巧みに選択できるプレイヤー、それこそが私の思う「プロ」ではないかと考えた。


余談だが二択もバカにはできない。有名な話に、0,1mmの紙を何回折り曲げると富士山と同じ高さになるか、といった数学の問題がある。
答えはたったの(?)24回。
細部計算は省略するが、2×2…×2を続けると、24回折ることで、折り紙程度の厚さだろうとも富士山の高さに到達できる、という計算上の話である。

閑話休題
オセロの盤面では一人30手、最初の定石はあるかもしれないが、常に二択と考えても、その数は5億通りに及ぶ。

オセロに限らず、ボードゲームや囲碁、将棋の上手い方は、その中で「いま自分や相手が一番楽しめる方法とは何か」を常に模索し、相手がどう考え、どうしてここでこんな手を打ったのか、といった全体まで俯瞰できる余裕と余力があるからこそ、なのだろう。


同じeスポーツつながりで「ぷよぷよ」なども、自分の状況だけでなく、次に落ちてくる駒や、相手の状況を即座に判断する技量が、上級者ともなると要求される。

それらを踏まえた上での感想戦は、同じレベルの相手より、やはり上級者とのやりとりの方が面白い。
自分では「なんとなく」と思って打った手が、実はもう少し冷静に考えて別の手、往々にしてそれらは二択に絞った際に最後まで迷った挙句、最後に切り捨てた方の手だったりするが、の方が妙手だったりする。
その「気づき」があるから面白い。楽しい。
単に自慢話を聞かされたり、自分のダメさ加減を言及されるだけの感想戦なんて、勉強目的でない限り、つまらないではないか。

それは感想戦も含めた「一局全体」が、自分、相手、相互に楽しいからであり、自分だけではなく「お互いが楽しむために」ゲームが存在するからではないか。
そして上級者ともなると、その辺りの楽しさ(勝敗に左右されない、あくまで楽しむための、という意味合いで)を熟知しているのではないか。


先に挙げた言葉を裏返して解釈すると、「ボードゲームはやはり一人では遊べない」のである。
ポッドキャストの中でも話題に上がったが、勝ってばかりでは、やはりツマラナイ。退屈だ。
古典では退屈を「徒然(つれづれ)」と呼び、物悲しい、という意味と同義で使用される。
だからつい自分の自慢に走りがちとなる。
何気なく口に出た言葉が自慢に捕らえられ、その自画自賛が過ぎると、やはりつまらないどころか、神経を逆なでする恐れもある。
「あの人と(あのゲームで遊ぶと)どうせ負けるだろうし」「負けた挙句、自慢話聞かされるんじゃあな」
悪循環を断ち切るには、やはり「相手を思うプレイ」が必要とされる。
いくら人工知能が世界を跋扈しようとも、対人で繰り広げられる「会話のやり取り」や「思いもよらない妙手と、時に悪手も見せる奇想天外な展開との隣り合わせ」が混在する対局こそ、人工知能が到達できない、それこそアナログゲームが真の強みを見せる「人と人とのつながり」ではないか。


考えてみれば、美味しい料理が食べたい時は、自力で作る他に、腕の立つ料理人のいるレストランに向かえば、良い思いをすることもできるだろう。
美味しいレストランでは、その手腕をいかんなく発揮するシェフが腕によりをふるってあなたにディナーを提供する。
飾る言葉もいらず、一言「美味しかったです」があれば、それだけで相手も喜んでくれるに違いない。


「会話は知性のご馳走である」
最近読んだジョン・トッド著「自分を鍛える」からの引用である。
上手くなることで離れるには、といった問題の根底には、やはり当人の「勝って楽しい」が先行するからではないか。(もちろん競技・スポーツの「厳しさ」が持つ側面を「勝てなくても楽しむには」といった問題に展開させるとまた別だが)
それらを踏まえ、私の思うプロとは、相手に気づきと楽しさがもたらす「知性のご馳走を提供する一流シェフ」のような存在であり、いわばそれは「楽しむために勝つ」ことが念頭にあるプレイヤーのことを指すのではないかな、と思い、自分の目指すべき道もどうやらその辺りに眠っていることを再確認したのであった。




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