2020年5月30日土曜日

実感なき成長 自粛期間制作日誌その10



「止まない雨はない」、なんてありきたりな言葉にもあるように、一時期は緊急事態宣言も発令されるにも及んだ本状況も、本当に、ほんの僅かながら、回復の兆しが見え始めてきた、そう思わせるここ1週間だった。

 ボードゲーム製作者の方同士のやり取りも、オンラインを通じたテストプレイ会の話題や、創作作品の頒布先情報や新作の進捗といったやり取りがツイート上を賑わせるなど、制作側の気持ちも上向きになったのかな、僕はそんな気配を感じ取った。

 一方で僕は、というと、相も変わらず次回イベントに向けて小冊子の原稿と格闘する日々が続いている。
 本「自粛期間制作日誌」も10回を迎えるというのに、生活のスタイルは、1週目どころか数年前に遡っても、なんら大きく変わることはない。
 
 小冊子制作もいよいよ佳境を迎え、パズル本、4コマ本、ともにほぼ全ての内容がひと通り出揃った。残すはレイアウトやデザインの細部修正といったデコレーション部分の作業に着手する。進捗は概算で60%、だろうか。

 目の前に控えたイベントが「開催される」前提で動く、というと楽観主義と取られるかもしれない。けれど、僕の立場は至って変わらず、イベントがあろうとなかろうと、創作に対する熱意だけは喪失させないように、日々自分のできることを模索しながら少しずつでも前へと進む、それだけだ。

 今回ウイルスの件に限った話ではないが、出口が見え始めた頃に決まって飛び交う言葉がある。

「自分はこの間、何をしたのか」

 夏休みが終わる1週間ほど前、テストが始まる3日ぐらい前、卒業式を迎える直前、etc…。 
 先々回のPodcast「万屋楽団のそれなりな日々」でも、MCのサンジョウバさんからもこんな言葉が飛び出した。
(万屋楽団のそれなりな日々 第88回 スプフォンショッキングVol.3 「りにょりさん」の巻 https://yorozuyagakudan.com/2020/05/08/podcast088/


「(配信日は5月8日)少なくとも5月末まではお店開けれないだろうなっていう算段があったのよ。じゃ2ヶ月間あると。じゃ「あれもできるこれもできる、もうこの時間を有意義に過ごすしかない」と思ってたわけですよ。で、1ヶ月経ちましたよ。何やりましたか?って話でね…(中略)なんもしてないのよ。なんもっていうと語弊があるけど、やろうと思っていたことの10分の1もやってないわけですよ。(後略)」

 あ、イタタタ…。


 僕のここ最近約2ヶ月間を改めて振り返ると、朝はボードゲームクイズ動画の作成、昼はその延長で明日の動画のアイデア出しや読書、夜は4コマ執筆、の繰り返し。動画作成を終えた今はそのまま小冊子制作へと作業がスライドしたに過ぎない。
 「何もしていない!」と焦る気持ちが100とはいかないまでも、この期間のためにと買った本は多くが積読のまま、欲しいボードゲームも残さず入手できたわけでも、購入したとしても少しルールブックを読んだだけ、など、言ってしまえば「やりたかったことを全てやりきった。この期間中で自分は大きく成長できた。充実した!」と大手を振って宣言できるだけの実感は、恥ずかしながら「無い」。

 そんな中、ひとつだけ気がついたことがある。
 環境を日常へと昇華させる大切さだ。

 前々回の当ブログで「環境」に関する記事を綴った。

(「番次郎の盤上万歳‼︎ 「環境は自らの意思で 自粛制作日誌その7(2020年5月7日)」http://hibikre.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

 あくまで僕の経験則だが、ツラい状況を「環境」と身体が割り切ってしまうと、どんな場所であろうと(無自覚のまま)適応しようともがき始める。激務のため連日床で眠る職場だろうが、暴力当たり前の職場だろうが、2、3日もすると体が日常の異変に気づき、現在の異常な環境こそ「現在の日常」だと錯覚するからか、徐々に順応を始める。
 派生する箇所はいくつかあるが、例えば、身体が異常を発する何らかのサインに自分では気が付きにくいことにもつながるのだろうか。

 先々週に一旦ピリオドを打った「ボードゲーム動画クイズ制作」も、制作する間は、アイデアの出ないツラさを上回る「制作がなくなったとき、今後自分は何を続けたら良いのだろう」といった不安ばかりが先立った。
 小冊子制作に本腰を据えようと決めた翌朝は、まるで鉛のリストバンドを外したかのように、身体が宙に浮くほどの軽さを味わった。
「この何十何百キロ単位に及ぶ重圧を、自覚することなく(ややもすれば自覚することを自ずから避けていたのかもしれない)身にまとっていたのか」
と。
 今思い返しても、あの頃以上の情熱を注ぎ制作を持続できる自信は、当の自分自身にすら無い。


 苦しい状況は、いわば身体に重圧というリュックサックを担いで山道を登る状態だ。
 それを見ている周りは「なんて大変な思いをしているのか」と取られるかもしれない。
 リュックを担ぐ僕からすると、自分の想定した重さに比べたら「なんとかなるかな」程度にしか考えておらず、ツラいツラいと泣き言を吐きつつ、制限された行動の中に「自分でできること」を見つけられたときは、浮き立つ気持ちで満ちあふれた。

 もちろん今の苦しい状態を甘受するわけではない。先に触れたように、身体の発する異常サインは自分では気が付きにくいものだ。
 しかし、重さやツラさを抜けたその先には、自分の身に何かの形で筋肉がついてはいないだろうか。

 それは「レイアウトが上達した」「イラストが多少上手くなった」といった「自分でもなんとなく予測のできる部分」に留まらず、自分では気がつかなった影で支える部分の筋肉、精神面、生活スタイル、等々、言うなれば「自分の目が行き届かない部分」にこそ、本当の成長が見られるのではないか、これまでの拙い人生の中、そんな確信だけが僕の根底に潜んでいるようだ。

 草木の成長も、親戚の子供も、成長を見届ける側とは、四六時中成り行きを観察する側というより、むしろ「途切れ途切れに成長を窺う」側の人間だ。
 いつも目をかけているからこそ、ミリ単位の成長に目が届かない。一旦目を離すことで改めて成長を目にできるという、あくまで経験則だけれど、僕はそんな確信を持っている。

菜根譚 前集162項を引用したい

善を為すも其の益を見ざるは、草裡の東瓜の如し。
自ずから応に暗に長ずべし。
悪を為すも其の損を見ざるは、庭前の春雪の如し。
当に必ず潜かに消ゆべし。


善行をしても、その善い報果が目に見えないのは、たとえば草むらの中の瓜のようなものである。
それは人には見えないけれど、自然に生長して行く。
(これに対して)悪事を重ねてもその悪い結果が分からないのは、たとえば庭先に積もった春の雪のようなものである。
それは知らないうちにいつの間にか消えるように、必ずその身を亡ぼしてしまう結果になる。


 5月が終わりを迎え、徐々に開店を再開するカフェ・プレイスペース等のお知らせも目立つようになった。
 久方ぶりにご挨拶に伺った際、相手から
「だいぶ成長しましたね」
 という言葉をかけてもらえるよう、心も体も成熟しきった齢42歳の僕ではあるけれど、もうしばらくの間だけ頑張ろう、と、改めて誓うことにした。

 行き過ぎた無理・無茶だけには充分注意を払いながら、これからも少しずつ、少しずつ、前へ前へと向かいたいと願う。
「頑張りました!」と笑顔でお伝えできますように。



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