2017年6月29日木曜日

ボードゲームの「負ける美学」って何だろう

全く自慢にならないことではあるが、私はゲームが本当に弱い。
「ボ育て」で、大人が子ども相手に全力で相手をする、という姿を微笑ましく思う姿が見受けられるが、私の場合、子ども相手に全力で臨んでも、負けてしまうことが度々ある。
「この人本当に大人?」といった格闘ゲームの終了時に出てくる言葉を、リアルの子供から浴びせられることもしばしばある。
子ども相手でこうなのだから、ゲーム会やゲームカフェといった場で私がプレイするゲームなぞ言うに及ばず。
喫緊の対戦成績は実に4勝45敗。勝率は8.3%、打率だと0割8部3厘、野球選手ならすぐにでもトライアウトを考えるべきである。

しかし、私は最近考え方を変えるようになってきた。

今年1月に実施された第5回ボードゲーム川柳大賞(Table Games In The World主催)で、私の作品が見事入賞を果たしたわけだが、その作品がこれだ。

「こだわりは 昔は「勝ち」で 今は「価値」」

つい先日、「そもそも勝つことがいいことなのか」について自問自答する機会があった。
勝つことは単純に嬉しい。それはまがいもない事実だ。
その一方で、パスカルの著書「パンセ」にこんな言葉があるので引用する。

「我々を楽しませるのは戦いであって勝利ではない」
(神なき人間の惨めさ一三五)

私はゲームに負けてはいるが、それで気分の悪い思いこそすれ、実害として損益を被ったことはない。
これは本来「ゲームに勝ちたいというモチベーション」を持ち合わせている方からすれば、意外なことかもしれないし、「そんな枯れた考えで、ゲームなんかできるわけがない」と突っぱねられてしまうことなのかもしれない。

もちろん私だって、先述の通りゲームそのものには全力を尽くす。手を抜くなんてことは一切しない。死力を尽くして勝ちに行くし、負けが濃厚となった場合は一発逆転だって積極的に狙っていく。
少し他の方と違う点は「エンターテイナー役」としての立ち回りを重視する点ではないかと振り返る。

バラエティ番組のお笑い芸人の立ち位置、と称してしまうと語弊が生じるが、狙えるべきところできっちりと狙い、稼ぐべきところでちゃんと稼ぐ、そんなエンターティナーの側面を持ってこそ、次に「また明日あなたと一緒に遊びたい」と思ってくれるのではないか、と考えるからだ。
ちなみにこの言葉は、かの有名なカタンの作者クラウス・トイバーの言葉を引用している。

私自身、初めてのゲームでコテンパンにやられてしまったゲームを「負けて悔しいからリベンジ!」という気概で再度プレイしたくなるほど強い心など持ち合わせてなどいない。
そんな方は、きっと他のゲームで遊んでもアグレッシブな姿勢で臨めるだろうから、新規開拓をこちらが促してあげる必要性は薄めだろう。
負けたら単純に嫌になるだろうし、つまらなくもなる、嫌いにもなる、子ども達とゲームを触れ合う機会がある方ならばきっと共感していただけるはずだ。
だから、私の目指すべきところは、空気の張り付いた中で行うような真剣勝負とは別の、場の和んだ中で行われる和気あいあいとした雰囲気の醸造ではないかという結論に至った。

そのためならば、私は努力を厭わないことにした。

その一つの自分なりの回答が「真剣に負けを追求すること」である。
繰り返すが、決して「手を抜く」ことではない。

まず、各種攻略サイトや攻略記事を読むことを一切やめた。
ゲームの攻略法を知ってしまうと、それだけで初心者からすればアドバンテージとなってしまうからだ。

次に、苦手なゲームを積極的に遊ぶことにした。
得意なゲームは一応持参すれども、ゲーム会などでは、むしろ苦手とするゲームを積極的に遊ぶよう心がけている。

他にもいくつかあるが、こうまで「下手さ加減を追求」しても、やはりキャリアを重ねると、自然とゲームは上手くなってしまう。
だから、次はしばらくゲームから遠のいた上で、ゲーム的な勘を鈍らそうとまで画策している自分がいる。
そのうち自分は「最弱王」の称号を、ディアシュピールのかくて氏から奪取できる気がしてならない。

イギリスの文人政治家フィリップ・チェスターフィールドの言葉を引用して、締めの言葉としたい。

「人は、愛する人や尊敬する友人に対しては、自発的に相手を気遣い、喜ばせてあげようという気持ちが沸きたつものだ」
(書簡書「我が息子よ、君はどう生きるか」より)




2017年6月25日日曜日

ボードゲームにおけるハウスルールについての考察

誤解のないように書き出すが、私個人の意見として、ボードゲームの良い点の一つに「ルールを購入者が自由に改変できる点」が挙げられる、と思うわけである。

ハウスルールという言葉がある。
JELLY JELLY CAFFEEブログ内「ボードゲーム用語集まとめ」によると
「特定の場所やお店、団体などにのみ適用されるルールのことです。「日曜人狼のハウスルールとして、投票は全員同時に行います。」といった感じで使います。」と記載がなされている。
代表的な例を挙げると、カルカソンヌの草原抜きルールだろうか。
草原抜きルールに関し、提唱先のすごろくやでは「草原の要素を入れると、考えなければならないことが格段に増えるため、遊べる人を選んでしまいます」という断り書きを加えている。
これも立派なハウスルールの一つと言えるだろう。

(草原抜きルールの詳細、すごろくやブログ)
http://sgrk.blog53.fc2.com/blog-entry-841.html

好きなルール(ハウスルール)で遊ぶこと自体は、例えばデジタルゲームでも「コンフィグモード」などで多少の自由は利く、とも言えるのだろう。
しかし、ともすればバランスを大きく変えるに至るほど改変できる点、やはりアナログゲームにおける「ハウスルール」は独自のものと言えるかもしれない。
スポーツだって、軸となるルールが存在し、公式大会などではそれらを元にジャッジが判定されるわけだが、アナログゲームの場合、どうも場の雰囲気を読み取りながら「ここはこっちにしましょう」「今日は時間もないことですし、このルールにを採用しましょう」といった流れになる傾向にあるように見える。
無論、自分も然り、である。

手元を少しだけ見渡してみると、「ジュリアーノ王子の貢ぎ物(久遠堂)」の取扱説明書に「「こんなハウスルール考えてみたよ!」等、ツイッターやSNSなどでご報告いただけますと、とても嬉しいです」と記載を添えて提示していたり、「フリップオーバー(シロップゲームズ)」にも「トリックテイキングとサッカーが遊べますが、これからも遊べるルールを増やして発表していこうと思います。みんなも考えてみてね!」と記載があるなど確認することができた。

他にも、ハウスルールを推奨する本は、私の目についただけでもボードゲーム界隈には数多く存在する。

トーホクウィステリア 粒幸久著「ボードゲームのハウスルール集」
冬城あおい著「めいことボドゲ」
また中道裕大著「放課後さいころ倶楽部」内でも、インカの黄金等数々のハウスルールが使用されている。



(放課後さいころ倶楽部2巻より ※本来はカードを使用する場面で、この部分だけリメイク前の「ダイヤモンド」のルールを踏襲している)


ハウスルールの是非については、ツイッター上でも度々話題に上がるが、ハウスルールを採用する理由の一つとして、先に挙げたような「子供向けに」または「初めての方に」理解の容易性を追求する意味合いで改変することが多く見受けられる。またはその逆に、上級者向けの独自のヴァリアントルールなどもそうだと言えるだろう。

もちろん私自身、ハウスルールは元のルールが基盤として成立してこそ存在するものであり、それら本来の味を損なわないよう細心の注意を払わなければならない点、重々承知している。
滅多やたらとルールを改変し、持ち主独自の主観で勝手にルールを改変することがまかり通ってしまっては、ハウスルールの存在自体に嫌悪感を持つ人がいらっしゃるのも至極当然であるからだ。
上手い例えが見つからないが、料理のレシピサイトと「作ってみましたレポ」の関係ではないかと思慮する。
有名シェフの手により完成されたレシピ通りに調理することで、レシピ作成者の意図する本来の味を引き出すことができるというベクトルと、作ってみた、それを基軸にアレンジしてみました、を報告するベクトルが別なのだ、と。
また、提供される方(食べる方)も、「どうせなら一流シェフの味を再現したものが食べたい」「辛いものが苦手なのでそれを避けてほしい」「美味しけりゃ何でもいい」など意見も十人十色であり、どのハウスルールを採用すれば全てのプレイヤーに満足してもらえるか、といった問題はこの先も永遠に議論されるべき課題であることだろう。

さて、製作側が定めたルールとは別に用意された、いわば「当初の思惑とは別のハウスルール」が一般化する流れに、中には快く思わない製作者もいらっしゃるだろう。
そのルールを遊ぶことが、製作側の真意に通じることなのか、ひょっとすると「自分の作りたかったもの、提示したかったものと、周囲の求めるものとの乖離」に、少なからず苦しまれている方もいらっしゃるのではないだろうか。

お節介ではあるが、本稿の最後に、こんな言葉を紹介したい。

「人には、自分にとって不快で、これが私のやりたいことなのか?と疑うようなものを人から乞われ、しかもそれを進んでやらないといけない時期があります。
それは、本当につらいけれど、そうやって“外”と関わって、自分を表現し、またその反応を受けて進んでいく果てに、自分の表現したことへの理解者は生まれて、通じある可能性も生まれてきます。
そして通じ合った時、人との間に生まれてきた絆こそが、他の人とは取り替えのきかない、自分の居場所になるんだと思います」
(山田ズーニー著「大人の進路教室Lesson15 外と通じ合う力」より)

全ての製作者様に、小さなブログの片隅から、感謝の意を称します。

2017年6月5日月曜日

ディクシットが教えてくれる、ボードゲームの持つ仮想空間としての楽しみ

ディクシットが好きなのです。
初めて買った大箱のボードゲームがディクシットだったし、初めてのボードゲームオープン会で遊んだゲーム、しかも自分の持ち込みで、あまつさえ慣れない口調でインストまで披露したという、そんな記念に記念を重ねたボードゲームがディクシット、なのです。記念の部分は女子っぽく「アニバーサリー」と読んでください。

ゲーム自体、私はそんなに強くもありません。

美的センスも、そんなに良くはありません。

このゲームの良さを語る際、皆さんは「イラストの美麗さ」に触れることではないかと思います。

確かに、イラストを担当されたマリーキャドアさんをはじめとするプロのイラストレーターを見ておりますと、ボードゲームの枠を超えた、何か一枚のカードを繰り出す中で、あたかも博物館に鎮座しているような、あの日のネロ少年がカーテンを剥ぎ取ってでも見たかったというルーベンスの絵画を、お金を払わずに選別できているような、実に贅沢な、今風の言葉で「セレブリティ」な錯覚に陥る、そんなゲームであることは言うに及びません。

私の好きなボードゲーム系ポッドキャスト「ひよっこボードゲーム」の第一回放送分でも「ディクシット」の話題に触れておりました。
やはり「親プレイヤーを語り部と称する」などの雰囲気の重要性に触れ、かつ、インストの容易さについても触れていたことを覚えています。

こんな話があります。

私の好きなデジタルゲームの一つに「カルドセプト」があります。
ゲームの面白さ、バランス、音楽、コンピューターのほどよい難易度等もさることながら、やはりカードに秘められたイラストの美麗さと解説の詳しさに触れないわけにはいきません。

当時ファイナルファンタジーやドラクエ7、セガサターンではグランディアといった有名RPGが隆盛を誇っていた時代だったと記憶しております。
そんな中、突如として現れた異色のゲーム故、当初は手に取られる方も少なかった記憶もあります。
カードゲームをモチーフにしたゲームは当時も色々あったのです。
サクラ大戦でおなじみレッドカンパニーのアルカナストライクスですとか、ゲームボーイのカードヒーローもまだ現役だったはずです。
そんな折、突如として現れた極めて硬派なゲームがこのカルドセプトでした。マジックザギャザリングどころか、未だカードダスで遊ばれていた時代の話です。
そこでもカードのイラストレーターには加藤尚之先生をはじめとするイラストレーターの豪華顔ぶれが揃い踏みしておりました。
いえ、正確には、当時は名前こそ知らなかったものの、ゲームのイラストに此処までこだわったゲームが存在したのか、といった衝撃が当時の私の全身に走ったのです。
だって、CGもポリゴンも真新しい時代に、油絵のイラストを使用するゲームですよ?しかも可愛らしいドットもあり。

カルドセプトを語り始めますと夜明けまで語ってしまう危険性がありますので一旦留めておくと致しまして、要は「雰囲気」って実に大切な要素だな、と思うわけなのです。

ゲームをインストする際、私はなるべく簡単なストーリーを加えるようにしています。
例えば猫とネズミの大レースにしても
「ネズミたちは夢のチーズ王国に向けて出発しようとしていますが、それを聞きつけたイジワル猫さんがネズミさんたちを食べようと追っかけてきます。
皆さんはイジワル猫さんに追いつかれないように、ネズミさんたちをチーズの王国に進めてあげてくださいね」
といった具合です。すると、ゲームをプレイされる方が全員その世界の「住人」となることができるのです。

放課後さいころ倶楽部の中で、とあるキャラクターが、勝負を意識して、後方にいるネズミを見捨てる行動をとりますが、確かに、このゲームで勝ちを意識しますと、そういった行動に出てしまうきらいがあります。
致し方ありません。
でも、これが「ゲームの住人となって行動した場合」はどうでしょう。可愛い我が子を見捨てること、本当にできますか?

ボードゲームのボードを広げた瞬間、私の頭の中では仮想空間が広がります。
村の人生ではあたかもそこが自分の村の住人であるかのような、Q-JETですと近未来のレースゲームに本格的に参加しているかのような。
ディクシットを紐解きますと、おとぎ話の住人となり、語り部の紡ぐ世界へと導かれる、と、説明書には省略されておりましたが、どうやらそういった世界があるようですね。


故、飯野賢治氏はリアルサウンドの第2作目の遺作「霧のオルゴール」の宣伝文句の中において
「どんな美しい風景より、どんな綺麗なお姫さまより、その人の頭の中に流れる川が一番美しいものだと思っています」と語っています。
ディクシットは手札に加え、全員が一つのお題目に対し様々な種類のイラストカードを出すゲームが故、私の脳内の物語は幾十にも展開がなされています。
もちろん親である語り部が提示している回答はあるのですが、それとは別の、いわば「パラレルワールド」が私の中には確かに存在し、もしくは四次元世界のような、別の方が提示した「あ、そういう「水」もあるんだぁ」といった全く違う道を示される面白さ、加えて「寄り道もそれはそれで楽し」といったある種の哲学に浸る楽しさをも内在しているという、ディクシットの良さはそれら何重にも重ねられたパラレルワールドの中で、あたかも自分が紡ぐ「物語の心地よさ」に酔いしれる、そんな小悪魔のような魅力を秘めているのではないかと思うのです。

勝者が決まり、何処からか聞こえるゲームを終えた際の「あー終わったー!」という安堵の声と同時に、私は現実世界へと引き戻されるわけなのですが、その独特の心地よい疲労感は何事にも代えがたいものがあります。
ディクシット、ひいてはボードゲームそのものの魅力とはどうやらその辺りに隠されているのかな、と私は勘ぐったりしております。

パッケージにあります「一枚の絵は千の言葉に値する」その看板に偽りはなかった、と。
今度の拡張「レベレイション」(新世界)も後で購入することに致しましょうか。


下手な鉄砲

 数を出す、とにかく初回から外に出す、とは徒然草の一節だっただろうか。 技が上達する人はとにかく描いたら世に出すこと、上達しない人は完成してから出そうとしいつまでも出さない、といった文言だったはずだ。 以前、兼ねてから応援していた創作者から「完成形しか見たくない」との言葉を頂戴し...