2022年4月30日土曜日

踏み出す

 4月のほぼ毎日をこの日記ブログに充てる習慣をつけた。今日が4月最後、少しずつではあるが文章の形として気持ちを綴る練習になれば幸いだ。


ボードゲームクイズ会の予約を入れた。カフェの定期イベントと重なるからという理由で一回を勧められ、言われるがままテーブルを予約した。

どうなるかはわからないが、決まった箇所から手をつけ始め、糸がほつれるようにあれよあれよとことが進んだ感じだ。


「最初に手をつけたら、作業の半分は終わりだ」とは、ギリシャのソポクレスか誰かの言葉だったと思う。(調べない)

体が道に沿って進み、それを脳がサポートするような、だから最初の一歩目を特に大事にする。出来上がった形から、あとで反省すれば良いのだ。


4コマ4巻の発送も少しずつ開始した。今日が土曜日、発送業務が遅れることを見越した上で、先んじて発送することが狙いだ。


そして今回のおまけ漫画のテーマとなった、リハビリ中の大ちゃんにもこっそりと送付した。

書き手の自分を鼓舞するかのように、また書き物に勤しむ連休を迎える。負けるものか。

2022年4月29日金曜日

第一歩

 昨日のブログで「初心者の目線でできる強み」を書いた自分だったが、今日丸一日かけて作った動画クイズが底知れず高難度となってしまった。

新しい着眼の問題は多いものの、決して誇れる内容とは言えない。

それでも、動画クイズの一つの形態として、また、声を出さないクイズの最初のたたき台として、かなり完成された動画クイズができあがったと見れば、大成長とは言えるだろうか。


丸一日、テレビで見たクイズをできる限り忠実に再現する、そんな作業だ。

デザインの観点からすれば笑われて当然、決して大手を振って自慢できるものではない。

そんな想いはあれど、今は暇さえあれば作った動画を見返すほどお気に入りとなった。

以前ダイスの珠工房さんが「自分の好きな作品をお裾分けする感覚」と話されていた。

丸のまま同意はできなかったが、自分の好きなように創作するスタイルは心の底から尊敬できた。

同意できない、とは、やはりクイズというものが「解答者ありき」だから、自分の作ったものを相手に評価し、答えてもらわなければならないから。自分の好きなものだけデトックスするかのような創作も悪くはないはずだが、好きなものは相手に喜んでもらえるその「好きの先」が見えてこそではないか。と考えた。


明日で4月が終わり、次第に近づく名古屋の旅程。

周りは今日から始まった大型連休で、大いに羽を伸ばすツイートを見かける。


毎日作業、明日も作業

沈む気持ちは、明日の成功を夢みることでしか払拭できない。

だから今は頑張る時間なのだと自分に言い聞かせ、また夕方からお品書きを頑張ることにした。


目線が伸びること、その第一歩、そんな創作だ。

2022年4月28日木曜日

初心者の目線

しばらくぶりに クイズを勉強し、山のように存在する「問読み動画クイズ」をひたすら解き回っていた。

「初心者用ベタ問」

と称された問題が、どれも自分が勉強した当時(だから20年ほど前)の「上級者向け問題」ばかりだったことを気付かされた。

「視力検査で使うCのマークを何と呼ぶでしょう>答え ランドルト環」

など、クイズプレイヤーは増えつつあるのに、問題がさらに比例するかのように難易度が跳ね上がっている、それを「初心者ならこれくらいできて当然」と言わんばかりに、難易度の高い問題を出題する。


自分もボードゲーム「初心者向け問題」に苦労した人間だから気持ちはよくわかる。作っていくうちに自分の中でインフレする感じだ。バラエティ番組のおバカ解答者が、次第に知識を身につけ、ついに一般知識を身につけてしまう、あの感覚に近い。


先日「ボードゲームクイズ」と称されたクイズブログを堪能した。

率直な感想として、クイズというより試験問題を解かされている気持ちに苛まれた。観点はユニークだけれど、遊び心が少なく、本当に一問一答の知識を試されている感覚だ。

先に挙げた「出題する中のインフレ」と向き合い、目線を下げ、これでもかと視点を下へ下へと向けることで、良質の問題は出来上がる。

同時に、そんな良質の問題は、至って評価から外される。解く側からすれば、簡単な問題など軽すぎる鉄アレイのようなもので、退屈に過ぎず、つまらないと感じるのだろう。


4コマもそう。

初めての方に目線を合わせると、作る側の難しさとは対称的に、読む側の評価も刺激がなくつまらないと感じる。

初めての方の視点を下げる努力は実際に作らなけば実感できない。

声高に叫びたい気持ちをグッと抑えて、今日も自分は、初めての方の視点で頑張った。

初心者、未経験者の目線で作品を作る、作れることは、もはや一つの魅力なのではないか。

自分の作品も、そんな魅力を載せられたらと願う。


2022年4月27日水曜日

寂しさ

 101回目のプロポ…献血を済ませることができた。

正直、まだ体の疲れは癒やし切ってはいないのだが、それでも貢献できる部分は先に貢献したかった。名古屋までに少しでも徳をためておかなくてはならないと考えたのだ。


大好きなバーグのカレーを食べ、家に戻り、また作業を進めた。

いよいよ念願だった「ボードゲームカフェでのクイズ会」も、現実味を帯びてきた。

できるところから少しずつ、の精神で、ツイプラの形だけを整えた。


競争で初めての方がギスギスする雰囲気は好きではないので、自分でも楽しめるような、バラエティ色のあるクイズをあれこれ考えた。

問題はカフェの予約で、時間とテーブル、椅子を予約の際に入力必須とされるので、何人集まるか不明のクイズ会など予約を入れようにも入力ができない問題に直面した。

その辺りも、某ブログの人は考えていたのだろうか。


貢献したい気持ちと、その期待にそぐ得ない気持ちのすれ違いは、精神的にとてもつらい。

それは「相手に施しを」のお節介心が叶わないときの寂しさにも通じる。


寂しいといえば、今日また自分より数倍も有名な某ボードゲーム漫画家が、引退を仄めかす発言をしていた。


ボードゲームを題材とする漫画は、一時期に比べかなり落ち着いた。今も継続されるこけし氏、ディスカバリーゲームズのハム蔵氏、店舗で数えると「ばねこみっく」のごーちん氏らも続くが、そんな中、私だけが変わることなく淡々と続けている。


筆を置く姿を見ると、なんだかこちらに「もう描けるだけのネタは尽きた」と訴えられているようでとてもつらい。

まだ、まだその奥底に、水脈があるかもしれないのに。

そう信じながら、正しくは、自分に問いかけながら、今日も、そして明日からもまた4コマを綴ることに決めた。


あきらめてなるものか。

2022年4月26日火曜日

追随

今度の名古屋で頒布する予定の4コマ新刊が無事に到着した。

改めて数えると、この新刊で、ちょうど30冊目となる。総ページ数は1000ページを超え、作った問題は本にまとめただけで3000問オーバー。4コマもSNS更新分だけでもう900話を超えた。

クイズ本に始まり、4コマやエッセイ、パズルにレシピ本など、本当にさまざまな本を作ったもの。とはいえ、売上など完全に赤である。

他に追随する相手がいないからこそ、その凄さ、強さ、制作の辛さが伝わりにくいのかもしれない。

もっと自信を持て、とあるが、比較となる対象やライバルの存在もなく、周りの評価と自分自身の肌感覚だけを頼りに、無理やりモチベーションを上げた結果が今、だ。

積み上げたものの大きさを、この4月の時期は考える期間なのかもしれない。

何をしてきたのだろう

積み上がった作品の数が、そのまま力となり、知識となり、経験となるものだと、頭ではわかっているつもりでも、手にとるような実感が今ひとつ手にできない。


自慢話は好きではないが、明日もまたいつも通りに頑張る日となることが、少し悲しく、また、それだけのことだったと自分に虚しく投げかける。


このブログも、日々続けることで、何かしら周りが追随できない力が身についているはずだ。

ランニングも、献血も、何もかもそう。


明日はまた献血へ向かう。

そしてまた4コマを描く。

そうするうちに、あっという間に名古屋はやってくるのだろう。

2022年4月24日日曜日

やるせなさ

 何やかや迷った挙句、結局この日もゲームマーケットの二日目を参加することにした。

昼の1時ごろに到着し、並ぶことなくスムーズに入場、周りのサークルにご挨拶へと回った。


会場の密を避けるためサークル数は感染症前に比べ少ない。感染症禍でのゲームマーケットも3年が経過し、出展料の高さや体調の都合等やむない理由で参加を断念された方も多く見受けられた。

かくいう自分もその一人で、ゲームマーケット大阪の出展料が半分返ったとはいえ、春に出展できるだけの手持ちを用意するのは本当に怖かった。


少し戻って、昨夜の話。


再来週開催の「ボードゲーム楽市」のポスターを、いつもの柚プリントさんに発注した。いつもながら仕事が早く、注文後ものの1時間もかからず印刷、配送のメールが届いた。

柚プリントの根幹は「同人印刷が初めてでも対応できる印刷業者」だ。トンボや塗り足しなどの用語がわからなくても、画像を送ればそのまま印刷してもらえる。

その柚プリントさんも、本感染症禍の煽りを受け、現在は縮小体制での営業だ。


感染症憎し、と声を荒げても何の解決にもならない。それは承知している。承知してはいるのだが、この不況と感染症のダブルの煽りが、本当に愛されるお店や人を奪い去ったかと思うと重い気持ちになる。


悲しさ、厳しさ、それは自然の摂理のようなものと自分に言い聞かせ、それでもやるせ無い思いの消えない中、自分の胸に手を置き、また作業に戻ることにした。


厳しい最中で、どれだけもがくことができるか、目の前の購入品に、製作者の魂を感じ取りながら、またペンを走らせた。


2022年4月23日土曜日

格差

ゲームマーケットの参加を検討に検討し、結局「お手伝い」という形で向かうことにした。


当初「もし仮に大規模なクラスターが発生し、参加者全員が隔離処置を命ぜられた場合、名古屋のイベントすらも不参加となってしまうと考えたのだ。

お手伝いとはいえ参加する形をとった以上、体調に変化がなくとも参加を断念しなればならない。大きな賭けでもあった。


元来の出展料の高さもあって今回春のゲームマーケットは参加を諦めた。秋も値段が同じなら、当然出展はできそうにもない。

そんな重い面持ちの中、わずかな時間ながら会場内の空気を味わうことができたのは幸いだった。お声がけくださった珠工房の珠さんには深く感謝したい。


普段は出展側に立つ自分が、ほんのわずかな時間だけ会場内の購入に回った。

とはいえ、元々そう多くも手持ちがなかったため、欲しい作品は吟味を重ねることにした。具体的には、後日家電量販店に並びそうな作品や、のちのイベントでも入手の叶うと踏んだ作品は今日のところは後回しにすることにした。


周りを見ると、紙のポスターは思ったよりも少なく、タペストリーやサークル布といった、何度か使いまわせるような布シートをうまく活用したブースが目立ったように思える。

また、サークル単独の参加も見た感じだと以前よりグッと少なく、共同出店や共同ブース、中の人員をうまく回して交代で店番や休憩を取るなど工夫していた。


言うなれば、時流に合わせた紙のポスターを貼り、自分の作品を自分の手だけで販売する、といった、これまでの自分の動きとは真逆の動きとなっていたことに気がついた。


進化というのか、格差というのか、

貧乏オッサン一人というサークルが約5年もの間、ほぼ一人で作品を作り、一人でブースに立ち、感想も文章に綴り、広報もデザインも何もかもを一人で手がける時代では無くなったのかと思うと、急に足取りが重くなった。


落ち込んでばかりもいられないと思い、とりあえずご飯だけを済ませ、目の前のポスター入稿を済ませ、今夜は早めに休むことにした。


「頑張れば誰かが見てくれる」

その言葉を信じて、頑張るより今はない。

明日からもまた一人で頑張ることにする。

2022年4月22日金曜日

見えない箇所の評価

 高校時代、古文の勉強を当初甘く見ていた。

「同じ日本語だから、何とかなるでしょ」といった具合だ。後になって気がついたが、古文の問題の多くは単語を読み取らせることが出題の主で、それは大抵「現在の日本語をイメージすると誤答の選択肢を選ぶ」といった引っかけ問題の嵐だった。

「いとほし」を問う問題に「恋焦がれる」が入っているような感じだ。出題側は知識の無い解答者に「いとほし→愛おしい?」と誘導する感じだ。(正解は「気の毒だ」「かわいらしい」)


ゲームマーケット直前となり、出展各サークルの広報ツイートを目にするようになった。

デザイン担当、制作担当、など役割を分けるサークルは、どうしてもデザイン担当者の作成したツイートをコピペで使い回すようにも見える。本来ならTwitterの画面やお品書き用紙(A4版が主流)に即したレイアウトを組み立てるべきではあるが、先の「イラストなら同じでしょ」と甘く見ると、その抜けどころを見誤ってしまう。これはもちろんデザインセンスの皆無だった以前の自分がそうだったからだ。

孤高の番次郎書店は一人で何役もこなすことで製作費全体を浮かしている。デザインにイラストに、と、外部に発注しようものなら楽はできようともお金がいくらあっても足りない。

だからイラストもデザインも、一人で勉強し、一人で頑張るしかないのだ。

その上、見た目でその技量が伝わるイラストとは違い、デザイン、レイアウトに関しては見る側も「なぜかよくわからないけれど見やすい」といった、快適の原因が伝わりにくい点が上がる。

漫画もその通り、単に派手な色をつけたら目立つ、という訳にはいかない。


私は結局ゲームマーケット前日のこの日も、レイアウトの作業に明け暮れた。

目立たず、評価されず、それは20もいいねがつかなかった日々の4コマにもいえる。

決して周りから評価されることも応援されることもなく、黙って勉強し、見えない箇所の腕を上げる。

自分を騙し騙し、いつかは報われると信じて、モチベーションを維持する。


頑張りがいつか報われますよう。

2022年4月21日木曜日

自分のキャスを聞く

15分だけ思いの丈をしゃべるだけの ツイキャスライブが、すでに600話近く溜まった。

学生時代、そして社会人時代、偉い人がどれほどカッコ良い言葉を話そうと聞く時間は5分が限界だった。その反省を活かし、余計なことをなるべく喋らないよう、そして努めて明るく昇華しよう、と、それでも悲しい気分のときは自虐も重なるわけではあるが、継続できるようになった。

好きなことから、見えない相手に伝えたいこと、それを意識すると、自分の中の考えが整理される。好きなことを言葉で紡ぐうちに、自分の伝えたいことがだんだんと見えてくる。その過程に15分という縛りを設けなければ延々と思考の迷路にハマってしまうのだ。


ダラダラしゃべるだけのツイキャスライブやTwitterでのスペースは極力聞かない。それは聴く側に立った時の「まとまりは各人の脳内で」に集約される感覚が苦手だからだ。

相手と対面で会話しながら、気持ちを読んだり相槌を打ったり、とは違う、何か我慢のような、読みづらい場の空気を読む必要があるからだ。


それらを踏まえ、自分のキャスは自分で聞いて自分でも楽しめるように配慮されている。配信者の中には自分の声を極力嫌う人もいると聞くが、画面の向こうに自分の声を発する別の誰かがいる感覚はとても不思議で、トークに魅了されてもそれが自分自身という感覚が今ひとつシンクロしない。


だから、言葉遣いの荒い話し手や、横柄な態度のMCがどうしても聞くに堪えず、どれだけ有用な情報だったとしても、言葉を通した人間性のようなものが透けて見えるからか、即座に通知を切ってしまう。


言葉の一つとっても栄養であり、勉強である。

相手に伝えることを意識しなければ、言葉の紡ぐ川などすぐによどんでしまう。

今は比較的穏やかな心持ちだから、気持ちの面でも割とスッと整えられるのだろう。


こんな日は作業が捗るもの。夜からの集中力は計り知れなかった。

ゲームマーケットまで残すは1日、参加の是非は不明だが、自分も参加の立場に立ったつもりで明日も普通通り頑張ろうと思う。

努力は姿となって見えるはずである。


2022年4月20日水曜日

仕返ししない

昨日久しぶりに対面で会話したときの「(作品を)応援しています」の社交辞令が本当に胸をえぐられる思いがした。
普段何の言葉もかけてはいないでしょ、苦しみ溢れるツイートにねぎらいの言葉もないでしょ、と、ひねた気持ちしか生まれず、今日もまた余計なツイートが溢れた。
作業に没頭していない証拠であり、また、精神面も含めた体の不調のサインとも取れる。食費を浮かすために食事も控えているからか、頭がぼーっとしてアイデアも生まれてこない。

それでも作業のノルマは減るはずもなく、配送を終えた今の時期の制作サークルが「暇だー」とこぼすツイートを横目に、出展もしない自分がなぜこうまで苦しむのか、そればかりを考える1日だった。

苦しい最中、それでもどう気持ちを乗り越えたか、それは「苦しみたくない」立場の人間が興味本位で聞いてくるが、私自身も毎度苦しさを逃れるために必死でもがくうちになんとなく体が浮上してくることしか意識がないため、今を精一杯生きろとしかアドバイスができない。

体の疲労はピークに達し、昨日は「恒例行事だね」とバカにもされた。

苦しさに加え、悔しさと悲しさもまじり、今日の昼は泣きながらランニングを飛ばしたことを思い出した。

馬鹿にする人間に、何度となく言い返そうとした。その度に「悪いことをしても仕返ししない」という、山田ズーニーさんの言葉を思い返した。
「悪いことをされても、仕返ししない。これは注意ではなく、法則。悪いことをする人間は、必ずどこかで悪いことが帰って来るはずである。こちらから仕返しをするのは、やりすぎだ」
そんな言葉だった。

今の苦しみが果たして正しいのか、嘲笑い、社交辞令で返す相手の目線が正しいのか
それはもう天に任せるしか術がない。

今夜もツイート上のスペースは賑わいを見せている。
そんな中、孤独に一人眠る。
悔しさ悲しさを夢に混ぜ込むように、ひたすら眠ることにする。

2022年4月19日火曜日

型破りの中で

 ノスモスさんの個展に行ってきた。

昨年、一昨年と足を運んだ上で、さらに作品は進化を遂げていた。鮮やかな色をつけ、手に取りやすい作品から芸術的な作品に至るまで、幅広い作品が所狭しと並んでいた。

ノスモスさんが話してくれただろうか、着色は作品として冒険的なものだという話だ。

元々、木の焦がし方の濃淡で作品を表現するウッドバーニングの技法では、作品全体が奏でる「木の温もり」「作品の温かみ」が滲み出ていた。

そこから人工的に(色鉛筆の素材ではなく、ウッドバーニングが生み出せない色合い、という意味)着色する作業は、いわば歌舞伎の世界でいう「型破り」にあたる。

周りがギョッとする、そんな周りの声に抗うが如く、美しくしなやかな作品を創作された、それが今年の展示展で一番印象に残っていた。

コバルト色の小物ケースは、インディゴを思い浮かべるほどの鮮やかな色合いだ。それは木片を焦がす濃淡だけでは決して表現できない、まさに熟知された人間のなせる技だ。


そう考えると、周りの「できない」「無理だ」という言葉の薄さ、そしてそれを跳ね返す強靭な精神力、それをも超える自己の忍耐力、そんなことをぼんやりと感じた。


クイズに4コマに、私も周りの「無謀だ」「無茶だ」の声を一身に受け、それでも根気強く今も創作の手を緩めてはいない。

その中の一人が楽しんでもらえるならば、残りの資材を投げ打ってでも頑張ろうと願うのだ。


もうすぐ年は44となり、睨みを効かせた坊主頭はますます形相が悪くなる。

それでも、残り少ない人生の中、これほどまでに打ち込めるものが手にできただけでもありがたいではないか。周りの同世代は、なかなかそううまく行ってはいない。


相手との勝ち負けではなく、自分と真摯に向き合うだけの勝負を、また明日からも頑張ろうと思う。

今日は4コマも無事に300回を迎えたのだ。

2022年4月18日月曜日

3週間目

 日記やブログをつけてはやめ、と、何年か周期のタイミングでつけたりやめたりしている。20年前に苦しんだ時期の日記は今読み返しても恥ずかしいくらい支離滅裂な殴り書きが綴られてはいるが、大切な宝物として本棚に眠っている。

4コマもそう。勢い半分で「画力よりアイデア重視」を勝手に意味付け、飽きもせずほぼ毎日更新を続け、もうすぐ1000話、年内の300話ももうすぐとなる。

ペンを握る生活も長くなり、文字を書く生活以上に時間を圧迫するようになった。預金通帳を眺めてはいつ途絶えるかの不安に怯え、それでも手を動かしながら、目の前の今に全力を傾注する、そんな自転車操業の生活だ。


先日の神保町リブレストさんは、すぐに有名フォロワーが店長として勤めることとなった。

見ている人は見ているのか、と、遠目に眺めながら、そして自分もそうありたいと願いながら、半ば希望のような形でまたクイズ制作を続けることにした。

昨年末からコツコツと作り続けたボードゲームの問題も100問を超えた。

同じボードゲームの説明書を繰り返し読む作業は苦痛以外の何者でもない。

そこからさらに別の観点を見出せるか否か、長くボードゲームの問題制作を続けた自分との戦いに入った。

ほぼ暗記できるまで読んだウボンゴ、ボブジテン、ラブレター、ブロックス、UNOなど有名ボードゲームの説明書だ。まだどこかに眠っているはずと信じて、ゲーム本編そっちのけでひたすら説明書を読み耽る。

そんな姿も、誰か見知らぬ誰かに見られているのだろうか。


イラストもクイズも実力不足を否めない

雨が降り、気持ちも低下する中、それでも前に進む原動力だけは空にしない様、これからもまた頑張ろう。

日記は当初の目標となる3週間連続更新を遂げた。ここからさらに習慣化し、自分の体の血肉にしたいと願う。

2022年4月17日日曜日

体の声に

 夢は言葉に出すもの、と言われている。

それは言葉に出して周りに聞いてもらうことで、周りの目を気にし、自ずと体が動くようになるから、と聞いたことがある。

決意表明、のようなものだろうか。


先日から、「ボードゲームカフェでボードゲーム限定クイズ会」の夢を動かし始めた。

お世話になるコロコロ堂に出向き、ゲーム会がしたい旨を店長に伝えた。

どうなるかはわからないが、そのための問題も作り始めた。


帝国の本を作り始めた。

挿絵を描き、もうあとワンアクセントで完成という領域に達している。


自分の場合、どうやら言葉にすることで、自分自身に言い訳をつけないよう動くようだ。

チラシもそうだし、4コマもそうだ。

宣言するまでもなく、体がどこかで「聞いて」いるのだろう。

その声の指示に従い、時に無理をしながら、それでも体の声に忠実に動いている。


楽しい、楽しくない、そんな考え方の先にある「体が動く感覚」こそ、楽しみの根源ではないかと考えた。

先ほどのキャスで、リスナーに「30過ぎてから本当に楽しみが仕事しか無くなった」と嘆く人間を数多く見てきた、と話した。

その人間の娯楽が「部下をいじること」だったので、よく覚えている。

対人の交わりが、他人を貶すことでしか無くなったような年上などごまんとツイート上にいる。

自分の手を動かしながら、創作に楽しみが見出せる自分は幸せなのかもしれない。

もっと体の声に忠実にならなくては。

そんなことを、クイズ予選の最中に考えた。

2022年4月16日土曜日

瓜田の瓜

 自虐的な話となるが、占いによると、運気が低迷している時間は行動を起こさずひたすらうちにこもって勉強などを行う期間とあった。

運気が開けたときに、外へ出て、その幸運を享受するのだとか。

その辺りを勘違いしており、運気低迷時期は何をやっても無駄だからなるべく行動を最小限に抑え、また、運気が好調の時は何をやってもうまくいくため、創作物もかなり捗る、的な解釈をしていた。迂闊であった。

4コマを始めたのはちょうど運気低迷中の、数え年で大厄となる時期(数え年で42歳)だった。そこからひたすら描き進めた漫画が、もうすぐ300話を迎える。


周りの人気4コマ作家はきょうもたくさんの反応を見せていた。私は私で、20もいいねがつかず、相変わらずのほほんと更新を進めていた。仕方のない話だが、これも実力なのである。


側から見るに、私と同時期にツイート漫画を賑わせた他の漫画家をあたってみると、筆を置いたり、漫画からは離れたり、そんな作者が目立つ。

そんな中、飽きることなく数だけをこなす自分は、もう周りから称賛の目を浴びることもないだろう。

新聞掲載の4コマを誰も称賛しない、あの現象に似ている。

これも自分の選んだ道だと言い聞かせながら、いつ手を引くべきかを考え、そしてまた連載を続けることにしている。


糸井重里さんだったかと思う。「人間は新しいものが好き」「古いものに「あれは古いね」というようならば、その人の価値観が終わってしまう」という言葉だ。

私は周りの漫画の比較対象となる、いわば学校生活でいじめや無視を決め込まれた存在に近い。

そんなあまり周りから目も向けられない中、次へ次へと筆をすすめることにする。

菜根譚の瓜のエピソードを引用して、自分を励ますことにする。

瓜田の瓜は、毎日眺めてもその成長がわからない、ある日ふと足元に目をやった時、その瓜の大きさに気がつくものである。



2022年4月15日金曜日

いつかの勉強

サークル「番次郎」から続く現在の「番次郎書店」に至るまで、一貫して「上位互換ができたら手を引こう」と考えている。

立ち上げ当時からクイズノック、カプリティオ、など本格派クイズをエンターテイメントとして提供する大手企業・サークルはかなり多かった。

そんな中、ボードゲームのクイズだけで優に何千門単位となり、書籍として発表した数だけでも3000問を超えるだけの「ボードゲームに特化したクイズ」だけを作り続けた私だ。今もって後釜どころか追随する相手もいない。

嬉しいとか驕ったとか、その真逆で、悲しいのである。

たしかに一時期本当に手が止まったことがある。今もまだスムーズな問題制作などできない。そんな中、周りを見てボードゲームのクイズを検索しようにも、思うような制作者が見つからない。

海外を見ても未だ根強いモノポリーにバックギャモンの問題、国内動画製作者も、少し問題を作っては、止まる、といった状況だ。

思うに、ボードゲームに特化した形の問題が制作しづらく、数多ある動画企画の中で、とにかく良質な問題をたくさん制作しなければならない制作者にとって、余計な時間を取る「クイズの企画」は、すぐに立ち消えとなるのだろう。

とはいえ、依頼されることもないので、その辺りに楽しさを見出すことより、他の楽しいことへと目を向けられたのだと考える。


自分は、もちろん淡々と答える早押し型のボードゲームクイズも好きだが、問題に答える行為そのものが好きなので、画像を駆使したり、音声やひらめき、などなど、あらゆる材料をクイズへと昇華できるよう創意工夫している。

初めの話に戻り、そのうち自分一人で悪戦苦闘するクイズ制作も、企業が蹂躙すればすぐに消えてしまうだろう。

それまでに、勉強、そして、世界唯一を自称できるまでクイズを作り続けようと思う。

大手がやってきたとき、初めて「解答側」へと回る。それまではひたすら勉強あるのみ。

2022年4月14日木曜日

広報のすがた

 感染症開けやらぬゲームマーケット2022春、当番次郎書店は開催費の高騰から出展を見送ったわけだが、出展作品は一通りチェックしているつもりだ。「オススメ教えて」でツリーをぶら下げると、どうもそちらの作品に引っ張られる感じがして、無碍に断ることのできない自分はどうも苦手なのだ。


その大切な広報を眺めているうちに、なんとなく経験者との「差」があるように感じる。

初参加を含む「どう広報して良いかわからないサークル」は、ひたすらSNS中心の広報をおこなっているように感じる。カードの説明やルール動画、先の「オススメ教えてツイート」や「ユーチューバーVtuberがオススメを紹介します動画」など、そしてゲームマーケット公式のブログもそれに併せて更新するような感じだ。

何度も出展を経験するサークルは、Twitterでの広報のほか、ボドゲーマへの予約登録やゲーム説明、そして直接対面でルールを伝えられる各種試遊会などを活用しているように見える。

昨夜人伝で聞いた「チラシの直接手渡しは厳禁」などに対しても、柔軟に「次はこうしよう」が生まれているように見える。


経験との差は、そんな体感で覚えた「次の手」がどう打てるのか、なのかとぼんやり見ている。


以前「広報してもらえるか否かは、恋人を待つ姿に似ている」と考えたことがある。

内面や外面などひたすら自分を磨くことで相手に見てもらおうとする姿、あるいは、手当たり次第に多くの人間に声をかけ、自分をきっちり見てもらうよう頼む姿、をそう捉えたのだろう。

何が正しいのか、そして、自分に何ができるのか。今もまだつかめない。

ただ、その先に「信頼」があることが大切なのでは、と、ぼんやり考えた。

自分もその「期待を裏切らない信頼感」を醸成するために、以降も頑張ろうと誓う。

2022年4月13日水曜日

気楽に、気楽に

 お昼に髪を切り、こたつ布団を干した。天気はまた下り坂と聞き、今のうちにできるところから片付けようと思い立ったのだ。

髪も薄いので2ミリの坊主頭だ。何を着ても似合わない。鏡の前ではオッサンの坊主頭が映る。色気付いてはろくに創作もできないと思い、自ら薄気味の悪い姿へと変貌する、それは二十代の頃の仕事によく似ていた。

少しずつ作業を進め、進んだか進んでいないかの業務をこなす。ボードゲームのクイズを作り、また楽しめるよう雑事をこなす。

朝のツイキャスライブで、中野さんの「店を畳んだら、また好きなように生きるさ」といった言葉が胸をえぐり、自分も心配事はそれくらい気楽な気持ちで望めたらと誓うことにした。


周りの有名サークルはこの春も数多くの作品に名前を馳せている。日本クリエイターの看板を背負ってか、末広がりのように各所へ名前が飛び火する。

そんな中の自分は、立ち返ると、惨めにも思える。

それも、今できることがこなされていないからではないか、できあがった形で、評価のフィールドへと上がるべきではないか、

目の前に積まれた製作中のチラシを横目に、また重い体を上げた。これを書いたら、またポスターの手直しをしなくては。

2022年4月12日火曜日

愚痴を吐く居場所

 たくさんフォロワーが欲しい、と、Twitterを使った初期にはそんな気持ちに苛まれるものだ。

でも、その集まったフォロワーで、何をしたい?

作品を多くの人の目に見てもらう、応援するツイートをさらに多くの人に見てもらえるよう応援する。なら理解もできる。

フォロワーが多い後ろ盾を、好き放題持論を並べ、同調意見を募ることに向けてはいないか?

幼い頃からテレビに向かってぶつぶつ喋る大人が苦手だった。いざ自分が大人になったときにその気持ちを理解できた。そしてそれを意識しなければ、自分も同じ過ちを繰り返しそうだったと気がついた。

テレビの前で意見に異を唱えたい時、思わず同調したくなる時、画面の前にあたかも「存在しない誰か」がいる世界に入ってしまう。

「存在しない」ので、こちらの声は届かない。けれど、相手の笑いや悲しみを一緒になって楽しむ「誰か」が存在する。

ぶつぶつ口に出るのも、その届かない誰かに自分の気持ちを伝えたくなる気持ちに似ているのではないか。

不思議と読書ではこれが起こりにくい。目の前の活字にありありと人を思い浮かべるためには、それ相応の想像力を必要とするからだろうか、詳細はよくわからない。

話を戻すと、せっかく多くのフォロワーができたのに、自分の勝手な愚痴を吐き、世間に対する気持ちを次々に綴る、ボードゲーム関連のそんなツイートを見かけるようになった。

おーい!君の制作はそこにはないぞー!

作品を楽しみにされるフォロワーのためにも、ちゃんと自分の「居場所」について考えようや。

2022年4月11日月曜日

実るほど

16の誕生日から続けてきた献血が、今日で無事に100回目を迎えた。

体に気を遣ったおかげで今日も時間のかかる血小板成分献血をお願いできた。


何気なく目を通したボードゲームカフェ運営者のブログで考えたことがある。

「本当にイヤなこと」は、本当にやりたくないタイミングで押し寄せるのではないか。

ブログ内では他人に頭を下げてお願いすることが苦手だとあったが、一方で尊敬する名古屋バネストの中野店長は「頭くらい下げますよ」の姿勢をとっていらっしゃった。

半沢直樹でも上役が頭を下げる(作中で土下座する行為)を本当に屈辱じみた行為として描いているが、実るほど首を垂れる稲穂かな。の言葉にあるよう、自分より年上の人間にも、言い訳をつけ、憮然とした態度を取り、あからさまに報復と言わんばかりの行為で仕返しをする、そんな人間をまま見かける。


あれこれ書いたり消したりを繰り返しながら、言葉を選び、このブログも綴っている。

最終的には「自分もちゃんとごめんなさいの言える大人」になりたいと、その言葉に集約されるように思えた。


体を気遣い、今日は早めに休むことにしよう。




2022年4月10日日曜日

そんな生き方

 「(今年)4月でボードゲーム制作をやめます」「理由は、ボードゲーム制作では収入を得るのが難しいと分かったからです」「ゲームを作り、ゲームマーケットに参加し、Illustratorの使い方がわかったことが収穫でした」

そんな旨の言葉が綴られた、若いクリエイターのツイートを発見した。BooTHにはボードゲームのクイズ本も合ったが、私自身の制作する本より高価(それでも1500円くらい)かつボリュームもかなり薄かったので応援購入はできなかった。


色々な捉え方ができると思うが、私は「制作の喜びをお金第一に見ると、そうなるだろうね」と考えてしまった。自分もまったく利益がない部類の、いわば「負け組」の部類に入る自分が、である。我ながら飛んだお笑い種だ。


先日、秋葉原ロール&ロールステーションが来月5月末で閉店すると発表された。

閉店を悲しむ声の中には、最近の傾向で必ず「そう思うなら閉店前に行ってあげればよかったのに」の声も混じるように見えた。

昨年、一昨年のコロナ禍で、経営の苦しさをすぐに声で表明し募金を集めるお店は、現在もちゃんと残って営業を続けている。一方で、苦渋しながらも決して表立って根を上げず、最後にパタリと閉じたお店は、たしかにその行方もわからないままも多いが、先日の「神保町リブレスト」に見えるように、助け舟を出す人間が現れた。

真っ直ぐな生き方、考え方は人の心を動かすことを学ぶ一コマだった。


先日の藤子不二雄A先生も「なんとかなる」生き方を提唱された。水木しげる先生も、吉本ばなな先生も、そんな「深く考えない生き方」を口にされる。言うは易く行うは難し、ではあるが、自分も決して笑って見ている側ではない。


自分にできることは、目の前のことに全力を注ぐことだけだ。それがどれだけ多くの人の心を動かすか。日常漫画を綴る中で、マニアに向けたクイズを作る中で、もうしばらく考えたいと思う。


2022年4月9日土曜日

ちょっと告知の話

 売れる、売れないの話は苦手だが、少し考えたことがあった。


ゲームマーケット初参加のとあるサークルに「120部初回限定生産」とあり、120部も初回で売れるのか?と疑問に思った。

それはボードゲームを求めて多くの人が集まるイベントだから、というより、むしろ同人誌印刷のような「小部数でも依頼できる印刷所」が少ないからではないかと考えた。ちょっと調べると、案の定ロット単位で100部、200部から、と、かなりの数量の言葉が並ぶ。


それはそれとして、自分の本など、100部なんて到底届かない初回部数を印刷し、イベントへと持参する。委託できる環境がないわけではないが、イベントで直接販売できることを望む自分たっての希望で(そうそう委託先もないわけではあるが)通信販売を主体に移すこととなった。

そして午前中にふと、昔「万屋楽団のそれなりな日々」のゲスト回で自分が話したことを思い出した。

一般書籍だと5万部売れたら大ヒット、1日に10冊も売れようなら、その本は大ヒット御礼なのだ、と。そんな旨の話だ。

ゲームマーケットをものさしとするか、一般書籍の事情をものさしとするか、その尺度(見方)で、捉え方は大きく変化する。

初回部数は予約数の1.5〜2倍、の話も今や昔話。Twitter経由での告知も誰かのリプライに繋げたり、動画やブログでまとめる主に依頼することが主体となるように思える。かつて、たくさんの注目作をブログに上げたうらまこ氏や、大半の作品にノットフォーミーをつけることが恒例となったシミーズ氏、カタログ全文読みツイキャスライブを恒例とした「いからじ」のいか氏、そして同業他社(他者)の存在で今年春は今も行う旨の見えないりかち氏など、少し前まで(評価の程度はどうあれ)個人が紹介する媒体はもっと多岐に渡ったはずだ。


昔は良かった、という話ではなく、時代は移り変わること、昔のようなスタイルに固執せず、今のやり方に倣い、また、今のやり方に不満があるならば別のやり方で、刻一刻と宣伝も考えなければならないと考えた。


そんな中、私は今も各店舗を周り、お店の方に直接作品の魅力を伝える、言うなれば富山の薬売りのスタイルで広報を続けている。

すごく古いやり方だとは承知している。

それが、相手の顔を見てモノを売る、自分に合っているというだけの話なのだ。


2022年4月8日金曜日

売れない本が

 改めて数を数えたところ、次に出す予定の小冊子「ボードゲーム帝国」で、節目の30冊を迎える。

2017年ゲームマーケット秋にクイズ本を頒布して以来、実に4年と半年、54ヶ月で30冊なので約2ヶ月に一冊以下の計算だ。よくもまあ飽きずに作ったものだ。

加えて、これらの本が大手を振って各種マスコミ等に紹介されたことなど、自分の覚えている限りで一度もなかったのではないか。

売れない本を飽きずに作る、モチベーションの有無を問われたこともあるが、理由は簡単で、今日の目を浴びずに終わった本も、次は脚光を浴びるかもしれない、そんな一縷の望みを綴り本を作っているからだ。制作全体で見れば赤字も赤字大赤字である。

そんな中ではあるが、いつの頃からか「前の本の焼き直しは作らない」と誓った。

根本はデザインの師からの助言だっただろうか。それを本当に、馬鹿みたいに忠実に守った。僅かながらの売り上げはデザイン・イラストの技術書に消え、それを次に繁栄させることを目標とした。以前も書いたが、自分のライバルは「前の新刊」だった。

今回4コマ4巻もそうだが、書き上げたあとは「これ以上どこを手直しすれば良いのか」と思えるほど各種の細工を加えた。だから実際に締め切りを目にするまで、作品の絵姿がはっきりしない。山を切り崩すように、少しずつ、できるところから手を加えていき、最後は根性や情熱といったメンタル面との戦いとなる。妥協したところで終わり、である。


ボードゲーム漫画がここ数ヶ月で本当に増え、以前のような「更新を続けるのが自分だけ」の状態からは幾分脱出できたのかもしれない。それはもちろん自作の広報を兼ねたものが主体とはなるが、ボードゲームの人気キャラクターが愛くるしく動く姿は、それだけでもタイムラインを明るく活況する。

自分の作品は相変わらず平常運転を続ける。特段伸びることもなく、そして、特段下がることも最近は無くなった。それでもどんぐりの背比べと言われたらそれまでだが、その少しの数だけが、何よりも制作意欲を次へと運ぶモチベーションとなっている。


4コマはもうすぐ300話、356話を迎えるとTwitter更新のトータル1000話、291話目となる現在は935話だ。残すは65話。遠かった千里の道も半分がようやく過ぎ、とはいえ、今もまだネタに苦しむ毎日だ。

もうしばらく、もうあと少しだけ、ボードゲーム漫画としては観測する限り前人未到となる夢の4桁まで、体だけは崩さないよう、そして、変に考え込まず、どんな形でも更新を第一に綴ることを目標に、明日も頑張ろうと誓う。


2022年4月7日木曜日

最終回にまつわる話

 最終回のハッシュタグがあったので、手前味噌ながら、自分の4コマについて語ってみたいと思う。

前作「ボドびよ。きょうもボドびより。」は、普通に「次もあるでしょ」のような最終話を迎えた。これは自分が湿っぽい展開をよしとしたくなかったこと、加えて、心を揺さぶる展開の漫画ではなかったため、そのポリシーを貫くことにしたこと、最終回という言葉のイメージがあまりに大きいため、どんな形でエンディングを描いても悲観的に受け止められることを察したのだ。

「ByeBye!」と手を振る一コマをリプライで繋げることが、自分の考える自分の漫画の最終回っぽい展開だった。それはそれで自分で満足できた。


そして現在も続く4コマ「かみとさいころ」も、ある日ふと「最終回を事前に描いてしまおう」と考えた。

この作品ではキャラクターの個性を引き立たせるため、性格から考え方まで細かく設定を作った。

だからこそ、最終回の余韻を残せるようにしたかった。がしかし、それだとどうしても「日常4コマを描きたい」という自分の主軸から離れてしまう。

そこで小冊子2巻という早い段階で、あらかじめ最終回を綴ることにした。言葉は悪いが「生前葬」のようなもので、何かあって更新が止まってしまったときに用意された締めくくりの形であると同時に、読み手が「もう最終回は読み終わった」前提の安心感から、いつ終わるともしれない作品を好きに読むことができると考えた。私自身の創作スタイルに関しても、最終回の展開を気にせず、好きに描ける安心感が役立っていると思っている。


これは珍遊記などの狙った作品でなければ、かなり規格外の作品であることは承知だ。本4巻目でも商業誌では見かけないかなりチャレンジャブルなおまけ漫画を綴っている。

創作は手を動かさなければ生まれない。自分の中に眠る創作のタネを、どんどん掘り起こし、自分と対峙する中で作品を生み出す、目先の流行やスタイルに安易に乗らず、自分を信じて手を動かす。

それが今の自分に課せられた使命ではないかと信じる。

同日、「なんとかなるさ」の生き方を啓蒙する藤子不二雄A先生が他界された。合掌。

2022年4月6日水曜日

商売道具

 真夜中熱と寒気にうなされ、ついに耐えきれず解熱鎮痛剤を飲み、症状は落ち着いた。

昨夜うなされながら書いたnoteの紹介記事も、それなりに評判があるようで嬉しかった。私にとっていいねが2つもつけば大満足なのである。

名古屋のイベントで気づいたことがある。

あれだけ「ボ育て」「ボードゲーム教育」と声高に叫ぶ団体が、名古屋のイベントにまったく姿を見せないのだ。期間はゴールデンウィークだというのに、だ。

もう一つ、「ボ育てTシャツ」を販売する某サークル主は、堂々と若手クリエイターを名乗っている。結婚どころか学生なのである。

そうなると、この「ボ育て」という言葉が一人歩きし、都合の良い商売の道具に代わってしまったようにも映ってしまう。

本当に勉強できる子どもにしたいのであれば読書させたり珠算させたりも良いはずだ。昔に比べ(任天堂の影響かもしれない)デジタルゲームのコミュニケーションも整ってきている。ボードゲームを一過性の商売道具にしたいと私は思わないので、そんな「なんでもお金に見える」人間がどうしても好きになれない。

最近書く本が刺激のある言葉の本だからか、注意を払わなければ少し発言が過激になってしまう。明日はまた作業に没頭したいと思う。

2022年4月5日火曜日

お節介

 3度目となるワクチン接種のため、念を入れて4コマを休むことにした。代わりの時間はひたすらボードゲーム帝国の原稿を書いていた。

3度目さらに平日ということもあり、想像したほどの空き具合だった。ワクチンを打ち、多めのご飯を入れ、休む間もなく作業に移った。

副反応からくる気だるさで昼間はぐでぇと横になったが、慌てて名古屋ボードゲーム楽市のサークル紹介記事を書き上げた。無理せず明日にかけて書く予定だったが、勢いのまま体にムチを打ちつつ一気に仕上げた。


あまり良いバイタリティではないが、今はTwitterで調べる作業すら行う人間も稀となった。本を読むわけでもなく、手元に「おすすめある?」と聞いて周りの反応をもらう、ちらほら見かけるのはそんなスタイルだ。

それを常態とする人からすれば、何千字と綴る全サークル紹介など無駄な努力に見えて当然だ。

「自分もやる気があればやりたかった(けれどめんどうだった)」

そう考えたとき、脳はそれをあたかも「自分がやった」ことへのフォルダに振り分けてしまうらしい。


副反応と格闘しながら、長く長く綴ったノート記事だが、有り難がられるかと言われたら、褒められるどころか、「余計なことするな!」と叱られて当然だろう。

他のイベントでも似たようなことを経験し、似たような言葉を投げかけられた。もうそのイベントに進んで出展することなどないだろうが、時代なのか、楽しみの違いなのか、とても悲しい思いをした昨年の出来事だ。


気だるさが残る中、この作業で唯一得られる「自己満足」の高さだけが、シビれる体のなかで湧き上がっていた。

同じことは、お金を積んだ誰かがきっと行うかもしれない。

その商売の機会を私は奪ったことになる。決して善行ではない。

悲しいけれど、自分にそう言い聞かせ、自分はまた明日から通常通りの動きに戻ることにした。

来週は100回目の献血に向かう。

2022年4月4日月曜日

他人に頼らない不安と自信

 昨夜眠りながら、夏に向けた新刊のアイデアを練っていた。

ゲームマーケットカタログ2022春の角刈書店さんのインタビューで「自分の欲しいもの」という言葉が引っかかった。自分が読みたくなる本、それは大枚を叩いても欲しい一冊であり、自分が動かなければ決して世に生み出せない作品である。


言うが早いか、早速データをプロットし、少しずつ夏新刊「ボードゲーム帝国」の単行本の制作を立ち上げた。あと1ヶ月でどこまでできるのだろう。


北海道やゲムマ春の購入は、手持ちの資金の関係で「必ず買います!」と宣言できない。

そうなると「こいつをいくら振っても金は出さない」と判断されたのか、サークルの方からも次第に去っていく。

悲しいけれど、応援応援と声高に叫んでも「飯にならない声のどこが嬉しいのか」と投げかけられる、それが現実であり、誰かが「金が人間関係を選別する」と話した言葉の通りになっているようだ。芥川龍之介の「杜子春」冒頭にもそんな物語があっただろうか。

もう一つ、若い製作者が「ボードゲーム問題集」なるドリルのようなものを春に頒布されることがわかった。ここではクリエイターなどを紹介しないし、私の作品と比較することもしない。1年以上頑張って練り上げた本の単価のほぼ倍額を提示するそのドリルも、適正だと思う人が手に取れば良いだけの話だ。

私は少ない額かもしれないけれど、手に取った方が満足されるような、そんな作品を目指したい。

「値段が安いと甘く見られる」は、ネット上でよく見かける言葉ではあるが、私は最近になってその言葉に疑問符を投げかけるようになった。

詳しくはまだ頭の中でまとまりきれないけれど、安い価値の中に、無限の楽しみが眠っているのであれば、その次につながるのではないかと考えているからだ。

それは4コマも、当日の動画クイズも然り、安いことを馬鹿にすることなどできないし、それは逆の目線、高いだけの楽しみを提供できる自信があるか否か、で、考えるべきではないかと最近は思うようになった。

答えはわからないが、自分は自分のポリシーで頑張ろうと思う。そういえばちょうど、ポスターの宣伝文を募集で呼びかけるツイートにも疑問を呈したばかりだった。


2022年4月3日日曜日

愚痴とお金と大人の話

昨日の入稿の余韻に浸る間も無く、今日も4コマを描き、クイズを作り、と、 あれこれ作業をこなすうちに1日はあっという間に消えた。

今日は千葉ボドゲーン万博の出展通知も届き、喜び勇んで出展料を入金し、時間のない中でサークルカットを提出した。

カッコつけて「出展料の返金は求めない」にチェックを入れたことを少しだけ後悔しながら、金は天下の回り物と言い聞かせた。誰かのために使う金は、巡り巡って自分に帰ってくる、これは特に金周りでうるさかった母親を見るうちに自分の心の中でまとまった言葉だ。


周りは、結婚報告あり、海外出展あり、など嬉しい報告がひしめいている。いずれも自分の目線から「これまでの努力が報われた方ばかり」だ。老若男女問わず、毎度平気で愚痴を吐き、他人のツイートにケチをつける人間は今日も変わらず愚痴を吐いていた。見ないように気を遣っても目に入ってしまうものだ。反面教師として受け入れる。

悪いことの圧が強すぎるために、悪い言葉が外に出てしまうと、こちらの意図せぬままに増幅されてしまう。

バネストの中野店長は「ネガティブ100倍返し」の言葉で自分を諌めていた。自分もなるべく胸の内に秘めて、別の形で発散したいと思う。

悪いことを思うまでは全員がフラットなのだ。そこからどう発散するか、我慢できず見境なく相手にぶつけるか、駄々っ子ではあるまいし、その辺りのコントロールができてこそ大人なのではないか。

「ローカル女子の遠吠え」(瀬戸内みずき著)にも、不満を少しずつ吐き出す女性を「おっとなー」と揶揄する場面があった。私の目指す大人像も、淡々と怒りを表現する人間がある。

我慢のしどころを、もうしばらく考えたいと思う。それが作品や品格に、ひいては、戻ってくるはずのお金や人徳に、直接影響があることを実感しながら。

2022年4月2日土曜日

夜明け前が一番暗い

 二日ほど早く、4コマ新刊の入稿を終えた。

直前のチェックでスペルミスによる刷り直しなどドタバタはあったものの、数十冊も作るとかなり手慣れてくる。5年前のクイズ本は午後2時に初めて終わったのが深夜12時を回った頃だ。


先日から夜が怖くなった。

真っ暗闇、布団の中で、夢とうつつの境目にいる自分は、この先の生活をどうするかといった不安に駆られた。

大志を抱け、夢を見よう、と人は言うが、楽しむべき夢が悪夢ばかりでは流石に疲弊してしまう。眠りに見切りをつけ、そそくさと現実の作業に移る。

作業をしながら、手を動かしながら、悪夢を振り払うように手を動かす。4コマを描き、本を読み、ノウハウを勉強する、そのひとつひとつが、夢ではなく現実に自分がいることを教えてくれる。

夢を見るのは(記憶のある夢、のニュアンス)たいていが夜明け前、一番暗く、一番冷え込む時間帯だ。そしてすぐに日が明るくなる。

つらさの境目が一番辛いことは、世界各国のことわざにも「夜明け前が一番暗い」などがある。

そう自分に言い聞かせた。

今が一番辛い時期、これから少しずつ明るくなる。好転する。

・・・。

今回のおまけ漫画は、そんな暗い気持ちを少しでも明るく照らせるよう、自分に、そして周りに向けたメッセージを込めた。

暗闇にまかれてはいけない、何より、今日の入稿で、最も手強い自分自身に太刀打ちできたのだ。

他愛もないほどのちっぽけな自信を持って、明日もまた頑張ろうと思う。

2022年4月1日金曜日

最後に立った者

 山東ユカ先生の漫画「スパロウズホテル」の登場人物のセリフだったかと思う。

「戦場は最後まで立っていた者が勝者です」

 今日の4コマ執筆中、偶然ゲームストア・バネストの中野さんが開いたツイキャスライブの中で、同じようなことを話された。

粘り強く立っていた者、この感染症禍の2年間、あらゆる方法でここまで立ち続けたもの、脱落者の多く出る中、辛抱強く活動を続けた者が、最後は栄光をつかむ、と、受け取った。

 たまたまツイートに流れた富野由悠季監督も「今の流行が10年100年続くと思うな」と強い言葉で話された。

 振り返ると、一人で創作するスタイルが5年となり、一人、孤軍奮闘しながらここまで「倒れるものか」と立ち続けてはきた。体力資金精神力、いずれもボロボロで、今すぐにでも倒れて楽になりたい気持ちだったにも関わらず、だ。

 4コマは今日の連載で930話となった。新刊の方も何とか明日には入稿できるだろう。

 今の自分に完全燃焼できるからこそ、あれこれ体の動くうちに片付けたい気持ちが現れる。

 その中で、消費を抑えながら、苦しい生活を必死で耐える姿が、作品にどう反映されるのだろう。


 制作環境は決して良いものではない。

 しかしながら、それを臆面に見せないからこそ、どこか作品の細部に現れるものではないかと信じる。

 見る人が見れば、それは一目瞭然の、本当に通な作品へと昇華される。

 自分の作品がそうあって欲しいと願望を込めて気持ちを綴ってみた。

下手な鉄砲

 数を出す、とにかく初回から外に出す、とは徒然草の一節だっただろうか。 技が上達する人はとにかく描いたら世に出すこと、上達しない人は完成してから出そうとしいつまでも出さない、といった文言だったはずだ。 以前、兼ねてから応援していた創作者から「完成形しか見たくない」との言葉を頂戴し...