2020年5月30日土曜日

実感なき成長 自粛期間制作日誌その10



「止まない雨はない」、なんてありきたりな言葉にもあるように、一時期は緊急事態宣言も発令されるにも及んだ本状況も、本当に、ほんの僅かながら、回復の兆しが見え始めてきた、そう思わせるここ1週間だった。

 ボードゲーム製作者の方同士のやり取りも、オンラインを通じたテストプレイ会の話題や、創作作品の頒布先情報や新作の進捗といったやり取りがツイート上を賑わせるなど、制作側の気持ちも上向きになったのかな、僕はそんな気配を感じ取った。

 一方で僕は、というと、相も変わらず次回イベントに向けて小冊子の原稿と格闘する日々が続いている。
 本「自粛期間制作日誌」も10回を迎えるというのに、生活のスタイルは、1週目どころか数年前に遡っても、なんら大きく変わることはない。
 
 小冊子制作もいよいよ佳境を迎え、パズル本、4コマ本、ともにほぼ全ての内容がひと通り出揃った。残すはレイアウトやデザインの細部修正といったデコレーション部分の作業に着手する。進捗は概算で60%、だろうか。

 目の前に控えたイベントが「開催される」前提で動く、というと楽観主義と取られるかもしれない。けれど、僕の立場は至って変わらず、イベントがあろうとなかろうと、創作に対する熱意だけは喪失させないように、日々自分のできることを模索しながら少しずつでも前へと進む、それだけだ。

 今回ウイルスの件に限った話ではないが、出口が見え始めた頃に決まって飛び交う言葉がある。

「自分はこの間、何をしたのか」

 夏休みが終わる1週間ほど前、テストが始まる3日ぐらい前、卒業式を迎える直前、etc…。 
 先々回のPodcast「万屋楽団のそれなりな日々」でも、MCのサンジョウバさんからもこんな言葉が飛び出した。
(万屋楽団のそれなりな日々 第88回 スプフォンショッキングVol.3 「りにょりさん」の巻 https://yorozuyagakudan.com/2020/05/08/podcast088/


「(配信日は5月8日)少なくとも5月末まではお店開けれないだろうなっていう算段があったのよ。じゃ2ヶ月間あると。じゃ「あれもできるこれもできる、もうこの時間を有意義に過ごすしかない」と思ってたわけですよ。で、1ヶ月経ちましたよ。何やりましたか?って話でね…(中略)なんもしてないのよ。なんもっていうと語弊があるけど、やろうと思っていたことの10分の1もやってないわけですよ。(後略)」

 あ、イタタタ…。


 僕のここ最近約2ヶ月間を改めて振り返ると、朝はボードゲームクイズ動画の作成、昼はその延長で明日の動画のアイデア出しや読書、夜は4コマ執筆、の繰り返し。動画作成を終えた今はそのまま小冊子制作へと作業がスライドしたに過ぎない。
 「何もしていない!」と焦る気持ちが100とはいかないまでも、この期間のためにと買った本は多くが積読のまま、欲しいボードゲームも残さず入手できたわけでも、購入したとしても少しルールブックを読んだだけ、など、言ってしまえば「やりたかったことを全てやりきった。この期間中で自分は大きく成長できた。充実した!」と大手を振って宣言できるだけの実感は、恥ずかしながら「無い」。

 そんな中、ひとつだけ気がついたことがある。
 環境を日常へと昇華させる大切さだ。

 前々回の当ブログで「環境」に関する記事を綴った。

(「番次郎の盤上万歳‼︎ 「環境は自らの意思で 自粛制作日誌その7(2020年5月7日)」http://hibikre.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

 あくまで僕の経験則だが、ツラい状況を「環境」と身体が割り切ってしまうと、どんな場所であろうと(無自覚のまま)適応しようともがき始める。激務のため連日床で眠る職場だろうが、暴力当たり前の職場だろうが、2、3日もすると体が日常の異変に気づき、現在の異常な環境こそ「現在の日常」だと錯覚するからか、徐々に順応を始める。
 派生する箇所はいくつかあるが、例えば、身体が異常を発する何らかのサインに自分では気が付きにくいことにもつながるのだろうか。

 先々週に一旦ピリオドを打った「ボードゲーム動画クイズ制作」も、制作する間は、アイデアの出ないツラさを上回る「制作がなくなったとき、今後自分は何を続けたら良いのだろう」といった不安ばかりが先立った。
 小冊子制作に本腰を据えようと決めた翌朝は、まるで鉛のリストバンドを外したかのように、身体が宙に浮くほどの軽さを味わった。
「この何十何百キロ単位に及ぶ重圧を、自覚することなく(ややもすれば自覚することを自ずから避けていたのかもしれない)身にまとっていたのか」
と。
 今思い返しても、あの頃以上の情熱を注ぎ制作を持続できる自信は、当の自分自身にすら無い。


 苦しい状況は、いわば身体に重圧というリュックサックを担いで山道を登る状態だ。
 それを見ている周りは「なんて大変な思いをしているのか」と取られるかもしれない。
 リュックを担ぐ僕からすると、自分の想定した重さに比べたら「なんとかなるかな」程度にしか考えておらず、ツラいツラいと泣き言を吐きつつ、制限された行動の中に「自分でできること」を見つけられたときは、浮き立つ気持ちで満ちあふれた。

 もちろん今の苦しい状態を甘受するわけではない。先に触れたように、身体の発する異常サインは自分では気が付きにくいものだ。
 しかし、重さやツラさを抜けたその先には、自分の身に何かの形で筋肉がついてはいないだろうか。

 それは「レイアウトが上達した」「イラストが多少上手くなった」といった「自分でもなんとなく予測のできる部分」に留まらず、自分では気がつかなった影で支える部分の筋肉、精神面、生活スタイル、等々、言うなれば「自分の目が行き届かない部分」にこそ、本当の成長が見られるのではないか、これまでの拙い人生の中、そんな確信だけが僕の根底に潜んでいるようだ。

 草木の成長も、親戚の子供も、成長を見届ける側とは、四六時中成り行きを観察する側というより、むしろ「途切れ途切れに成長を窺う」側の人間だ。
 いつも目をかけているからこそ、ミリ単位の成長に目が届かない。一旦目を離すことで改めて成長を目にできるという、あくまで経験則だけれど、僕はそんな確信を持っている。

菜根譚 前集162項を引用したい

善を為すも其の益を見ざるは、草裡の東瓜の如し。
自ずから応に暗に長ずべし。
悪を為すも其の損を見ざるは、庭前の春雪の如し。
当に必ず潜かに消ゆべし。


善行をしても、その善い報果が目に見えないのは、たとえば草むらの中の瓜のようなものである。
それは人には見えないけれど、自然に生長して行く。
(これに対して)悪事を重ねてもその悪い結果が分からないのは、たとえば庭先に積もった春の雪のようなものである。
それは知らないうちにいつの間にか消えるように、必ずその身を亡ぼしてしまう結果になる。


 5月が終わりを迎え、徐々に開店を再開するカフェ・プレイスペース等のお知らせも目立つようになった。
 久方ぶりにご挨拶に伺った際、相手から
「だいぶ成長しましたね」
 という言葉をかけてもらえるよう、心も体も成熟しきった齢42歳の僕ではあるけれど、もうしばらくの間だけ頑張ろう、と、改めて誓うことにした。

 行き過ぎた無理・無茶だけには充分注意を払いながら、これからも少しずつ、少しずつ、前へ前へと向かいたいと願う。
「頑張りました!」と笑顔でお伝えできますように。



2020年5月22日金曜日

懸命に動ける幸せ 自粛期間制作日誌その9

 料理の話をしたい。

 僕の思う「料理のできる人」とは、高級な食材をふんだんに使用し、ゴージャスで美味しい食事を提供する人、とは一線を画する。
 冷蔵庫の中身や台所の調理器具を一目見るや「ありあわせのもので何か作るね」とサッと調理に取り掛かることのできる人の方だ。


 ある方を頭の中でイメージしながらペンを進める。
 僕の心から尊敬するボードゲームの製作者もその一人で、国内外数多くのボードゲームに精通された方、を抑えて、例えば手元に紙と鉛筆とトランプしかない場所の中、周りがアッと驚くほどの面白いゲームを皆に提供できる、そんな方だ。
 制作やプレイを通じる中で脳内に蓄えられた豊富な知見は、意図しない場所でポロッと発揮される、そんな一遍をも窺える。

 他にも、僕が実際にお会いすることのできた多くのゲームクリエイターは、100円ショップや商店街の軒先などで数多溢れる雑貨の類を目にするや否や「ゲームに使えるかも」と妄想したり、制作が一段落した直後やイベントなどで作品を販売される最中でも「面白いゲームを考えた!」とアイデアを巡らせる、そんな人ばかりだった。


 今回のコロナ禍の中、僕はオンラインの場を通じ様々な「動き」を目にした。
 「できない、どうしよう」
 そんな悲鳴にも取れる叫びが渦巻く最中、苦しい身のうちを省みず、常に周囲へと配慮を伺いながら、自分の中でできうることは何かを考え、少しでも立ち上がろう、前を見ようと懸命に行動を働かせる、そんな方々を大勢目にすることができた。
 具体的には、自身の作品をPnP(紙ペンゲーム形式)で無料配布された方、イベントの代用にとV-tuberなどを活用し広報や同卓の機会を設けてくださった方、Zoom等を活用したテストプレイ会やボードゲーム回を提供された方、自身の舞台やコンサートなどをネット配信された方、オンラインを通じたインタビューを中心に毎週のPodcastを展開された方、etc…。
 

 何もできない、どうすることもできない、
 そんな誰もが自己のストックを「0」と見なされたような今回の自粛期間の下、各々の個性に合わせるかたちで様々な媒体を産み出すことのできる、いわば「独自の+(プラス)エネルギー」を数多く目にする機会があった。同時に、そんなアグレッシヴな方々に何よりも僕自身が心を動かされた。
 クラウドファンディングにはわずかばかりの支援を添え、回数券等の販売は自分の無理しない範囲でのお金を落としていった。総額なんて数えるのも野暮というものだ。


 緊急事態宣言から快方へと向かう、そんな兆しがある昨今とはいえ、いまだ世間は予断を許さない状況だ。緊急事態解除後もしばらくは大幅に活動の制限を余儀なくされるだろう。
 そんな中、今や遅しと待ち構えているかのように、来月以降はボードゲーム界隈にも、更には制作側としての動きも更なる活発となるであろう動きが見られる。全国各地のボードゲームカフェ・プレイスペースが相次いで再オープンし、7月の北海道ボドゲ博2.0、8月の静岡アナログゲーム祭り、6月にはアークライトが主催するゲームマーケット関連のイベントもアナウンスされた。
 
 一方で僕は、というと、その日暮らしが板についたかのように、この先の状況など微塵も考えられるはずもはなく、いつもと変わらず小冊子の制作に明け暮れる毎日だ。
 目の前にガンと「自分のできること」を置き、その日の体調に左右されながら、少しずつ次のイベントに向けて作業を進めている。
 ありがたいことに日課の4コマは7巻目を目前に控え、次なる小冊子「ボードゲームクイズレシピ集」もカタツムリのような歩みで着々と進行している。
 前回もブログに記したように、明日は何が起こるか本当にわからない、未来など想像できる余地もない、だから「今」を懸命に生きる、そんなありきたりな言葉を並べながら、次へ、次へ、と懸命にもがいている。
 実情を話すと、資金(預貯金)は限りなく0に近い。7、8月のイベントで売り上げが伸びなかった場合、次回以降の出展を永久に見送ることも視野に入れるている、そんな現状だ。それでも今回のコロナの惨禍を真正面から受けた企業、店舗が抱えた苦しみとは比べるまでもないが。

 それでも僕は制作を続ける中、ある日を境に「土俵際へと追い詰めらながら、それでも前を向き、必死に歩くことのできる自分」の存在へと自然に前を向く目線の変わり映えを実感できた。
 何の肩書きも、何の取り柄すらも持ち合わせていない自分が、画面の向こうに存在するであろう「自分ではない『誰か』」に向け、ひたむきに努力をし、創作面も含めたエネルギーをオンライン越しに放出している、そんなナルシズムに似た心の動きを自覚するようになった。
 その瞬間からだろうか、僕はいつしか絶望に溺れる地点からの脱出を図ることができたように感じる。
 
 制作できる幸せ。もちろん自分に向けての満足が主体となる行為ではあるが、そんな僕の創作活動を、一人でも二人でも、喜んでくれる方がいる。
 自分の他の「誰か」に向け、僕はこれからも、自分のできることを、無理のない範囲で、少しずつではあるけれど頑張ろう、そう心に決めた。資金繰りは?まあ、結果としてついてくるものだろうか…。


 今回の自粛期間を経て学んだ「0の状態からも懸命に生きることのできる幸せ」とりわけ「冷蔵庫のありあわせで美味しい料理をつくることのできる料理人」を妄想しながら、今後も、そしてこれからも、自分のカラーで活動できますよう、頭のどこかに「今を頑張れ!」という言葉を刻んでおこうと願う。

2020年5月16日土曜日

悪手をつぶしながら 自粛期間創作日誌その8

 今年読んだ多くの著書(具体的には「二十一世紀の啓蒙上・下(スティーブン・ピンカー著)」など数冊)の中で作者が特に言及していたことは共通して「未来はわからない」だ。

 確かにほんの半年前まで、今回のウイルスが世界規模もの厄災をもたらすこと、我が国で蘇が流行し、ホットケーキミクスやマスクが常時品切れになることなど、経済学者や占い師も含め誰が予想できただろうか。

 未来はわからないし、目の前の出来事なんて知る由もない。
 そんなとき、僕は「事実」を大事にしている。
「事実」は「真実」と違う。
 自分の意見に根差す「事実」に対し、「真実」には「相手から見て自分は正しいと思った、などの意見」といったニュアンスが混じってしまう。
「本来はこうだ」「今までがこうだった」と「真実」ばかりを並べる人と僕の意見が衝突してしまうのは、本来自分の考えと地続きとなるはずの「事実」がなおざりにされているように感じるからだ。
「良い学校に入るため勉強しなさい!」、「病気で倒れないよう体を鍛えなさい!」と注意されても、自分の身に危機が迫る状況にならないと動けない性格にも繋がるのかな、あ、いたたた…。
 

徒然草第百十段の言葉を引用する。

 双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。(後略)

(現代語訳)
 双六の名人と呼ばれている人に、その必勝法を聞いてみたところ、「勝ちたいと思って打ってはいけない。負けてはならぬと思って打つのだ。どんな打ち方をすれば、たちまち負けてしまうかを予測し、その手は打たずに、たとえ一手でも負けるのが遅くなるような手を使うのがよい」と答えた。


 プロ棋士に限らずボードゲームを得意とする人が「常に先を読む力」を大事にする中、先ではなく「明らかな悪手を一つひとつつぶしながら、その中で自分が考えた負ける確率の最も低い手(=最善手)を打つ」に目先を置いていることが興味深い。 
 余談ではあるが、吉田兼好もこの後に「身を治め国を保たん道もまたしかりなり(研究者も政治家にも言えることである)」と続けている。

「未来がどうなる?」なんて専門家でも有識者でも、ましてや僕にだってわからない。
 有り体に言うと
「ボードゲームカフェ・プレイスペースが通常通り運営再開できる?」
「今年のゲームマーケット秋は開催される?」
なんて、どれだけ悲観的・楽観的に捉えようとも、僕自身が納得できるだけの結論には至らない。


 だから目の前の悪手をつぶしながら少しずつ前に進もう、と、最近は自分に言い聞かせている。
「事実=自分が「良い」と感じたこと」に照らし合わせて行動しよう、と日々心に留めて行動するよう心がけている。


 人気ボードゲームPodcast「ほらボド」今週配信された第313夜は「オンライン収録「ザ・ボドゲノンフィクション①~自粛の実情~」」がテーマだ。
 話題に上がった「クラウドファンディング等を活用した支援」も、僕にとって「自分が良いと感じた事項」に通じる行動のひとつだ。
 見返りを求めた未来への先行投資、ではなく、今困っている相手へ奉仕するような気持ちで、なけなしのお金を投入している。
 もちろん「無理をしない」に、が前提にあって、の話だ。
「ボードゲームカフェ デザート*スプーン」店長の加藤さんも自身のツイキャスライブで「(Board Game Selectionへのクラウドファンディングは)無理をしない程度に」と言葉を添えた。
 支援をする側が倒れてしまうようなことは、支援をされる側に余計な気苦労をかけてしまう。必然的に、前々から資金繰りに苦しんでいる自分ができる支援など情けないくらい微々たる額だ。
 とはいえ、目の前の困っている人を看過できない自分は「気は心」とばかりに支援を申し出ている。

 未来なんて、本当に、誰にもわからない。
 さらに続けると、僕がこの先「番次郎書店」の屋号を掲げながら末長く創作を続けていることすら未知数だ。
 何よりも、継続云々は僕自身が一番わかっていない。
「次回イベントの参加は不明です」なんて言葉が上がってもおかしくないくらい、創作活動は常に「背水の陣」なのだ。
「次に期待します」と意見を頂戴しても「次があるかどうかもわからない」し、「番次郎書店の野望は?」と問われても「(まずは)目の前のことに精一杯努力する」ことしか、今は答えることができない。

 そんな先行きの見えない中、「悪手」とりわけ「人の嫌がること」を一手一手つぶしながら「(自分の考えた)自分と相手、相互が幸せにつながる道は何か?」を、これからも模索しながら行動しよう、相手と自分が共に笑いあえる道を選び、突き進もう…
 綺麗事になってしまうけれど、ここ数日はそんな言葉で自分を鼓舞しながら、目の前の創作活動に勤しんでいる。

 7月はボードゲームイベント「北海道ボドゲ博2.0」が開催を予定されている。
 未来を憂いて動けなくなるより、今はただ「こんな自分でも応援してくれる方々」のため、間近に控えたイベントへ全力を傾注するのみ、だ。




2020年5月9日土曜日

環境は自らの意思で 自粛制作日誌その7

 養老孟司著「ねこも老人も役立たずでけっこう」の本文に「脳の適応能力の高さ」についての一文を見つけた。

 脳は、非常に適応性が高い。だから、変わるんです。でも、人間はそれに気づいていない。感覚を通して変わっても、自分が変わったとは思っていないんです。それは意識が騙しているんですね。「私は私でしょ」「昨日の私と今日の私は同じ」なんて、意識は言い続けるものなんです


 自粛生活も早6週間を迎え、いまだ生活はオンラインの場が主体となっている。
 SNSの情報をすべからく追っているわけではないけれど、混迷続く状況の中、オンラインの飲み会を開いたり、ZOOMなどを活用したリサイタルやテストプレイを行なったり、など、製作者の銘々が独自の持ち味を発揮しながら外部との接触・交流を図っている。

 フリーの生活へと身を投じたときの話。
 肩書きもお金も瞬く間に消え、呼応するかのようにどんどんと人が離れていった。
 貧しさや苦しさ、寂しさで途方に暮れる中、それでも手を差し伸べ、制作を応援してくださる方々がいらっしゃった。
「渡る世間に鬼はなし」と揶揄されるように、大都市圏での生活の中にも温かく人情味溢れる世界がある、そう教えてくれたのは、何よりオンラインも含めた周囲の環境であり、拙い作品をSNSで公開してもすぐに「いいね」と反応してくださるフォロワーの方々だった。
 今でも貧しさは人を選別する一番の妙薬だと考えている。


 創作の話に戻す。
 昨今の情勢如何を問わず、外部との接続が遮断された生活は想像以上に体が何かしらの「飢え」を訴える。
 飲み物、食べ物、物欲、何よりも人恋しさ、笑い・感動などエンターテイメント、等々、体が発する「楽しさを求める」サインは、何もない生活の中でも日々膨らむ一方だった。
 飢餓感は精神を否応なく蝕み、ツイートの内容も弱音ばかりが並ぶ日もあった。連動するかのように体力、体調等を大きく崩してしまうこともしばしばあった。


 人恋しさに負け、こちら側を搾取したり軽くあしらったり、と、明らかに「悪い」と思しき人とも我慢して対応する、一時期はそれも日常の一部だった。
「本当は良い人だから」
 そんな前置きを渋々飲み込み、執拗にこちらの精神面を“なじる”相手にも笑顔で対応する、制作を続ける中、そんな相手からそっと間を置くようになったのも、制作に没頭する中でそれほど日も経たない中での出来事だった。

 つい先日は「BGA」などに代表されるオンラインゲームに触れる機会があった。しかしながら、どうしてもそれら電子ゲームに「面白さのエッセンス」のみを抽出しただけのような素っ気なさを感じ、言うなれば、アナログゲーム環境下で周辺に位置取る「ノンバーバル」なコミュニケーション、口で、鼻で、耳で、皮膚で、主に「目に見えない部分」が逆に刺激される結果となった。

 サン=テグジュペリ著「星の王子様」の有名な一説を引用する。

じゃあ秘密を教えるよ。
とてもかんたんなことだ。
ものごとはね、
心で見なくては
よく見えない。
いちばんたいせつなことは
目に見えない。

 オンラインでの生活を通じ、常々頭をもたげていた「感情面を揺さぶられる相手、行為とは何か」といった問題が、現実として可視化されたように感じる。
 
 それは決して目に見えるものではなく「肌感覚」という曖昧にカテゴライズされた形の中で、己の心を根底から揺さぶりつつ、自分の視野から外れた世界の中で、ゆっくりと歩みを進めているように感じた。
 見えないからこそ、より体内のセンサーは過敏になり、自分の進みたい道へと誘うかのように、周囲の否定や誘惑の言葉から距離が開き、その一方で、理解し応援してくださる方に向けて次へ、次へと創作の手が伸びる、と、そんな無意識下でのローテーションが更に強さを増した、そう実感する1週間だった。

 しばらくはまだ一人の生活が続くことになるだろうと思う。
 それでも「こんな僕を一人の人間として受け入れてくれる」周囲の方々をこれからも大切に、感謝の気持ちを忘れずに、何よりも自分の提供できる範囲で楽しさを届けられるよう、自分の意識を自分の求めんとする方向へ、と、そんな過ごし方で乗り切っていけたら、と心から願う。
 
 最後に金子みすゞ「星とたんぽぽ」の詩から引用する

青いお空の底ふかく
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

 環境を、翻って、自分の向かうべき進路を、大きく変える存在は、何より「目に見えぬものを感じる」自らの意思なのだ。

2020年5月3日日曜日

意識から継続へ 自粛制作日記その6

外出自粛制作の、ちょうど4週間、1ヶ月目を迎えた。

4コマも動画クイズ制作も、あれからほぼ毎日続けている。
反応は、以前に比べ落ち込む一方だ。

駄作、ではなかった(はず)。
普段からそう反応の多くはない自分でも、渾身の作品に思ったほどの反応がもらえないと、意識せずともモチベーションは下降の一途だ。
「継続させること」「その先にはもっと素晴らしい作品が生み出せる」と自分を鼓舞させつつ手を動かすことは本当に難しい。
翻って「継続」はとても大変だ。
さらに掘り下げると、「良いと思ったことを継続すること」は本当に難しい、この1週間でそんな気持ちをより強く実感することができた。


今週月曜に万屋楽団様のPodcast「万屋楽団のそれなりな日々」や、ボードゲームカフェ「デザート*スプーン」様のツイキャスライブにお邪魔する機会に授かった。
意図しての露出ではなく、本当に偶然に。
「出てみませんか」の声がかかったり、コラボ募集に応募したり、と、周りのお声があり、それに調子の良い私がホイホイと乗ってきた、という形だ。

その中で僕は「頑張らない」といったフレーズを何度か口にした。
「頑張ると、求める「頑張り」を行わない他人に厳しく当たってしまう」
「頑張ると、「今日は頑張らなくていいや」と自分に甘えてしまう」

力むことなく、日常の生活に「新たな習慣」を取り入れる行為は何重にも難しい。
どれだけ「健康にいい」と意識しても、早朝の人の少ない涼しい時間を見計らって軽くジョギング、など、本当に意識しなければ最初の数日で挫けてしまう。
それと同じように、意識して新たな習慣を取り入れるためには、実感できるだけの高い効果と、もう一つ「応援する自分」の存在がどうしても必要となる。
モチベーションの維持は、何より「自分自身へのエール」だ。
内なる声と格闘しながら、それでも前に進もう!と強く推進させる力は、自分にハッパを上手くかけることができるかできないか、に結局は帰結する。
今はまだ詳しく分析できないけれど、自分で自分を応援できなくなったとき、弱い僕はすぐさま歩みを止め、怠惰の誘惑へと簡単に落ちてしまうだろう。


「環境に適応できたもの「のみ」生存できる」といった進化論を持ち出してまで自分の軸を正そう、とは思っていない。

ただ、ライフスタイルが急変し、目の前が暗くなった場に置かれても「こうした中で、自分のできること、周りに手助けできることとは何か」それら手がかりをひたすら手探りで当たりながら、無理をすることなく、大きく変化させるではなく、できる範囲から、少しずつ、足場を崩していく。
「今日はこれくらい」を、無理せず継続するうちに、できる範囲のことが広がるのではないか。これじゃまるで「拡大再生産」と同じだ、なんて。

僕の1ヶ月は、そうした声と共に、足早に過ぎ去っていった。

継続のモチベーションは?
騙したり褒めたり、を繰り返しながら、自分を応援し、励まし続ける。
いつ果てるかもわからないような環境の下、持続的に「できること」を意識すること。
心の中の雑草を毎日根気強く抜いていくことで、次第に雑草の生えないような土地として生まれ変われることを夢見る、それに近いのかもしれない。

「心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる」
多くの著名人が座右の銘とするウィリアム・ジェイムズの言葉を改めて眺めつつ、そんなことをぼんやりと考えた。

4コマは400話を目前に控え、動画制作は明日で3週間目を迎える。
キャスの中でも引用したジャイアント馬場こと馬場正平さんの言葉を改めて引用する

アナウンサー「5000試合出場達成おめでとうございます。次の目標は6000試合ですか?」
馬場「5000の次は5001」

そんな僕だが、3日後の5月6日に、晴れて42歳の誕生日を迎える。

笑われて、笑われて

 5月から心機一転開始した日々の4コマが、今日で150話、2年間ちょっとに及ぶ過去の連載文を含めると794話と、800話も目前となった。 今度の4コマも無事に2巻目の入稿を済ませ、次回イベントで1,2巻も含めた初めての頒布となる。 日々苦しい執筆だった。 心に響くしんみりとした言...