2019年6月15日土曜日

考えるって面白い!〜私の目指す「名脇役」の存在〜

私の中の傑作ボードゲーム「あてっこついたて」が、この春「ATEKKO(アテッコ)」というタイトルでリメイクされた。
豪華なコンポーネントにユーモラスなデザイン、これらが3000円を下回る価格で比較的容易に入手できることは本当に嬉しい。

この「ATEKKO」という作品、最初に断っておくと、やはり「一緒に遊ぶ面々で」面白さは少し左右される。
単に勝利しようとするならば、まずお題に対し難解な解答を書くこと(自分に自分の解答は回ってこない)、「パン」というテーマなら「明太子フランス」や「乾パン」、「寿司ネタ」なら「とびっこ」や「うなぎ」あたりだろうか。
そして質問も「ひらがな3文字ですか?」「赤いですか?」といった、言うなれば調書を取る形で徐々に絞り込めば、意外と目指すべき推理の方向性が見えてくる。
しかるに、このゲームの面白さは左にあらず。
単純明快なお題+ひとひねり加えたお題を提供し、回答結果で概略がおぼろげにつかめるような「面白い質問」がひねり出せたならば、俄然その場は盛り上がる。
「そのパンは食べることで主食となりますか?」「回転寿司では安い方の皿に乗っていますか?」
「質問力、問われます」この作品のリードコピーが意味するところを、私はそう捉えている。

同じくゲームマーケット春に、リゴレからワードスナイパーの新作「イマジン」が登場した。
「想像力」をテーマとする本作は、お題となる内容も「10分でできること」「東京ドームより広い場所」などの、知識とは一線を画した「イメージ」で回答する作品に仕上がっている。
基本のルールは早い者勝ちであるので、勝敗を意識するならば語彙量の豊富なプレイヤーが跋扈する印象がある、
かと思いきや、こちらも初めての方とプレイする際に、思わず周囲も「深イイ」を連発するほどの名回答が続出する。
「「や」のつく「燃えるもの」→「野望!」
「「け」のつく「生きていく上で必要なもの」→「経験!」
etc…。


私は自分の好きな作品を、自分だけではなく周囲に布教したいと考える少々「お節介焼き」な人間だ。
その為には「私自身がバイプレイヤー(名脇役)となること」が何よりも大切ではないか、という結論に至った。

上記に挙げた作品に限らず、すべてのボードゲームにおいて、私はさほど勝敗を意識してはいない。
強いて挙げるならば「その場の盛り上がり」を強く意識している。
こう記述すると一部から「勝敗があってこそのボードゲームではないか」と反論が上がるかもしれない。
一家言加える前に聞いてほしい。
私は考えることが大好きだ。
何か周りに面白いことはないか、自分で何か面白いことはできないか、そんなことばかり考えながら日々を過ごしている。

拙著「Analog Game GAME アナログゲームのなぞなぞブック」や「ボードゲームクイズ」を執筆した際、常に念頭に置いた言葉がある。


拙著「AnalogGameGAME」あとがきより


「考えるって、面白い」

慌ただしく過ぎる日々の生活で、ふと立ち止まり周囲を見渡すと、実は日常にひっそりと潜んでいた、よくよく考えると不可解なもの、出来事、現象。
空気は透明なのに何故空の色は青いのか、鏡が何故左右反対に見えるのか、お風呂に入ると何故気持ち良いのか、等々。考え始めるとそれこそキリがない。
そんな疑問の数々を、何故そのまま放置してしまったのか。
それはおそらく我々現代人が、生きることで必死となり、あるいは忙しさにかまけ、無意識の中でそれら疑問を背景と同化させ「考えてしまうと余計な労力となるから」と、敢えて我が視界の見えざる位置へと遠ざけてしまったからではないだろうか。

「考えるって、面白い」
スタピー、と聞けば「スタートプレイヤー」の略を思い浮かべ、スリーブをかける、といえばカードを保護するフィルムを装着させる姿が安易に想像できる。
今でこそ「ボードゲームで遊んでいる人なら知ってて当然」とされる言葉ひとつ取っても、ふと立ち止まって考えると、やはり側から見ると少し不思議な用語が飛び交っていることに気づかされる。
スリーブの語源は、洋服の腕を包んだり隠したりする部分を意味する言葉で日本語の「袖」に該当する。袖のない衣装をノースリーブ(no  sleeve、ちなみに和製英語) というが正にそれだ。「包む、隠す」という意味合いから、カードを保護する「スリーブ」の意味に派生したと考えられる。
ボードゲームであれ、クイズであれ、さらには勉強と呼ばれる諸活動ひとつひとつを取り上げても、先のような「発見」ができることに私は至上の喜びを感じ、ボードゲームプレイ中もその辺りを意識つつ、決して相手を過度に盛り立てることなくプレイするよう心がけている。

このブログでも何度か綴ったが、ボードゲームは一人ではプレイできない。
だからこそ、一緒に卓を囲む相手には「面白かった!」と感じて欲しい。
だから私は、強すぎず弱すぎず「一緒に遊んで面白い人」になること。
その為には「この人と遊ぶと、何か面白い発見がある!」と感じてもらえるような、そんなプレイヤーを目指す。
それが次にご一緒する際の見えない引き金となり、ひいては私が抜けた後でも、それら作品に興味を持つ発端となった先の「ボードゲームの面白さ」に繋がるのではないか。
その一端を私との卓で発掘できたならば、これに勝る喜びはない。

その為にも、私自身がエンターテイメントを一から学び、どんな方からも「また遊んでください!」と乞い乞われるような、私はそんなバイプレイヤーを目指し、日々研鑽していきたいと思っている。

ボードゲームって、考えるって、面白いよ!

勝ち負けの先の「楽しさ」〜私が「笑い」を学ぶ理由〜

4コマ漫画「きょうもボドびより。」をちょこちょこ描き続け、昨夜で無事に第116話を更新した。
1月20日に第1話を更新し、気がつけば5ヶ月が経過しようとしている。
100話を機に絵柄も変化させ、ネタ出しに苦心しながらも「書き溜めると新鮮なアイデアが腐るから」という理由で毎日その日の夜に考える、そのスタンスはいまだ継続中だ。

前回の拙著「Analog Game GAME アナログゲームのなぞなぞブック」では「笑顔」をテーマに問題作成を進めた。
笑顔を育むこと
私の作品を通じ「笑顔を作り出せる作品」はできないか。
単にオゲレツな言葉を並べたり、あからさまにブラックな話題で相手を誹謗中傷したり、逆に、周囲が引いてしまうほどの自虐ネタを仕込んだり、などを極力避け、純然たる「笑い」を生み出せないか。
制作は困難を極めた。
大喜利会への参加や大喜利関連のツイート、もちろん落語や漫画などを読み漁り、自分なりに少しずつ知識を深めている。

前職でも宴会部長だった私は、この手の盛り上げ役も一任された。
宴会部長は他でもなく、私が自ら引き受けたのだ。
ブラック気質がいまだ根強く残る我が社では、新入社員による「一発芸披露大会」が、歓迎会の恒例行事とされ、裸踊りだの瓶ビール一気だの、あまりにも目に余る光景が繰り広げられていた、らしい。
「歓迎される側が、何故余計な業務を任される?」
ネタ出しに苦悩する新入社員の表情でいたたまれなくなった私は、ならば今後一切は私が引き受けます、と、余興担当の全てを買って出た。
漫才の真似事や、モノマネなど、即興なぞかけもその際に培った技術だ。
飲みの席での余興さえあれば何でもいい、と短絡的に考えていたであろうお偉いさん方は、取って代わった私のネタでもそれなりに満足してくれた。

以来、社の宴会では「番次郎の宴会芸」が恒例となりつつあった。

しかしながら、
「あのネタ、イマイチでしたね。次はもっと面白いヤツ期待してますよ!」
と、次第にダメ出しをもらうようになり
「次は俺もやります!」
と、別の新人が突如裸踊りを始め
「やっぱり宴会はこれくらい面白いヤツじゃないとな、ガハハハ!」
と、周囲も裸踊りに称賛の声を上げた。

翌日から私は宴会部長の役を降り、以来、歓送迎会も含めた「宴会」と呼ばれるイベントには一切顔を出さなくなった。
その後どうなったのかなど、私の知ったところでは無い。

私の中の傑作ボードゲーム「あてっこついたて」が、この春「ATEKKO」というタイトルでリメイクされた。
諸所意見はあるだろうけれど、あれだけ豪華なコンポーネントで3000円を下回る価格にできたことは本当に嬉しい。

この「ATEKKO」という作品、最初に断っておくと、やはり「一緒に遊ぶ面々で」面白さは大きく左右される。
単に勝利しようとするならば、まずお題に対し難解な解答を書くこと(自分に自分の解答は回ってこない)、「パン」というお題なら「明太子フランス」、「寿司ネタ」なら「とびっこ」あたりだろうか。
そして質問も「ひらがな3文字ですか?」「赤いですか?」といった、言うなれば調書を取る形で聞き出せば、意外と推理の方向性がつかめてくる。
しかるに、このゲームの面白さは左にあらず。
いかに単純明快なお題+ひとひねり加えたお題を、判別できることでフンワリと概略がつかめるような「面白い質問」ができるならば、俄然その場は盛り上がる。
「そのパンは食べることで主食となりますか?」「回転寿司では安い方の皿に乗っていますか?」
「質問力、問われます」この作品のリードコピーが意味するところは、その辺りにあると考えている。

私はこの作品が前作「あてっこついたて」の頃から大好きだったので、当然みんなにも布教したいと考えた。
その為には「私自身が名プレイヤー」であることが何よりも大事ではないか。
ATEKKOに限らず、すべてのボードゲームにおいて私はさほど勝ち負けを意識しない。
その場の盛り上がりを意識する、と書くと「勝敗があってこそのボードゲームではないか」と反論もあるだろう。
私は常に考えることが好きで、常に何か面白い考えを探している。
「そういえば、これってどうなのだろう?」
ボードゲームであれ、クイズであれ、そんな新たな発見ができる事こそに喜びを感じており、ここでは深く触れないが、プレイ中もその辺りを意識し、決して過度に飾りたてることなくプレイを進める。

強すぎず弱すぎず「一緒に遊んで面白い人」になること。
それが次に遊ぶ何かしらの引き金となり、ひいてはそれら興味の発端となった先に迎える「ボードゲームの面白さ」を発見できたならば、この上なく嬉しい。

その為にも、私自身がエンターテイメントを自学研鑽し、誰からも「また遊んでください」と乞われる、そんなバイプレイヤーを目指している。



2019年6月8日土曜日

自分の姿を探すためー名古屋の旅で考えた由無し事ー

ボードゲーム会に持ち込む作品は、自分の遊びたいものばかりをチョイスするのではなく、現在の流行や、滞在時間、会全体でプレイされている作品を事前に予習した上で、全体の流れから勘案し、厳選して持ち込むようにしている。
本当に遊びたい作品はまた別の機会に、と。
たとえ個人的には絶賛する作品であっても、周囲の状況を鑑み、やむなくリストから外される、
そんな作品も多い。

そんなことを考えるうちに、いつの頃からか、私はボードゲーム会に「自作のボードゲームクイズ」と「早押しボタン」を持ち込むことをやめていた。



先日、名古屋へと足を運んだ。
ゲームマーケットの締め切りに追われ、制作中はなかなかご挨拶のできなかった方へ、小冊子を届けに上がることが主たる目的だ。

諸所のトラブルに見舞われながら、無事に名古屋へと到着。
今回のゲームマーケットで素敵なビーズのペンダントを作成していただいた「あいこん屋」の「たま様」と合流する。

ボードゲームは始めたばかり、でも、ゲームマーケット自体には関心があるらしく、気になる作品を伺ったところ、幻影探偵団、CMYK!などの話題作を答えてくれた。

たま様と合流し、その足でゲームストア・バネストへと向かう。

店長の中野さんはこの日もTシャツ姿で動き回っており、所狭しと並べられた国内外のボードゲームに囲まれた空間で、中野さんの活気ある声が飛び交っていた。
「宝の山ですね」と語るたま様だったが、おそらく興味のない方からすれば「おもちゃの延長線上」にしか映らないことだろう。
宝の山や、中野店長に差す後光などが見える由縁も、ひとえにその人が持つ知性と興味とが織り成せる技だ。

しばらくすると、ポッドキャスト「今夜もアナログゲームナイト」メインMCの太陽皇子、アシスタントのプーさんらが来店される。
御二方ともバネストには大変親交のある方々だ。

ポッドキャスト内では、特に皇子の巧みなインタビューが印象に強く、その際の何かコツのようなものをお聞きしたかったのだ。
皇子曰く、事前に台本を用意し、聞いて欲しいこと、ここはカットするところ、などを綿密に調整するとのこと。
自分の聞きたい事項を、その場の思いつきでポンポンと投げかけるようでは、それはインタビューではなく「尋問」になってしまう。
「相手への気遣い・心遣い」、それこそが皇子の番組が多くのリスナーに長く親しまれる所以なのかなと感じとれた。

たま様と別れ、皇子が主催するボードゲーム会「アナログゲームギークバー」へと向かう。

会場となるピアノバー「アドリアーノ」は、平日夜の時間帯ながら県内外を問わず多くの参加者が集い、各々が「ボードゲームが好き」、「遊ぶこと、ともに卓を囲むことが何よりも好物」というベクトルに沿う形でひしめき合った。

各テーブルに分かれ、私は前々から興味のあった「モザイク」という作品をプレイする。
タイル生産で有名な岐阜県多治見市のボードゲーム製作者が、地元のタイルを活かした作品を、という願いで作成された作品だ。




(写真はモザイク・クオも含めた4人対戦)

囲碁とパズルを合わせたような、実力勝負の中で意図せず爆発的な連鎖が発生し、都度、逆転劇が繰り広げられる。
特に今回はチーム戦ということもあり、自分だけではなく、相手への絶妙なパスワークも必要とされる。
見た目の鮮やかさと造形美からは想像もつかないほどの不思議な作品に、思わず魅了された。

第二部
好きな作品を、ということだったので、恥ずかしながらも自作のクイズセットを取り出す。
愛好される方、ボタンを押してみたかったという方数名で、クイズの卓が催されることに。

ゲームマーケット以来の問題読みで幾らかの失敗はあったものの、無事に収集がつき、自分の満足する形でゲームを終えることができた。
その場を取り払うかのように次の作品へと移行する。
やはりいざという時に自分の作品を大手を振って紹介するほどの、今風の言葉で「高い自己肯定感」なんて、とても湧くものではない。


名古屋の旅を終えた私は、帰りの新幹線に揺られつつ、またいつもの作業へと移行することにした。
前回のブログで「休みを入れる」と綴った舌の根も乾かぬうちに、この体たらくぶりである。

暗闇だけが過ぎ去る車窓をぼんやり眺めつつ、自分が「読まれるかどうかもわからない小冊子」をどうしてここまで制作してきたのか、その理由について、改めて考えることにした。

大枚をはたいて出展し、制作を続ける意味ってなんだ?
自分が好きだから、という曖昧な動機でも、儲かるから、といった目に見える動機でも、そのどちらでもない。

おそらく自分の中の根源は、もっともーっと単純で
「制作しました」→「読みました」
そんなコールアンドレスポンスを受け取ることができたからこそ、ここまで心身ともに継続できたのではないか。
頑張っただけではなく、その証として、少なからず反応がある。
良かれ悪かれ、何かしらの反応があるからこそ、反省が生まれ、また次へのモチベーションが醸成される。制作し、当日にそれなりの売上を見せ、ハイ次、だなんて、それは何だかすごくもったいない気がするのだ。
綺麗事かもしれないけれど、私の中でゲームマーケットはあくまで区切りの一つであり、当日いらっしゃらなかった方、入手を逃した方などに向け、広報活動はこれから先も続くものと考えている。

だからこそ、応援していただいた方、自分が応援したい方に、自分の表現しうる現時点での最高傑作を、自らの足でお届けにあがりたい。
そこで上がったレスポンス、感想やアンケートの評価といった目に見えるもの、もしくは、直接お会いした際にかけられる何気ない「いつも読んでます」の一言が、実は自分にとって恐ろしいほどのモチベーションに繋がっていたのではないか。
今はそんな気持ちで溢れている。


次は2週間後の大阪。「いかが屋」様が主催する「クリエイターズ交流会」、それが終わると、7月の北海道ボドゲ博まで一直線だ。
交流会の中では、主催者の意向で「肩書き」を作るように宿題が課せられている。
何でも良い、自分を表す何かしらの文言をつけるように、とのことだ。

私の肩書きって、なんだっけ。
「ボードゲームのクイズ制作」
少し前までの自分ならば、自他ともに認めるそんな肩書きがつけられたかと思う。
制作をガラリと転換させた昨年末から数え、早半年が経過した。
ブログを出版し、なぞなぞを作り、あまつさえ4コマ漫画を描くなど、クイズ以外にもあれこれそれと手を出した自分の姿は、少なくとも半年前の自分は想像すらできなかったに違いない。

有り体な例え話だが、「目」は常に正面を向くように造られている。
鏡でも使わない限り、自分で自分の姿を目視することはできない。
自分の姿を確認するためには、己を向く他者の目が必要となり、それらは何かしらの交流を通じることでのみ培われるのだ。

だから私は、ボードゲームと同じく、相手との対話を何よりも大切にしたいと思うし、それこそ応援してくださる方に対しては、居丈高になることなく、できうる限りのおもてなしを持って返したい。
先に挙げた「コールアンドレスポンス」の土壌を、自ら動きやすい形で整えるのだ。

そして生まれる「対話」を通じ、今の自分が、何を見て、何を考え、相手に何を提供でき、そして相手から何を受け取れるのか。
それらをすくいあげ、こし取り、バラバラとなった破片をパズルのようにつなげる中で、うっすらと垣間見える「自分の姿」。

それこそが作品を綴る中で、自分が最も大切にしたかったことだったのか、そして、これまで小冊子を綴ることができたモチベーションの最たる所以だったのかな、と、今回の名古屋の旅を終える中で、そう結論づけた。


バネストでは9月14日(土)に20周年記念ゲーム会が開催される予定だ。
私もいつか何かしらの形で、バネスト様を表現する役割の一端が担えたら、と、心から願う。











2019年5月31日金曜日

タネを蒔く、タネを蒔く〜ゲームマーケット2019春 奮戦記〜

ボードゲームの祭典で、ボードゲームを頒布しないサークルが、ついにこの春で3年目を迎えることとなった。
代表作は「Board Game Quiz」という、言うなれば、ボードゲームのクイズばかりを集めた小冊子。
これまでにバカ売れしたかと言われるとそうでもなく、愛されているかと言われると、そう上手い言葉でもない。
ブースの中で、孤独に、大声で叫びながら、時折クイズを読み、西へ東へと頒布を続ける。
3年目となった春も、このスタイルを変えてはいない。
今回春のゲームマーケットでは、特に「繋がり」を強く実感できたことが印象的だった。今回はそれをテーマとし綴っていきたい。長くなりますことをあらかじめご承知置き願います。



前日となる金曜日、僕は地下鉄「馬喰町」駅改札で、関西からの来客を待っていた。
「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」MCのいか氏、りにょり氏、おけい氏の御三方、グループSNEの酢豚氏ら4名だ。
長旅の疲れも見せず、笑顔でこちらに向かう4人とは裏腹に、普段はスピーカー越しでのお付き合いのない大物ゲストの面々に、めまいがするほどうろたえる僕。

駅から徒歩10分ほど離れた場所に位置する「たいこ茶屋」へと向かう。
つたない記憶を頼りに先導し、ポッドキャストで耳にするいつものトーンを耳にしながら、ここ数日続く関東の真夏並みの暑さと明日に控えた会場内の様子などについてワイワイと話をした。
お刺身が食べ放題というこの居酒屋で、マグロやサーモン、穴子の佃煮など、銘々が山盛りの海鮮を頬張る中、この後も特に前日会になど呼ばれず、隙間の時間があれば細々とした作業を挟み込む私は、周囲の明るい表情とは対照的に、実は少しうつむき加減だった。
「横のつながりを大切にせなな」
いか氏が見かねたのか、明るい表情で僕の肩を叩く。

手持ちの小冊子をカバンにあるだけ関西の面々に押し付け、見送りを終えた僕は足早に家路へと急いだ。
明後日が本番だというのに、ブース設営の事前予行どころか、当日掲示するポスターの作成すらままならない。
制作に没頭するあまり、前々日まで「本番は、まあ、何とかなるだろう」といった悪い開き直りばかりが先行した。3年目になろうというのに、あいも変わらず学習しない僕。

ビタミン剤がわりのオロナミンCをぐい飲みし、敷き布やポスター、早押しボタンといった積載物をそそくさと準備する。
雑用を片付けるうちに、前夜という時間はあまりにも一瞬で過ぎ去っていった。


土曜日、
この日の僕は一般来場者として、主に購入や挨拶回りなどに当てる日を予定した。
あらかじめ作成した自作の買い物・ご挨拶マップは、前回秋に比べ赤ペンの密度が若干薄い。
とはいえ、注目作は今春も目白押しで、手当たり次第に購入を決めていくと予算がいくらあろうとも足りるはずがない。
第一、僕は3月に開催されたゲームマーケット大阪でも「それなりの量の」買い物を済ませている。
ニックネーム、FILLIT、ワードミノ、天才画家ボンといった現在も人気の続く話題作はその際に入手しており、仮にその合計を例年通りとして総額に含めてしまうと
…考えただけで背筋が冷える。

AM8時30分ごろに会場待機列へ加わる。
会場の中はひんやりと冷房が入り、この日の気温が30度を超える、と予想された外の気候とはまるで別世界のように感じた。
周囲を見渡すと、以前のように集団で何かを遊びながら待機するグループは少なめのようで、スマホにおしゃべりに、またはこの場でカタログを広げるというような静かに過ごされる方がちらほら見受けられた。
「サークルカットなんて誰も見ないから」と腐ることなく、この時間の有意義な宣伝媒体として積極的に情報提供できるよう、今後も工夫を凝らせたらと思う。


AM10時、拍手とともに開場。
あらかじめ形成された列から順番に、人が滝のように飲まれていく。
多少の焦りはあったものの、羽田から眺める限り、人の波はスペースのさらに奥へ、奥へと流れ、僕が狙いをつけていた一般ブースに限って言うならば、この時間の待機列であろうとも、数個しか製作していない限定品を無事に購入することができるほどだった。

ここから少し、僕なりの意見を述べる。
ゲームマーケットは面白いボードゲームを安価で購入できることばかりが目的、では無い。
これまで、SNSと作品越しに制作状況を応援していた製作者の方々が、今まさに眼前にそびえ立つことの嬉しさは、僕にとって商品を手にすること以上に多くの感情が刺激される。
ブース越しに、製作者一人一人の笑顔が輝いている。
説明をしながら、試遊をしながら、ともにプレイを続けながら、眩しい光の粒が周囲をまとっている。
製作者の方々は、皆、この日のためにギリギリまで努力を続けていらっしゃったのだろう。
その笑顔あふれるブースに、あたかも菜の花に集う蝶々の如く、多くの人が惹かれ、吸引されていくのだ。


買い物もそこそこに、今度は挨拶を周る。
電飾が迎える大きな企業ブースより、ここでしか出会う機会のない一般ブースの方が、個人的な滞在時間は長かったように思える。
効きすぎるほどの空調にまくった袖を戻しながら、愛想の良いブースではついつい長居し、僕は昼食も忘れ、日頃Twitter上でしかご挨拶のできなかったブースを転々とハシゴして回った。


ある程度の買い物とご挨拶回りを済ませた僕は、事前に約束した「ゲームNOWA」ブースのお手伝いへと向かうことにした。
「なにわのクニツィア」こと、かぶきけんいちさんがご挨拶に回る間、ブースにて物販の代役を務めるという大役を仰せつかったのだ。

この日も「特製ダイスタワー」や「宇宙(そら)逃げろ 第2版」など目玉となる商品は午前中であらかた完売し、残すはテーブルに数台だけが残された新作「ワードミノ」と、予約品の受け渡しのみという状況だった。
昼前であろうとも、人気作を求めて客足は絶えない。ワードミノの山は瞬く間に崩れていく。
予約品を手渡す間も、かぶけんさんにご挨拶を、と、多くの方がブースに訪れ、その都度「(力不足で)申し訳ございません…」と深々頭を下げる僕。
その脇では試遊の方も絶賛稼働中で、7文字以上完成となるチャレンジも「あしかがたかうじ(8文字)」を完成させる猛者が現れたほどの人気ぶりを博した。
ブースの傍らできびきびと動く、同じくゲームNOWAの「かえで」さんの手を借りながら、つたない支援を終える。
ゲームマーケットに限った話ではないが、今後無理なくブースを運営するにあたり、今後ワンオペレーションの体制では多くの面で限界が生じる、と痛感した。

1日目が終わり、購入品で膨れ上がったトートバッグを抱えつつ会場を後にする。
明日が本番だというのに、荷物の重さと外の熱で、体の中から外から、すでに疲労が隠しきれない僕。
帰り際のコンビニで肉系統の冷凍食品を買い込み、明日の準備もそこそこに、心配を押し殺すかのように無理やり布団に潜り込んだ。当然、眠気が訪れるはずもなかった。



二日目の朝。
この日も気温は30度を超えると予報が上がる。
昨夜の疲れを残したまま、多からぬ睡眠を確保できた僕は、当日の荷物ではちきれんばかりのキャリーケースを担ぎながら、一路、りんかい線に乗り込んだ。
前日も体感したことではあるが、朝の時間帯は公式のアナウンスで懸念されたほど携帯の電波は悪くはなく、少なくとも準備中の時間帯は室内中心部でも十分に電波を拾うことができた。
おそらく人がまばらのこの環境下でのテスト運転ならば、電波や空調といった話は設計者の設計通りだったに違いない。
まさに机上の空論、事件は会議室で云々、といった「お台場らしい」言葉が思わず口をつつく。

そそくさと荷物を探していると、隣のブースであるEJIN研究所のEJINさんが先に到着しており、きょろきょろする僕に段ボールの場所を教えてくれた。
今回、前回大阪の石膏粉末様、など、僕自身が大きな声を上げる、周囲からすれば実に「はた迷惑な」ブースだけに、周囲の方々の暖かい御理解を頂戴できることが何よりの支えだ。

設営中にいかラジのいかさんが現れ、助っ人として急遽ブースをお手伝いしてくださるという。
今回、フォロワー諸氏にも内密としていた当ブースの「隠し球」だ。
大物助っ人の登場に僕は深々と頭を下げ、当日は試遊台の問題読みをお任せすることにした。

AM10時、二日目の拍手が湧く。
ブースの中から人の流れを観察する。
初日と同様、せきを切ったように多くの人が向かう先は、隣のAフロア、企業ブースだ。
走らないでください!というスタッフの声がしきりに飛び交う。

昨日も似たような状況だった、そういかさんは話す。
並ぶ人数の大小はあれど、当初の目的(それは主に購入だろうと考える)は企業が販売するゲームマーケット先行販売品や、海外で話題となった作品の限定販売などの目玉商品だったのだろう。

程なく、隣のEJIN研究所に長蛇の列が形成される。
「いらっしゃいませ〜!」の声が空振りすると予感した僕は、声を止め、しばらくその列の成り行きをぼんやりと眺めていた。
列の流れは、完売報告の上がる10時30分ごろまで続いていたかと思う。

僕のブースは、極めていつも通り。
長打ができることもなく、予約された方々がパラパラと訪れる。
昨日お手伝いをしたゲームNOWAのブースで、購入を求める方が引きも切らず訪れる状況を目の当たりにしていただけに、少しだけ心がチクリとした。
そんな小さなトゲは、売り込みの声を張りあげることでごまかすことにし、いつも以上に大きく声を張る。
「ボタンを押していきませんカァー!」
空振り、めげることなく、再度声を張り上げる。
「タネを蒔いたからな。あの人はまた戻ってくる」
いかさんは気落ちした僕の表情を悟ったのか、そんな言葉を時折かけてくれた。
早押しボタンに、クイズ、なぞなぞ、4コマといった小冊子…。
…ボードゲームを目当てに来場された方からすればおおよそ見当もつかないブースに映ったかもしれない。
テーブルに積み上がっているものは紛れもなくクイズやなぞなぞの「本」ばかりである。

だから僕は「笑顔」を大切にした。
今でも自分の作品を眺めると、我が子のかわいさにニヤケ顔が抑えられない。
今回の新作3作品は、どの作品も2ヶ月前の大阪の時点では、完成どころか、他でもない自分自身が「できるはずがない!」と匙を投げかけた作品ばかりだった。
笑ってブースに立ち、笑顔で商品を説明し、「楽しんでくださいね!」と言葉を添えて商品を手渡す。
ゲームマーケットを何よりも楽しみに来場された方へ、僕からもその楽しさの欠片を届けることが、ひとえにこのブースに課せられた使命のように感じたからだ。

喉が枯れる。水が欲しいけれど、自販機はブースを隔てた屋外に位置する上に、トイレも少し離れた場所にある。
「のどぬーる」をのどに吹き付け、わずかな水分で喉をうるおす。
疲れていたかもしれないが、脳内に広がるランナーズハイのような心地から、残り3時間くらいならこのテンションを維持できるかな…できるよな!と半ば脅迫めいた言葉で自分を奮い立たせた。

当ブースは、終始大きな列形成がなかったものの、後半はコンスタントに人が集まった。
早押しボタンの効果は大きく、いかさんの読み上げる問題に多くの方が足を止め、脇で思わず「正解っ!その通りっ!」と声を上げる僕が、少しオーバーとも思えるくらい相手を褒め称えた。
「クイズって、面白い!」
その声を耳にするたびに、僕はえも言われぬ快感に陥った。


17時、拍手とともに閉幕。

…走りきった。

閉会の拍手とともに、目の前にグワワッと襲いかかる疲労感。
結果は、良くもなく悪くもなく「いつも通り」頒布数の増減に変動はなく、本当に「とんとん」の結果に終わった。良い言い方をするなら、興味を持った方にはすべからく手に取っていただけのだ。

確かに今回、制作活動一辺倒だったがゆえに、大きく宣伝・広報と言った諸活動に時間を割くことができなかった。
しかしながら「前回も買いました」「楽しみにしてました」といった声を聞くことができた。
それら声の一つ一つが、そのままの形でエネルギーとなり、その逆に、こちらから相手へと声を届けることができる。らせんのごとくどこまでも続く、僕が「幸せの連鎖」と呼んでいる、ゲームマーケットの醍醐味のひとつだ。
そして前回大阪でも実感した「人と人との繋がり」
今回も「助けに回ります」「何かあったら声をかけてください」といった力強い声援を立ち寄ったブースの先々で頂戴し、その都度、涙がちょちょ切れた。
「横のつながりを大切にせなな」
そうだそうだ、もっとつながりを意識しなくては。
そう考えを巡らせた。


感慨にむせぶ間も無く、僕は最後の空元気を放出させ、荷造りと、感謝の言葉を伝えに回った。
お台場はとっぷりと日が落ち、観覧車のイルミネーションがひときわ眩しく目に飛び込んだ。
古いスマートフォンは残り20%ほどの充電を残していた。これが家路に着くまでの最後になるのかな、と、僕は面影のなくなったテーブルの写真に「ご来場ありがとうございました」の言葉を添えてツイートを流した。

「早く、早く、何かを作りたい…」
はやる気持ちを抑えながら、僕は頭の中で予定した「打ち上げ焼肉」も「ご苦労さんビール」も全て返上し、たぎる創作意欲を熱いままペン先にぶつけようと、帰宅するなり、また4コマ、そして感想ツイートのまとめ作業へと取り掛かった。
とはいえ、体は実に正直なもの。
寄る年並と日頃からの疲労には敵わず、作業途中から始まった万屋楽団様のツイキャスライブ中に、スタイラスペンを握ったまま寝入ってしまったのだった。
MCサンジョウバさんの「寝てください」の声がかすかに耳に残っていた。


一夜明け
布団の中で昨日のことを振り返る。
バカ売れした訳でもなく、かと言って、大きく売れ残った訳ではなく、本当の本当に、いつも通りの売れ行き。
印象的だったことは、前にも拙著のクイズ本を購入された方が、再びリメイクのクイズ本を手に取ってくださったこと。
そして、バラではなく、新刊をまとめて購入された方が多かったこと。
実感はないけれど、これが「信頼を買ってくださる」という一つの形なのかもしれない。

そこで、屋号を変えることにした。
「番次郎書店」と命名したその経緯は、このブースが書店のような近所の商店街のように、街中に欠かすことのできない存在となるような、そんな意味合いも込められている。
この看板を汚さないためにも、さらに良い作品を、さらに面白い書籍を、これからも手がけていけたらと思う。
「ゲームマーケットに行くと、いつでも本を売っている」
番次郎書店が会場の片隅で、来場者の方にそんな言葉で気にかけてもらえる、それくらいちっぽけな存在でありたいと願う。

今回のゲームマーケットで、ひとつ心残りだったことがある。
今回も「同朋の友」を見つけられなかったことだ。
ボードゲームでクイズの本を作る、語り合える、そんな「同朋の友」を見つけきれなかったことだけが心残りだ。
ボードゲームをテーマにしたクイズ本に関して、ゆっくりと語り合えるような仲間を、次回秋以降も探し回ろうと思う。


ネット上では早速多くの議論が飛び交い、次のゲームマーケットに向け、カタツムリのごとくゆっくりと動き出している。

一方で僕は?というと。

今何がしたい?と問われたならば、「旅がしたい」と答えるだろうか。
昨年4月に現在の地に引っ越し、そのまま制作に没頭し、長らく休むタイミングを掴み損ねたまま、あれよあれよと今に至ったからだ。
時間の隙間があるとすぐに作業を入れてしまう、典型的なブラック気質の僕。
名古屋に、関西に、福岡に、長崎に、東北に、沖縄に、北海道に…etc、お世話になった方一人一人へ、転々とご挨拶をする旅。
そこで蒔いた新たな種が、芽を出し、花を咲かせ、タンポポの綿毛のように、風に乗り、また見知らぬ地の誰かの元で、小さな若葉を芽吹かせるのだろうか。

そんなことをぼんやりと考えるうちに、僕はその日のゲーム会の時間を気にかけながら、うとうとと二度目の眠りに落ちたのだった。



<了>
ご視聴ありがとうございました。

2019年5月18日土曜日

作品はアウトプットで磨かれる〜4コマ漫画制作日誌〜

今回のゲームマーケット春は、本当に広報らしい広報活動もそっちのけで制作の方に勤しんだので、せめて自分のブログの中だけでも宣伝させてください。

なぞなぞの本、クイズの本、とともに、もう一冊、わたしのブースの片隅を賑わす本がある。

「きょうもボドびより。」と称された4コマ漫画は、制作者である私の「イラストが描けるなら、漫画も描けるのでは?」といった今考えると本当に各所から馬鹿だなと笑われそうな試みから派生した作品だ。




言うは易く行うは難し、何はともあれ、思うがままにペンを走らせ、ツイッターに公開してみると、意外に多くの暖かいコメントが寄せられた。

寄せられたコメントで調子に乗った私は、その後も毎日1本、ただでさえ時間のない小冊子制作の合間を縫って書き綴り、ゲームマーケット大阪で第1巻を頒布するに至った。





兼ねてからの夢、と周囲には漏らしていたが、実を言うと、描いた本人すら、夢にだに想像できなかった代物だ。
なにせこの私、半年前など、イラストなんてろくに描けなかった人間だ。それが形はどうあれ、漫画の本を出すことができたのだ。

まさに自分の趣味全開で出した本にも関わらず、手に取ったり、購入してくださったりなどの神様はいらっしゃったのだ。
千葉県のボードゲームカフェ「カラハンダ」様では店内用に設置しましたとツイートが上がり、喜び勇んでお礼に参ったこともあったくらいだ。


空想を形に変えることを、人は見くびることもあるだろう。
「それくらい(やろうと思えば)誰でもできる」
そんな言葉が、時折添えられる。

余談だが、学生時代に古文を勉強したときのこと。
「同じ日本語だからなんとかなるよね」
といった声をあげ、同級生の中にはハナから古文の勉強から目を背ける者もいた。
そんな学生ほど、「なつかし」という言葉の意味を問う問題に、ついつい「童心に帰る」を(いわば、制作者が「こっちに引っかかってほしい」と誘導する巧妙な選択肢)選んでおり、国語教師のニンマリする表情を試験の都度、目の当たりにしていた。ちなみに正解は「心惹かれる様」である。

閑話休題、思ってた、考えるにとどまっていた、なんて、正直私はさほど大きく評価してはいない。
考える、その次のステップは、何かに書き出す、そして披露し、修正を繰り返し、頒布する、
作品はそうしてアウトプットを繰り返し、自分の目ではない多くの視点からの意見を浴び、洗練され、磨かれ、成長を重ねていくものだ。

その際のステップは決して欣一化されたものでは、ない!

考える、と、公開する、この似て非なる二つの間に、どれだけ大きな段差があることかを、意外と多くの人間が「見誤っている」
たとえ目測を誤ろうとも、それら上がるにつれて段差の大きくなる障壁に、くじけることなく真っ向から立ち向かい、時に厳しい現実や辛辣な意見を浴びながらも、めげることなく不屈の精神で立ち上がり、また次の段へと這い上がる姿。
それは誰の目から見ても立派な姿ではないだろうか。


私の1巻は、たしかにゲームマーケット前、大きな反響もなく、当日は細々と頒布するにとどまり、その後も厳しい言葉を浴びる一方だった。
それゆえに、掛け替えのない「楽しみにしてました!」「面白かったです!」といった声援が、自分にとってひときわ印象に残るようにもなったのだ。


結果、私はくじけなかった。
喉元過ぎたる熱さとやらで、翌日から早速4コマを描いた、描き続けた。



そしてこの春、質・量ともにボリュームを増した2巻を完成させることができた。
あれからイラストも少しずつ勉強し、表紙画像も我ながら見違えるほど飛躍できたものかと自負している。


ボードゲーム知識ゼロでもなんとなく読めるボードゲームの漫画です。
よろしくお願いします。
(テレビ東京「勇者ああああ」のキャッチコピーっぽく)


4コマは現在も引き続き連載中で、5月18日、連載100話目を迎える予定となる。







2019年5月12日日曜日

ゲームマーケットは浄化を促す場

新しいことはそれ自体が魅力的だ。
新しいボードゲーム、新しいルール、新感覚、新機軸…
新しい、新鮮、というものは、その言葉だけで魅力的だ。

ボードゲームに限った話ではなく、新社会人、新番組、新成人、等々、新しいものそれ自体が多くの人を魅了する。
新しいものは、すでに在るものに対して、違う風を取り入れてくれる。
これまでに多少の食傷を感じていた人にとって、新しいものは、期待感も含めて何よりも貴重な存在だ。

古いものは、それ自体が魅力的だ。
昔から存在するボードゲーム、古来より伝わる伝統遊戯、すでに一般語となったルール…
古き良きものは多くの人を魅了する。

ボードゲームに限った話ではなく、看板役者、御意見番、生き字引、等々、いつもの存在は「そこに在る」だけですでに魅力的だ。
古き良きものは、組織に抜群の安定感をもたらす。
多少雰囲気が乱れようとも、最終的には絶対エースとなる存在がなんとかしてくれるであろうと、皆が期待を寄せる。
それだけで尊敬に値されるのだ。


対象となる二つを記述した。
どちらが悪いとも、どちらかに顔を向けろとも、そんな極端な話ではない。
強いて挙げるならば、その「両方」だ。
「老害!老害!」と新しい意見ばかりを追いかける自覚があるならば、古き良き作品に目を向ける必要があり、「昔は良かった」と古き良きものに固執していると自覚があるならば、最近話題の作品の傾向に目をやるものと考えている。

とある老舗のラーメン屋の店主が話す。
長年同じ味を継続させるためには、客に「変わらぬ味」と気付かせないよう、微妙に味を変化させているのだと聞く。
長年同じ味を続けると、客の方から「(味が)変わった」と意見されるそうだ。
時代の趨勢とともに、グラデーションのように微妙に変化する客層を柔軟に捉え、その都度、自分の在り方を変化させる、
それは商売に限らず、地球上の生物が厳しい時代を生き抜くために学んだ、ある種の処世術とも言えるのではないか。


翻って、ボードゲームの話。

ボードゲームを(決まったお店で)買う、(いつものカフェで)遊ぶ、ばかりでは、やはり自分の中の「情報」がどうしても偏ってしまう。
そこで、五感をフルに使い、ボードゲームを最大限に楽しむ日が1年に1度でもあれば、自分の中の凝り固まった筋肉が解きほぐされることだろう。


ゲームマーケットが2週間後に控えている。
日本最大規模を誇る、ボードゲームの祭典だ。

開催スタッフの方は「体験しに来てください」と口にする。
その真意を察するに、買うだけでは物足りない、目で、耳で、肌で、(時には)味や鼻など、五感で体感し、自分の中の「ボードゲーム」の感覚を自浄するための場ではないかと考えた。

日本最大級だけに、会場内にはそれこそ多くの参加者が集う。
有名芸能人、漫画家、プロ棋士、アイドル、ポッドキャスター、ユーチューバー、もちろん、製作者、イラストレーター、有名ブロガー、ボードゲーム会主催者、カフェ運営者、ツイート上で見かける大勢の方々、等々、自分より数多くのボードゲームに触れているであろうそんな方々と、ご挨拶でき、時に試遊台を囲み、ともにボードゲームについて語ることのできる、そんな稀有な体験イベントが他にあるだろうか。


そして何より、私は二日目となる日曜、ブースの人間として提供する側に立つ。
前回大阪でもそうだったように、私のコンセプトは「一体になって楽しむ」ことである。
売ること、買うこと、それ自体は後回しでもいいから、せっかくいらっしゃった方々と一緒に「遊んでもらう」「体験してもらう」そして何よりも「楽しんでもらう」ことを主軸に置き、立ち寄った方々が笑顔で立ち去っていただけるような、そんな運営を組み立てようかと考えている。


ゲームマーケットに来場された方が「あれだけ疲れたのに、早く帰ってボドゲしたい」と感じたならば、それは会場内できちんと浄化された証ではないか。今風の言葉で「デトックス」とも言うのだろうか。

私も何かをつかんでもらえるよう、これからの短い間に、一つでも面白いトリガーをこれから用意しなくては、ね。

2019年5月7日火曜日

気楽に頑張ります-41歳の抱負に代えて-

ボードゲームのクイズの本を作り、3年目となる今年。

勢いに任せ、2冊の本を出した。前後編に分け、1000問の問題を上・下巻に分けて収録した。
12月のゲームマーケット秋を終え、次回春、当時5月の開催まで制作は実質3か月弱。
昨年も締め切りギリギリまで問題の制作に明け暮れ、苦心しつつ何とか無事に続編を一冊作り上げることができた。

環境がガラリと変わり、記録的な酷暑にもめげず、その年のゲームマーケット秋、レイアウトを大きく変えた一冊を無事に頒布することができた。

同時並行して、翌年3月のゲームマーケット大阪に初出展の申し込みも済ませ、翌年開催されるゲームマーケット春の前に、何か作品を出すことはできないか、と、ぼんやり考えることにした。

秋が終わり、神戸、北海道、と小冊子を広報に上がる中、次回作への構想がぼんやりと浮かび、ノートにメモをまとめるうちに、空想が現実味を帯びてきた。

年末年始を返上し、まさかと思った新刊を、頒布することができた。
しかも漫画本も含め、2冊も。

それが3月中旬の話。
次回春まで制作時間は、残り1ヶ月半。

しかしながら、それでも小冊子の入稿を先日無事に終えることができた。
漫画本、なぞなぞ本、クイズ本
リメイクとはいえ、3冊同時刊行だ。



これが私、番次郎ブース出展の簡単な振り返りだ。

3年目となる今年、令和元年、年も41を迎えた。
これからは目もかすみ、肩が、腰が凝り固まり、歯や髪が抜け落ち、老化も急加速するのだろう。
いつまでも若くはない、ということだ。

それでも周囲のボードゲーム製作者の方に限らず、歳を重ねるに従い、良質な作品をどんどん提供される方が大勢いらっしゃる。
いつまでも歳のせいだと言い訳ばかりしてはいけない。


進むこと。歩き続けること。
無理をせず、できる範囲で「歩き続ける」うちに、見えない筋肉がついてくる。
「遊んでいるうちに自然と強くなる」
それはボードゲームを遊んでいる方ならば自ずと理解してもらえるのではないだろうか。


春先になると、時折、硬いアスファルトを突き破り花を咲かせるタンポポを道端で見かける。
強い力ではなく、弱い力で、何度も何度も押し上げるからこそ、織りなせるのだ。

北海道ボドゲ博の出展を決めた際、数名の方から
「有名サークルが名乗りを上げてくれました!」
と、私の名前を取り上げてくださった。
私自身、そんな自覚もなく、無論作品自体が爆発的に売れたわけでもない。
とはいえ、向こうはお世辞でもないそぶりだ。
確かにそこには「幾らかの知名度」が、私の知覚しない箇所で存在していたのだろう。
それは作品自体の知名度云々ではなく、何かしら「継続すること」で成し得られたものではないかと考える。

「継続できること」の強みとは何だろう。
ひとつに、それは「安心感」ではないだろうか。

ブランド力、という言葉にも置換できるこの言葉は、いわば「このサークルの、この人の作品ならば間違いなく面白い」と多くの方からの「信頼」で形成されている。
有名作の続編、有名ジャンルの一括り、好きなジャンル、等々、十人十色で形作られるそれらの「安心感」は、作品に多少の「ブレ」が生じようとも、根強く残ってくれるものなのだ。

もちろん我々人間はそれら「安心感という名の信頼」が、作品の度合いどころか、何気ない一言で、いとも簡単に崩れることも重々承知している。

だからこそ、大切にしたい。

私が制作に傾注した1年で欠けていた物、それは周囲に対する配慮、心配りだったのではないか。
「良い作品を作ることが、何よりの恩返しだ」
そう信じて疑わず、自分を犠牲にし、これまで作品を磨き上げてきたのだ。


令和元年 5月6日、41となる誕生日を迎え、その考え方を改めようと思う。


余裕を持つこと。

それはデザイン・レイアウトを学ぶうちに身につけた「余白」の持つ力だ。

これまでの小冊子は物量で圧倒し、いわば威圧的な雰囲気を醸していたのではないか、と反省する。
今回春の作品ではデザイン・レイアウトを一新させ、デザイン全体に「余白」を意識した。

そして何より、身を粉にして相手に尽くす姿勢から、こちらにも幾許かの余力が生まれるような予算設定を考慮した。

次はないかもしれない、では、先に挙げたような「安心感」は得られないと考え、「もう無いかもしれない」の不安を煽ってまで購入するべき作品作りでは無く、いつまでも続き、次回作も請い願われるような、そんな作品を私自身も作りたい。
そのためには、やはり中身を読んでもらいたい。中身で評価されたい。
レイアウトも含め、余裕を持って作品作りが提供できるような、そんな制作環境を整えたい。


41になり、前回、私のブースのコンセプトを「初めての人が立ち寄るギルド的なブース」とした。
そんなルイーダの酒場的な、世界樹の迷宮では金鹿の酒場のような、そんな立ち位置で、この一年は頑張りたいと思います。


こんなブースで、こんな人間ですが、よろしければ気楽にお付き合いくださいませ。



2019年4月20日土曜日

インプットとアウトプット

漫画家あやめゴン太先生のツイートにあった何気ない言葉だったと思う。

「なんでこんなに本があるの? それはね、本が好きだからだよ」

好きだから、必然的に、その総量は多くなる。
当たり前のようで、意外とそうでもないことがあることに気がついた。

ボードゲームが好きで、好きが興じて、ブース設営3年目となる今年、またも「3冊の新刊を出します」などと無謀なチャレンジを行う自分。
読みたい本はたまり、遊びたいボードゲームも積み重なり、できるか否かの気持ちばかりが焦る中、刻々と時間ばかりが過ぎていく。
周囲のテストプレイ会などのツイートを横目に、名門大学受験に匹敵する程のデスクワークが続く自分。
「好きなことって、何?」という錯覚に苛まれそうになると、邪気を払うかのようにかぶりを振って、また前を向く。
この頃はそんな生活を送っている。

量がその人を支える。
ボードゲームが好きだから、その人には、それだけのボードゲームの量的な数もあれば、または知識なり経験なりといった知的財産のようなものも存在する。
本が好きだから、本をたくさん所持しているし、必然的に、本をたくさん読んでいる。
TRPGのステータス振りのように、ある人はこの値が少なく、ある人はこの値が多い、それらを鑑みた上で、パーティ内での性格や役割が形成される。

逆も然り。
少なければ、やはり、何もできない。
手にする物量が少なければ、できる範囲もそれだけ限られるだろうし、また、インプットする量が少ないならば、絶対的な経験値を持つ人間に圧倒されてしまうだろう。

「好き」が持つ特徴の一つに、インプット、つまり内面に取り入れられるがゆえに、なかなか自分では見えにくい点ある。
自分で「**が好きです!」が見えにくい、自覚しづらい、自覚できるまで時間を要するのでははないか。

インプット、体内に取り入れることとは、自分の中に多くの「コト」「モノ」を「取り入れる」ことにある。
取り入れてしまうということは、体内で消化され、自分の中のパーツとして形成され、細胞の一つとして体内に組成される。
自分の中のひとつとなるのだ。
自分の中のパーツとなったものは、自分ではなかなかその利便性に気がつきにくい。
「人間は腕が二本あり、指を自在に動かせる」を、日頃から幸せだと感じている人は少ないのではないか。

では逆に「アウトプット」はどうか。
アウトプット、他人に向けて「主張」することで、自分の存在を他に「アピール」することができる。
「自分はこうなのです」「自分という生き物はここにおり、こんな形をして、これが好き、嫌いなのです」
常日頃から発信する言葉や言動などで、周囲の人間に「アウトプット」することで、自分の存在を「インプット」する役割を果たしている。
「ああ、他に比べて、自分はこうだったのか」「やっぱり私は**が好きだったのか」
アウトプットすることで、自分の「好き」を主張することで、改めて強く認識できるのだ。

好きなことを主張することは、深呼吸することに似ている。
窓を開けたら空気は「逃げ」たのちに新鮮な空気が「入る」
苦しくなったら、まずは呼吸を「吐く」
吐くだけ吐いたら、少しづつ「吸う」
他人ごととは言えないが、好きであることの回答を積極的に仰ぐのではなく、ゆっくり、無理せず、自分のできる範囲内で吸収すれば、自ずと自分の行なった回答はやってくる。
言うなれば、苦しみながら呼吸を行うことはない。
回答に無理をして急を寄こそうとするから「無理」が生じる。
それでもやはり、インプットする時点では見えにくい点を他人の目線で評価される嬉しさや喜びには到底かなわないのですけれどね。


ゲームマーケット春2019開催まで残すところ1ヶ月あまりとなった。
多くの製作者が大詰めを迎え、積極的に広報活動を行い、自分の作品をアピールしている。
「見てください!遊んでいってください!」
私個人として、ゲームマーケットはモノを売り買いする場、という目的は二の次、3、4、5の次ぐらいだ。
モノを買う立場として、それら製作者の方々の「好き」を全身に享受する場として
一方で、モノを売る立場として、私の「好き」を全身全霊でアピールする場として
臨む所存だ。

だから、今は必死でアウトプットを続けるしか、ない。
自分の中に蓄積された「好き」の総量をあらん限りに放出させ、小冊子にしたため、エナジーみなぎる小冊子として上手く昇華できるよう、最善の努力を行うより、他はない。
それが何よりのアウトプットであり、ひいては自分の「ボードゲームが好きなのです!」をアピールできる一番の方法ではないだろうか。


そんなことを考えながら、今回もまた多くの製作者様からたくさんの刺激を受けるために5月25.26日とビッグサイトにお邪魔したいと思います。
私は日曜L02ブースの片隅で、ひっそりと本を売りつつ、ボードゲームのクイズを読んでいることに致します。

よろしくお願い致します。



2019年4月14日日曜日

楽しむために勝つ、とは。

最近は作業のお供にポッドキャストやツイキャスライブ等を拝聴することが多い。
その中で感じたことを話題として提供したいと思う。

先日のおしゃべりサニバ第148回で「好きすぎて上手くなり、相手がいなくなった」という内容の話題で盛り上がっていた。

将棋や囲碁など、競技人口が多い遊戯ならば、上を見上げるとキリが無い分、好きなだけ成長でき、好きなだけ身の丈に応じた相手が存在する。

しかるに、好きなボードゲームとなると話は別だ。
いくら好きなゲームであろうとも、同じゲームに付き合うならともかく、強くなりすぎた相手にむざむざ負け戦を挑むような相手と、再び一緒に遊びたいと思うような、強靭な精神の持ち主など極めて稀だろう。

何度か引用したトイバーの言葉「またあなたと一緒に遊びたい、そんなプレイをしましょう」
そんな言葉が一瞬頭をよぎる。


が、それも杞憂であることに気づいた。


少し前に、こんな漫画を描いた


本当に上手いプレイヤーとは、どういったプレイスタイルを取るのか。


それは「勝って楽しい」ではない。
「楽しむために勝つ」だ。

以前オセロ有段者の方とオセロでお手合わせをする機会に恵まれた。
序盤はこちらが圧制だった。
にも関わらず、終盤からあれよあれよと駒を返され、気がつけば盤面は相手の駒だらけ。見るも無残な形での完敗を喫したのだった。

「オセロでは、序盤なんて関係ないですからね」

盤面の毛バタがハゲてうっすら木目が見えるほど、何度も何度も使い込まれたであろうオセロの盤面を、私はジッと凝視しながら、その方のお話しを伺った。
丁寧に、笑顔を交え、一手、一手と解説してくださる。

「ここでこっちを置きたくなるでしょ?実は隣のこっちに置くとですね、ほら!実はここで互角になってたんですよー!」


プロの技量とは、数かぎりない選択肢の中から最適解を見つけ出せる、ばかりではない。むしろ「AかBか、究極の選択」といった二択、三択の盤面を何度も何度も展開するうちに、そこから最適解ばかりを巧みに選択できるプレイヤー、それこそが私の思う「プロ」ではないかと考えた。


余談だが二択もバカにはできない。有名な話に、0,1mmの紙を何回折り曲げると富士山と同じ高さになるか、といった数学の問題がある。
答えはたったの(?)24回。
細部計算は省略するが、2×2…×2を続けると、24回折ることで、折り紙程度の厚さだろうとも富士山の高さに到達できる、という計算上の話である。

閑話休題
オセロの盤面では一人30手、最初の定石はあるかもしれないが、常に二択と考えても、その数は5億通りに及ぶ。

オセロに限らず、ボードゲームや囲碁、将棋の上手い方は、その中で「いま自分や相手が一番楽しめる方法とは何か」を常に模索し、相手がどう考え、どうしてここでこんな手を打ったのか、といった全体まで俯瞰できる余裕と余力があるからこそ、なのだろう。


同じeスポーツつながりで「ぷよぷよ」なども、自分の状況だけでなく、次に落ちてくる駒や、相手の状況を即座に判断する技量が、上級者ともなると要求される。

それらを踏まえた上での感想戦は、同じレベルの相手より、やはり上級者とのやりとりの方が面白い。
自分では「なんとなく」と思って打った手が、実はもう少し冷静に考えて別の手、往々にしてそれらは二択に絞った際に最後まで迷った挙句、最後に切り捨てた方の手だったりするが、の方が妙手だったりする。
その「気づき」があるから面白い。楽しい。
単に自慢話を聞かされたり、自分のダメさ加減を言及されるだけの感想戦なんて、勉強目的でない限り、つまらないではないか。

それは感想戦も含めた「一局全体」が、自分、相手、相互に楽しいからであり、自分だけではなく「お互いが楽しむために」ゲームが存在するからではないか。
そして上級者ともなると、その辺りの楽しさ(勝敗に左右されない、あくまで楽しむための、という意味合いで)を熟知しているのではないか。


先に挙げた言葉を裏返して解釈すると、「ボードゲームはやはり一人では遊べない」のである。
ポッドキャストの中でも話題に上がったが、勝ってばかりでは、やはりツマラナイ。退屈だ。
古典では退屈を「徒然(つれづれ)」と呼び、物悲しい、という意味と同義で使用される。
だからつい自分の自慢に走りがちとなる。
何気なく口に出た言葉が自慢に捕らえられ、その自画自賛が過ぎると、やはりつまらないどころか、神経を逆なでする恐れもある。
「あの人と(あのゲームで遊ぶと)どうせ負けるだろうし」「負けた挙句、自慢話聞かされるんじゃあな」
悪循環を断ち切るには、やはり「相手を思うプレイ」が必要とされる。
いくら人工知能が世界を跋扈しようとも、対人で繰り広げられる「会話のやり取り」や「思いもよらない妙手と、時に悪手も見せる奇想天外な展開との隣り合わせ」が混在する対局こそ、人工知能が到達できない、それこそアナログゲームが真の強みを見せる「人と人とのつながり」ではないか。


考えてみれば、美味しい料理が食べたい時は、自力で作る他に、腕の立つ料理人のいるレストランに向かえば、良い思いをすることもできるだろう。
美味しいレストランでは、その手腕をいかんなく発揮するシェフが腕によりをふるってあなたにディナーを提供する。
飾る言葉もいらず、一言「美味しかったです」があれば、それだけで相手も喜んでくれるに違いない。


「会話は知性のご馳走である」
最近読んだジョン・トッド著「自分を鍛える」からの引用である。
上手くなることで離れるには、といった問題の根底には、やはり当人の「勝って楽しい」が先行するからではないか。(もちろん競技・スポーツの「厳しさ」が持つ側面を「勝てなくても楽しむには」といった問題に展開させるとまた別だが)
それらを踏まえ、私の思うプロとは、相手に気づきと楽しさがもたらす「知性のご馳走を提供する一流シェフ」のような存在であり、いわばそれは「楽しむために勝つ」ことが念頭にあるプレイヤーのことを指すのではないかな、と思い、自分の目指すべき道もどうやらその辺りに眠っていることを再確認したのであった。




2019年4月7日日曜日

ふりだしに、戻りました。ー根本を見直すことで見えてきた世界の話ー

先日、POO松本先生というデザイン関連の先生の元、私の小冊子をビシバシと指導される機会に恵まれた。
約8時間余にわたる猛抗議は、時折涙ぐんでしまうほどで、強さの中に情熱のある指導であり、メモ代わりにと用意したノートはほとんどのページで黒ずんでしまった。

その中の一つを紹介したい。

ページを開けるなり、先生の口から出た言葉は
「で、これは誰に向けての本なの?」

もちろん、小冊子を作るからには自分なりにテーマを定めてはいたが、それではあまりに「漠然と」しすぎている、と指摘された。

「若者?初心者?子供?お年寄り?その辺りがブレてない?」

根本も根本、スタート地点の問題である。
私の小冊子が抱えていた問題は、主軸となる「骨組み」、大黒柱そのものがすでに揺らいでいた、というわけである。
言うなれば、この時点で「指導を受けるフィールドにすら上がっていない」とも言える。

あ、イタタタ。

クラウゼウィッツの戦略の本や、孫子の戦略の本やら、ビジネスでも活用できるだろうとあれこれ戦略の本を読み漁ったから、おぼろげにわかる。
「全方向同時打撃」なんて構えていたら、あっという間に兵站組織が瓦解してしまう。
敵が企図する目的をしっかりと見定め、時に応じて刻々と変化する戦況をよく観察し、我に乗じる敵の弱点とする方向に、あらん限りの火力を指向する、
そんな戦闘の基本・基礎すら“わかっていなかった”のだ。

闇雲に頑張ることで、なんとなく「許された」気になっていなかったか、自分。

指導を受けながら、心の中の重い塊がズシン、ズシンとのし掛かり、その上からさらに厳しく飛び交う、細かなデザイン面での指導…。

辛さ、厳しさに耐え忍びながら、その日の夜、もう一度、乱雑に書き留めたノートを見返す。
デザイン云々の話ではない。
これまでの自分が残してきた、雑さ、荒さ、その他諸々の「甘さ」が、やはりわかるかたにはお見通しだったのだ。
恥ずかしさのあまり、次回作成の本など頒布するにおこがましい思いもした。
体調のせいだと言い聞かせ、早めに就寝し、1日だけ気持ちを寝かせることにした。


翌朝、
乱雑な文字のノートはそのまま。
頭の中だけは余計な雑味が少し抜けたのか、幾分カラになったような、すがすがしい気分。

パソコンに向かい、昨日の事項を一つ一つ修正する。
構造を一からやり直す作業に深いため息が溢れる。手が止まり、なかなかキーボードが進まない。


先生は5月に新刊を出すことを「馬鹿か!死ぬぞ!」と応じた上で「よし、死ね!」と承諾してくださった。
頑張ることしか取り柄のない自分が、また一からスタートする、その期限は実に1ヶ月を切ってしまった。
材料はあるが、時間も体力も、まして余分な資金もない、
そんな中で本当にできるか否か。今回も大勝負を強いられることとなった。
毎回毎回、本当に私は馬鹿だと思う。

無理だ、と思ったらそこで糸が切れてしまう。
だから、コツコツと続けるしかない。
一歩一歩、と歩き続けているうちに、ゴールも見えてくるだろう。
今はまだ、見えない先のことなど考えず、目の前のハードルだけを、一つ一つ、着実にこなしていく、それだけだ。


まずは「主軸」ターゲット層を見直す作業から取り掛かった。


一つ、皆さんに約束したいことがある。
それは、作品を頒布する中で、それらの質を確実に上回ることだ。
決して過去作の「焼き回し」などといったことはしない、したくない。


そのためにまず、問題数の選別を行うことにした。
これまでの小冊子では「数の多さ」を何かしらの武器にしていた気がする。
どなたかが(小冊子の件ではないけれど)話していた。
「あまり多すぎても、見やしませんよ」
だから、問題数を半分ほど一気に減らす作業を行うことにした。
いわば果物の摘果のような作業だ。
問題数が減る代わりに、一問一問のクオリティが高く、甘い、どの問題も自信を持ってオススメできるラインナップを揃えることができる。

そして、ターゲットをさらに絞ることにした。
言うなれば、これまで「老若男女、どなたでも楽しめます!」と、ぼんやりした表現で濁したターゲット層を、ギュッと絞ることにした。
「初めての方がボードゲーム知識を蓄えられる一冊」
初めての方が読むことで、ボードゲーム・アナログゲームの知識をそれなりに身に付けることができる一冊、と、銘打つことにした。
これはアナログゲームのなぞなぞ本2巻や4コマの2巻も同様のコンセプトだ。


「いらっしゃい、ここは初めての方が装備を整えるお店だよ」
そんな基本コンセプトで、番次郎ブースは、ゲームマーケット春、そして北海道、と、挑むことに決めた。


そして、大事なことをもう一つ。

ゲームマーケット春が終わったら、少し間を取り、作品をじっくり練りたいと思う。
有り体に言えば、北海道ボドゲ博に向けての新刊は、今は出す予定はない、です。ごめんなさい。

これも先の「クオリティ維持」の話につながる。
今回の大阪新刊、自分なりにIllustratorもインデザインも勉強し、小手先の技を駆使し、さらなるパワーアップを図ったつもりだった。
が、やはり先生の目はごまかせなかった。
「大阪新刊、突貫工事で作ったろ。前の(BoardGameQuiz本)方よりも、クオリティが落ちてるぞ。」

だから、というわけではないが、もっとインプットしたい。もっと気持ちに余裕を持ち、小冊子制作以外にももっと色々な面で、多くのことを学びたい。ポッドキャストも作りたいし、本もたくさん読みたい。買ってから遊んでいないボードゲームだって山のようにある。
ボードゲームが持つ「楽しむ」ことの根本を忘れることのないよう、しっかりと土台を踏み固めたい。何よりもまず、求職のあても探さなくちゃね。



原点に立ち返り、言うなれば、スタートに戻ることで、改めてその根本を見直すことができ、その先でようやく見えてきた、自己の現実と、行く先の未来。
今回の講義で学んだ新たな視点をもとに、自分の持つ可能性、そして「一人だからできること」そして「表現するからこそ、見えてくること」決して良いことばかりではなく、キツく、つらい言葉の中から、磨かれる自分。
艱難汝を玉にす、と、自分に言い聞かせながら、とは言いつつ、時折お茶でも入れながら、余裕を持たせつつ、この先も「ボドゲクイズのひと」として、そしてこれからは「初心者の館のオヤジ」としても、その両面で頑張りますとも。



このブログも区切りがよく100件目を迎えることができました。
他の方とは違い、ボードゲームの紹介もなく、日々、感じたことを、長々と綴るだけのブログとなりますが、今後もゆるく続けていきたいと思います。
よろしくお願い致します。



2019年3月30日土曜日

「お金」という形の応援の話

お金に関する文章も絡めるので、その辺りを気にされる方はご了承ください。

思うところがあり、先日は連日、遠くに赴いた。

北海道へ、茂原へ、新宿へ、と、思い立ったが吉日とばかりに、なけなしの財布をはたいて、行くあても特に決めず、ふらりと旅に出た。

北海道ではかねてより応援していたハンドクラフト作家様の作品をまとめて購入、その後は札幌のゲームカフェ 「こにょっと。」様にて北海道ボドゲ博のお礼もかねてご挨拶し、店内で少しだけボードゲームを遊んだ。
申し訳程度にラーメンをすすり、その日の便で帰るという暴挙に躍り出た。

舌の根も乾かないうちに、その翌々日、千葉県は茂原市へと赴き、私の初漫画作品を展示してくださったというボードゲームカフェ「カラハンタ」様へご挨拶に伺った。
帰宅時間の関係で1時間も遊ぶことができなかったものの、笑顔が素敵で知的な店長、ユーモラスで美味しいコーヒーを淹れてくださった店員さん、また、平日夜にも関わらず集まった周りの方と、しばし大変楽しい時間を過ごすことができた。

その翌日は、新宿北口にほど近いBoard Gay.m Bar秘密基地様にお邪魔し、この日で卒業される、漫画「ゆるゆるボドゲバカ」を執筆された「きりんなべ」先生を送るが如く(とはいえ、全く湿っぽいものとはならず、単にボードゲームで遊ぶだけの会となってしまったが)花を届けにお邪魔した。


流石に連日の無理な移動が祟ったのか、翌日は身体がオーバーヒートし、布団から抜け出られなくなってしまったこと、周囲の方には本当にご心配をおかけ致しました。


遠出したいと思った理由は、意外と単純な話で、
「応援しています」の声を、直接相手に届けるためだ。

「遠方から応援しています」
「なかなかお会いできませんが、いつも見ています!」

いつの頃からか、私はそんな「遠方から」「またいつか」といった隠れみので、相手に贈り届ける応援の選択肢を、自ら潰していたのではなかったか。

もちろん現在の私は、求職中でお金もなければ、締め切り間近で時間すら無く、自己の身分を顧みず、悠長に「応援」などと言っていられる立場ではないことは重々承知だ。

それでも、最近になり「時間とお金の揮発性」を痛感する場面が多々あった。

お金とは何か
経済関連の本を読めば教科書的に「お金とは信用券」と記載がなされている。

Aさんが一万円札の紙っぺらをBさんに渡し、Bさんは一万円相当の商品をAさんに手渡す、
これはAさんとBさんとの間に相互信頼がなされている事で成り立つ行為である。
言うなれば、Bさんは商品を手放す代わりに、1万円の文字が記された紙っぺらという「信用券」を得られたのだ。

ごくごく簡単に話すと、経済とはそういう話に繋がる。興味を持たれた方はその手の関係書籍を読み漁るといいだろう。

「お金は血液だ」
これは私のフォロワー様の受け売りであり、その出典はまた別のアニメと伺っている。
だから、滞留させることなく、代謝を良くし、血行を促進させることで、循環はさらに良くなる。
先の話と強引に結びつけるならば、せっかく持ち前の信頼があるならば、出し惜しみせず、どんどん人前に披露することで、その循環がより良くなる、という話へと発展させることができる。
「金が金を呼ぶ」という(私個人も全く実感は沸かないが)話は、どうやらこの理論が出展らしい。


閑話休題。
だからこそ、自分の好きなもの、応援したいものには、積極的に応援・投資したいと考えるようになったのだ。
それは単に「声だけの「頑張れ」」ではなく、「形として残るもの」有り体に言えば「信頼という形としてイメージできるもの(≒もの、サービス、人によっては、お金、金券等)」として」届けたい。

本来ならば手渡しで、相手に対し本当に喜んでもらえるような物を届けたい気持ちだが、それができそうにないならば、せめて普段から「買って応援」「気持ちを形に込めて応援」したい。
生産中止のあおりを受けたのか、駆け込み需要で空となった食品や音楽CDの棚を眺めながら、ふと、そう考えるようになった。

普段からの応援の声は、応援する声も、される側の声も、どちらとも耳に入りにくい。
届ける側としても、普段の恩恵を伝える行為を苦手とする人は、本当に多い。
身の回りの方に「ありがとう」と伝える行為が、人によってどれほど難しいか、は、高天原制作「ホメロー」という作品をプレイすれば体験できると思うが、女性を目の前にして「いつも綺麗ですね」といった言葉がスッと口にできる男性はそう多くないのではないか。

そして、かねてより応援の声を上げてくださる方は本当に貴重だ。
嫌な声、ネガティヴな意見に負けそうになると、そんな応援の声など耳に入りにくくなる。
これは脳の作用が「ポジティヴな情報よりネガティヴな情報の方が(あくまで生存する上での必要情報として)ランク上方に位置付けるから」だと、ジャレド・ダイアモンド氏の著書で目にしたことがある。

先日のブログでも、アンケート結果に関して話題を取り上げたが、結果に一喜一憂することなく、常日頃から楽しみにされる方のバックには、さらに数百人のファンが控えている、と、これはあくまで私の体験談に過ぎないが、その見えない方々の声援に応えるべく、これからも作品作りを頑張りたい。


その応援する「声を上げて応援してくださる貴重な中の一人」に、私の名前がひょっこり混じっていると、嬉しい。


そんなことを考えながら、先ほど「●月▲日、祝!店舗●周年!」というボードゲームショップを聞きつけ、軽いタッチでフラワーギフトの注文ボタンを押した。






下手な鉄砲

 数を出す、とにかく初回から外に出す、とは徒然草の一節だっただろうか。 技が上達する人はとにかく描いたら世に出すこと、上達しない人は完成してから出そうとしいつまでも出さない、といった文言だったはずだ。 以前、兼ねてから応援していた創作者から「完成形しか見たくない」との言葉を頂戴し...