2019年5月31日金曜日

タネを蒔く、タネを蒔く〜ゲームマーケット2019春 奮戦記〜

ボードゲームの祭典で、ボードゲームを頒布しないサークルが、ついにこの春で3年目を迎えることとなった。
代表作は「Board Game Quiz」という、言うなれば、ボードゲームのクイズばかりを集めた小冊子。
これまでにバカ売れしたかと言われるとそうでもなく、愛されているかと言われると、そう上手い言葉でもない。
ブースの中で、孤独に、大声で叫びながら、時折クイズを読み、西へ東へと頒布を続ける。
3年目となった春も、このスタイルを変えてはいない。
今回春のゲームマーケットでは、特に「繋がり」を強く実感できたことが印象的だった。今回はそれをテーマとし綴っていきたい。長くなりますことをあらかじめご承知置き願います。



前日となる金曜日、僕は地下鉄「馬喰町」駅改札で、関西からの来客を待っていた。
「いかとりにょりとおけいのいかがわしいラジオ」MCのいか氏、りにょり氏、おけい氏の御三方、グループSNEの酢豚氏ら4名だ。
長旅の疲れも見せず、笑顔でこちらに向かう4人とは裏腹に、普段はスピーカー越しでのお付き合いのない大物ゲストの面々に、めまいがするほどうろたえる僕。

駅から徒歩10分ほど離れた場所に位置する「たいこ茶屋」へと向かう。
つたない記憶を頼りに先導し、ポッドキャストで耳にするいつものトーンを耳にしながら、ここ数日続く関東の真夏並みの暑さと明日に控えた会場内の様子などについてワイワイと話をした。
お刺身が食べ放題というこの居酒屋で、マグロやサーモン、穴子の佃煮など、銘々が山盛りの海鮮を頬張る中、この後も特に前日会になど呼ばれず、隙間の時間があれば細々とした作業を挟み込む私は、周囲の明るい表情とは対照的に、実は少しうつむき加減だった。
「横のつながりを大切にせなな」
いか氏が見かねたのか、明るい表情で僕の肩を叩く。

手持ちの小冊子をカバンにあるだけ関西の面々に押し付け、見送りを終えた僕は足早に家路へと急いだ。
明後日が本番だというのに、ブース設営の事前予行どころか、当日掲示するポスターの作成すらままならない。
制作に没頭するあまり、前々日まで「本番は、まあ、何とかなるだろう」といった悪い開き直りばかりが先行した。3年目になろうというのに、あいも変わらず学習しない僕。

ビタミン剤がわりのオロナミンCをぐい飲みし、敷き布やポスター、早押しボタンといった積載物をそそくさと準備する。
雑用を片付けるうちに、前夜という時間はあまりにも一瞬で過ぎ去っていった。


土曜日、
この日の僕は一般来場者として、主に購入や挨拶回りなどに当てる日を予定した。
あらかじめ作成した自作の買い物・ご挨拶マップは、前回秋に比べ赤ペンの密度が若干薄い。
とはいえ、注目作は今春も目白押しで、手当たり次第に購入を決めていくと予算がいくらあろうとも足りるはずがない。
第一、僕は3月に開催されたゲームマーケット大阪でも「それなりの量の」買い物を済ませている。
ニックネーム、FILLIT、ワードミノ、天才画家ボンといった現在も人気の続く話題作はその際に入手しており、仮にその合計を例年通りとして総額に含めてしまうと
…考えただけで背筋が冷える。

AM8時30分ごろに会場待機列へ加わる。
会場の中はひんやりと冷房が入り、この日の気温が30度を超える、と予想された外の気候とはまるで別世界のように感じた。
周囲を見渡すと、以前のように集団で何かを遊びながら待機するグループは少なめのようで、スマホにおしゃべりに、またはこの場でカタログを広げるというような静かに過ごされる方がちらほら見受けられた。
「サークルカットなんて誰も見ないから」と腐ることなく、この時間の有意義な宣伝媒体として積極的に情報提供できるよう、今後も工夫を凝らせたらと思う。


AM10時、拍手とともに開場。
あらかじめ形成された列から順番に、人が滝のように飲まれていく。
多少の焦りはあったものの、羽田から眺める限り、人の波はスペースのさらに奥へ、奥へと流れ、僕が狙いをつけていた一般ブースに限って言うならば、この時間の待機列であろうとも、数個しか製作していない限定品を無事に購入することができるほどだった。

ここから少し、僕なりの意見を述べる。
ゲームマーケットは面白いボードゲームを安価で購入できることばかりが目的、では無い。
これまで、SNSと作品越しに制作状況を応援していた製作者の方々が、今まさに眼前にそびえ立つことの嬉しさは、僕にとって商品を手にすること以上に多くの感情が刺激される。
ブース越しに、製作者一人一人の笑顔が輝いている。
説明をしながら、試遊をしながら、ともにプレイを続けながら、眩しい光の粒が周囲をまとっている。
製作者の方々は、皆、この日のためにギリギリまで努力を続けていらっしゃったのだろう。
その笑顔あふれるブースに、あたかも菜の花に集う蝶々の如く、多くの人が惹かれ、吸引されていくのだ。


買い物もそこそこに、今度は挨拶を周る。
電飾が迎える大きな企業ブースより、ここでしか出会う機会のない一般ブースの方が、個人的な滞在時間は長かったように思える。
効きすぎるほどの空調にまくった袖を戻しながら、愛想の良いブースではついつい長居し、僕は昼食も忘れ、日頃Twitter上でしかご挨拶のできなかったブースを転々とハシゴして回った。


ある程度の買い物とご挨拶回りを済ませた僕は、事前に約束した「ゲームNOWA」ブースのお手伝いへと向かうことにした。
「なにわのクニツィア」こと、かぶきけんいちさんがご挨拶に回る間、ブースにて物販の代役を務めるという大役を仰せつかったのだ。

この日も「特製ダイスタワー」や「宇宙(そら)逃げろ 第2版」など目玉となる商品は午前中であらかた完売し、残すはテーブルに数台だけが残された新作「ワードミノ」と、予約品の受け渡しのみという状況だった。
昼前であろうとも、人気作を求めて客足は絶えない。ワードミノの山は瞬く間に崩れていく。
予約品を手渡す間も、かぶけんさんにご挨拶を、と、多くの方がブースに訪れ、その都度「(力不足で)申し訳ございません…」と深々頭を下げる僕。
その脇では試遊の方も絶賛稼働中で、7文字以上完成となるチャレンジも「あしかがたかうじ(8文字)」を完成させる猛者が現れたほどの人気ぶりを博した。
ブースの傍らできびきびと動く、同じくゲームNOWAの「かえで」さんの手を借りながら、つたない支援を終える。
ゲームマーケットに限った話ではないが、今後無理なくブースを運営するにあたり、今後ワンオペレーションの体制では多くの面で限界が生じる、と痛感した。

1日目が終わり、購入品で膨れ上がったトートバッグを抱えつつ会場を後にする。
明日が本番だというのに、荷物の重さと外の熱で、体の中から外から、すでに疲労が隠しきれない僕。
帰り際のコンビニで肉系統の冷凍食品を買い込み、明日の準備もそこそこに、心配を押し殺すかのように無理やり布団に潜り込んだ。当然、眠気が訪れるはずもなかった。



二日目の朝。
この日も気温は30度を超えると予報が上がる。
昨夜の疲れを残したまま、多からぬ睡眠を確保できた僕は、当日の荷物ではちきれんばかりのキャリーケースを担ぎながら、一路、りんかい線に乗り込んだ。
前日も体感したことではあるが、朝の時間帯は公式のアナウンスで懸念されたほど携帯の電波は悪くはなく、少なくとも準備中の時間帯は室内中心部でも十分に電波を拾うことができた。
おそらく人がまばらのこの環境下でのテスト運転ならば、電波や空調といった話は設計者の設計通りだったに違いない。
まさに机上の空論、事件は会議室で云々、といった「お台場らしい」言葉が思わず口をつつく。

そそくさと荷物を探していると、隣のブースであるEJIN研究所のEJINさんが先に到着しており、きょろきょろする僕に段ボールの場所を教えてくれた。
今回、前回大阪の石膏粉末様、など、僕自身が大きな声を上げる、周囲からすれば実に「はた迷惑な」ブースだけに、周囲の方々の暖かい御理解を頂戴できることが何よりの支えだ。

設営中にいかラジのいかさんが現れ、助っ人として急遽ブースをお手伝いしてくださるという。
今回、フォロワー諸氏にも内密としていた当ブースの「隠し球」だ。
大物助っ人の登場に僕は深々と頭を下げ、当日は試遊台の問題読みをお任せすることにした。

AM10時、二日目の拍手が湧く。
ブースの中から人の流れを観察する。
初日と同様、せきを切ったように多くの人が向かう先は、隣のAフロア、企業ブースだ。
走らないでください!というスタッフの声がしきりに飛び交う。

昨日も似たような状況だった、そういかさんは話す。
並ぶ人数の大小はあれど、当初の目的(それは主に購入だろうと考える)は企業が販売するゲームマーケット先行販売品や、海外で話題となった作品の限定販売などの目玉商品だったのだろう。

程なく、隣のEJIN研究所に長蛇の列が形成される。
「いらっしゃいませ〜!」の声が空振りすると予感した僕は、声を止め、しばらくその列の成り行きをぼんやりと眺めていた。
列の流れは、完売報告の上がる10時30分ごろまで続いていたかと思う。

僕のブースは、極めていつも通り。
長打ができることもなく、予約された方々がパラパラと訪れる。
昨日お手伝いをしたゲームNOWAのブースで、購入を求める方が引きも切らず訪れる状況を目の当たりにしていただけに、少しだけ心がチクリとした。
そんな小さなトゲは、売り込みの声を張りあげることでごまかすことにし、いつも以上に大きく声を張る。
「ボタンを押していきませんカァー!」
空振り、めげることなく、再度声を張り上げる。
「タネを蒔いたからな。あの人はまた戻ってくる」
いかさんは気落ちした僕の表情を悟ったのか、そんな言葉を時折かけてくれた。
早押しボタンに、クイズ、なぞなぞ、4コマといった小冊子…。
…ボードゲームを目当てに来場された方からすればおおよそ見当もつかないブースに映ったかもしれない。
テーブルに積み上がっているものは紛れもなくクイズやなぞなぞの「本」ばかりである。

だから僕は「笑顔」を大切にした。
今でも自分の作品を眺めると、我が子のかわいさにニヤケ顔が抑えられない。
今回の新作3作品は、どの作品も2ヶ月前の大阪の時点では、完成どころか、他でもない自分自身が「できるはずがない!」と匙を投げかけた作品ばかりだった。
笑ってブースに立ち、笑顔で商品を説明し、「楽しんでくださいね!」と言葉を添えて商品を手渡す。
ゲームマーケットを何よりも楽しみに来場された方へ、僕からもその楽しさの欠片を届けることが、ひとえにこのブースに課せられた使命のように感じたからだ。

喉が枯れる。水が欲しいけれど、自販機はブースを隔てた屋外に位置する上に、トイレも少し離れた場所にある。
「のどぬーる」をのどに吹き付け、わずかな水分で喉をうるおす。
疲れていたかもしれないが、脳内に広がるランナーズハイのような心地から、残り3時間くらいならこのテンションを維持できるかな…できるよな!と半ば脅迫めいた言葉で自分を奮い立たせた。

当ブースは、終始大きな列形成がなかったものの、後半はコンスタントに人が集まった。
早押しボタンの効果は大きく、いかさんの読み上げる問題に多くの方が足を止め、脇で思わず「正解っ!その通りっ!」と声を上げる僕が、少しオーバーとも思えるくらい相手を褒め称えた。
「クイズって、面白い!」
その声を耳にするたびに、僕はえも言われぬ快感に陥った。


17時、拍手とともに閉幕。

…走りきった。

閉会の拍手とともに、目の前にグワワッと襲いかかる疲労感。
結果は、良くもなく悪くもなく「いつも通り」頒布数の増減に変動はなく、本当に「とんとん」の結果に終わった。良い言い方をするなら、興味を持った方にはすべからく手に取っていただけのだ。

確かに今回、制作活動一辺倒だったがゆえに、大きく宣伝・広報と言った諸活動に時間を割くことができなかった。
しかしながら「前回も買いました」「楽しみにしてました」といった声を聞くことができた。
それら声の一つ一つが、そのままの形でエネルギーとなり、その逆に、こちらから相手へと声を届けることができる。らせんのごとくどこまでも続く、僕が「幸せの連鎖」と呼んでいる、ゲームマーケットの醍醐味のひとつだ。
そして前回大阪でも実感した「人と人との繋がり」
今回も「助けに回ります」「何かあったら声をかけてください」といった力強い声援を立ち寄ったブースの先々で頂戴し、その都度、涙がちょちょ切れた。
「横のつながりを大切にせなな」
そうだそうだ、もっとつながりを意識しなくては。
そう考えを巡らせた。


感慨にむせぶ間も無く、僕は最後の空元気を放出させ、荷造りと、感謝の言葉を伝えに回った。
お台場はとっぷりと日が落ち、観覧車のイルミネーションがひときわ眩しく目に飛び込んだ。
古いスマートフォンは残り20%ほどの充電を残していた。これが家路に着くまでの最後になるのかな、と、僕は面影のなくなったテーブルの写真に「ご来場ありがとうございました」の言葉を添えてツイートを流した。

「早く、早く、何かを作りたい…」
はやる気持ちを抑えながら、僕は頭の中で予定した「打ち上げ焼肉」も「ご苦労さんビール」も全て返上し、たぎる創作意欲を熱いままペン先にぶつけようと、帰宅するなり、また4コマ、そして感想ツイートのまとめ作業へと取り掛かった。
とはいえ、体は実に正直なもの。
寄る年並と日頃からの疲労には敵わず、作業途中から始まった万屋楽団様のツイキャスライブ中に、スタイラスペンを握ったまま寝入ってしまったのだった。
MCサンジョウバさんの「寝てください」の声がかすかに耳に残っていた。


一夜明け
布団の中で昨日のことを振り返る。
バカ売れした訳でもなく、かと言って、大きく売れ残った訳ではなく、本当の本当に、いつも通りの売れ行き。
印象的だったことは、前にも拙著のクイズ本を購入された方が、再びリメイクのクイズ本を手に取ってくださったこと。
そして、バラではなく、新刊をまとめて購入された方が多かったこと。
実感はないけれど、これが「信頼を買ってくださる」という一つの形なのかもしれない。

そこで、屋号を変えることにした。
「番次郎書店」と命名したその経緯は、このブースが書店のような近所の商店街のように、街中に欠かすことのできない存在となるような、そんな意味合いも込められている。
この看板を汚さないためにも、さらに良い作品を、さらに面白い書籍を、これからも手がけていけたらと思う。
「ゲームマーケットに行くと、いつでも本を売っている」
番次郎書店が会場の片隅で、来場者の方にそんな言葉で気にかけてもらえる、それくらいちっぽけな存在でありたいと願う。

今回のゲームマーケットで、ひとつ心残りだったことがある。
今回も「同朋の友」を見つけられなかったことだ。
ボードゲームでクイズの本を作る、語り合える、そんな「同朋の友」を見つけきれなかったことだけが心残りだ。
ボードゲームをテーマにしたクイズ本に関して、ゆっくりと語り合えるような仲間を、次回秋以降も探し回ろうと思う。


ネット上では早速多くの議論が飛び交い、次のゲームマーケットに向け、カタツムリのごとくゆっくりと動き出している。

一方で僕は?というと。

今何がしたい?と問われたならば、「旅がしたい」と答えるだろうか。
昨年4月に現在の地に引っ越し、そのまま制作に没頭し、長らく休むタイミングを掴み損ねたまま、あれよあれよと今に至ったからだ。
時間の隙間があるとすぐに作業を入れてしまう、典型的なブラック気質の僕。
名古屋に、関西に、福岡に、長崎に、東北に、沖縄に、北海道に…etc、お世話になった方一人一人へ、転々とご挨拶をする旅。
そこで蒔いた新たな種が、芽を出し、花を咲かせ、タンポポの綿毛のように、風に乗り、また見知らぬ地の誰かの元で、小さな若葉を芽吹かせるのだろうか。

そんなことをぼんやりと考えるうちに、僕はその日のゲーム会の時間を気にかけながら、うとうとと二度目の眠りに落ちたのだった。



<了>
ご視聴ありがとうございました。

2019年5月18日土曜日

作品はアウトプットで磨かれる〜4コマ漫画制作日誌〜

今回のゲームマーケット春は、本当に広報らしい広報活動もそっちのけで制作の方に勤しんだので、せめて自分のブログの中だけでも宣伝させてください。

なぞなぞの本、クイズの本、とともに、もう一冊、わたしのブースの片隅を賑わす本がある。

「きょうもボドびより。」と称された4コマ漫画は、制作者である私の「イラストが描けるなら、漫画も描けるのでは?」といった今考えると本当に各所から馬鹿だなと笑われそうな試みから派生した作品だ。




言うは易く行うは難し、何はともあれ、思うがままにペンを走らせ、ツイッターに公開してみると、意外に多くの暖かいコメントが寄せられた。

寄せられたコメントで調子に乗った私は、その後も毎日1本、ただでさえ時間のない小冊子制作の合間を縫って書き綴り、ゲームマーケット大阪で第1巻を頒布するに至った。





兼ねてからの夢、と周囲には漏らしていたが、実を言うと、描いた本人すら、夢にだに想像できなかった代物だ。
なにせこの私、半年前など、イラストなんてろくに描けなかった人間だ。それが形はどうあれ、漫画の本を出すことができたのだ。

まさに自分の趣味全開で出した本にも関わらず、手に取ったり、購入してくださったりなどの神様はいらっしゃったのだ。
千葉県のボードゲームカフェ「カラハンダ」様では店内用に設置しましたとツイートが上がり、喜び勇んでお礼に参ったこともあったくらいだ。


空想を形に変えることを、人は見くびることもあるだろう。
「それくらい(やろうと思えば)誰でもできる」
そんな言葉が、時折添えられる。

余談だが、学生時代に古文を勉強したときのこと。
「同じ日本語だからなんとかなるよね」
といった声をあげ、同級生の中にはハナから古文の勉強から目を背ける者もいた。
そんな学生ほど、「なつかし」という言葉の意味を問う問題に、ついつい「童心に帰る」を(いわば、制作者が「こっちに引っかかってほしい」と誘導する巧妙な選択肢)選んでおり、国語教師のニンマリする表情を試験の都度、目の当たりにしていた。ちなみに正解は「心惹かれる様」である。

閑話休題、思ってた、考えるにとどまっていた、なんて、正直私はさほど大きく評価してはいない。
考える、その次のステップは、何かに書き出す、そして披露し、修正を繰り返し、頒布する、
作品はそうしてアウトプットを繰り返し、自分の目ではない多くの視点からの意見を浴び、洗練され、磨かれ、成長を重ねていくものだ。

その際のステップは決して欣一化されたものでは、ない!

考える、と、公開する、この似て非なる二つの間に、どれだけ大きな段差があることかを、意外と多くの人間が「見誤っている」
たとえ目測を誤ろうとも、それら上がるにつれて段差の大きくなる障壁に、くじけることなく真っ向から立ち向かい、時に厳しい現実や辛辣な意見を浴びながらも、めげることなく不屈の精神で立ち上がり、また次の段へと這い上がる姿。
それは誰の目から見ても立派な姿ではないだろうか。


私の1巻は、たしかにゲームマーケット前、大きな反響もなく、当日は細々と頒布するにとどまり、その後も厳しい言葉を浴びる一方だった。
それゆえに、掛け替えのない「楽しみにしてました!」「面白かったです!」といった声援が、自分にとってひときわ印象に残るようにもなったのだ。


結果、私はくじけなかった。
喉元過ぎたる熱さとやらで、翌日から早速4コマを描いた、描き続けた。



そしてこの春、質・量ともにボリュームを増した2巻を完成させることができた。
あれからイラストも少しずつ勉強し、表紙画像も我ながら見違えるほど飛躍できたものかと自負している。


ボードゲーム知識ゼロでもなんとなく読めるボードゲームの漫画です。
よろしくお願いします。
(テレビ東京「勇者ああああ」のキャッチコピーっぽく)


4コマは現在も引き続き連載中で、5月18日、連載100話目を迎える予定となる。







2019年5月12日日曜日

ゲームマーケットは浄化を促す場

新しいことはそれ自体が魅力的だ。
新しいボードゲーム、新しいルール、新感覚、新機軸…
新しい、新鮮、というものは、その言葉だけで魅力的だ。

ボードゲームに限った話ではなく、新社会人、新番組、新成人、等々、新しいものそれ自体が多くの人を魅了する。
新しいものは、すでに在るものに対して、違う風を取り入れてくれる。
これまでに多少の食傷を感じていた人にとって、新しいものは、期待感も含めて何よりも貴重な存在だ。

古いものは、それ自体が魅力的だ。
昔から存在するボードゲーム、古来より伝わる伝統遊戯、すでに一般語となったルール…
古き良きものは多くの人を魅了する。

ボードゲームに限った話ではなく、看板役者、御意見番、生き字引、等々、いつもの存在は「そこに在る」だけですでに魅力的だ。
古き良きものは、組織に抜群の安定感をもたらす。
多少雰囲気が乱れようとも、最終的には絶対エースとなる存在がなんとかしてくれるであろうと、皆が期待を寄せる。
それだけで尊敬に値されるのだ。


対象となる二つを記述した。
どちらが悪いとも、どちらかに顔を向けろとも、そんな極端な話ではない。
強いて挙げるならば、その「両方」だ。
「老害!老害!」と新しい意見ばかりを追いかける自覚があるならば、古き良き作品に目を向ける必要があり、「昔は良かった」と古き良きものに固執していると自覚があるならば、最近話題の作品の傾向に目をやるものと考えている。

とある老舗のラーメン屋の店主が話す。
長年同じ味を継続させるためには、客に「変わらぬ味」と気付かせないよう、微妙に味を変化させているのだと聞く。
長年同じ味を続けると、客の方から「(味が)変わった」と意見されるそうだ。
時代の趨勢とともに、グラデーションのように微妙に変化する客層を柔軟に捉え、その都度、自分の在り方を変化させる、
それは商売に限らず、地球上の生物が厳しい時代を生き抜くために学んだ、ある種の処世術とも言えるのではないか。


翻って、ボードゲームの話。

ボードゲームを(決まったお店で)買う、(いつものカフェで)遊ぶ、ばかりでは、やはり自分の中の「情報」がどうしても偏ってしまう。
そこで、五感をフルに使い、ボードゲームを最大限に楽しむ日が1年に1度でもあれば、自分の中の凝り固まった筋肉が解きほぐされることだろう。


ゲームマーケットが2週間後に控えている。
日本最大規模を誇る、ボードゲームの祭典だ。

開催スタッフの方は「体験しに来てください」と口にする。
その真意を察するに、買うだけでは物足りない、目で、耳で、肌で、(時には)味や鼻など、五感で体感し、自分の中の「ボードゲーム」の感覚を自浄するための場ではないかと考えた。

日本最大級だけに、会場内にはそれこそ多くの参加者が集う。
有名芸能人、漫画家、プロ棋士、アイドル、ポッドキャスター、ユーチューバー、もちろん、製作者、イラストレーター、有名ブロガー、ボードゲーム会主催者、カフェ運営者、ツイート上で見かける大勢の方々、等々、自分より数多くのボードゲームに触れているであろうそんな方々と、ご挨拶でき、時に試遊台を囲み、ともにボードゲームについて語ることのできる、そんな稀有な体験イベントが他にあるだろうか。


そして何より、私は二日目となる日曜、ブースの人間として提供する側に立つ。
前回大阪でもそうだったように、私のコンセプトは「一体になって楽しむ」ことである。
売ること、買うこと、それ自体は後回しでもいいから、せっかくいらっしゃった方々と一緒に「遊んでもらう」「体験してもらう」そして何よりも「楽しんでもらう」ことを主軸に置き、立ち寄った方々が笑顔で立ち去っていただけるような、そんな運営を組み立てようかと考えている。


ゲームマーケットに来場された方が「あれだけ疲れたのに、早く帰ってボドゲしたい」と感じたならば、それは会場内できちんと浄化された証ではないか。今風の言葉で「デトックス」とも言うのだろうか。

私も何かをつかんでもらえるよう、これからの短い間に、一つでも面白いトリガーをこれから用意しなくては、ね。

2019年5月7日火曜日

気楽に頑張ります-41歳の抱負に代えて-

ボードゲームのクイズの本を作り、3年目となる今年。

勢いに任せ、2冊の本を出した。前後編に分け、1000問の問題を上・下巻に分けて収録した。
12月のゲームマーケット秋を終え、次回春、当時5月の開催まで制作は実質3か月弱。
昨年も締め切りギリギリまで問題の制作に明け暮れ、苦心しつつ何とか無事に続編を一冊作り上げることができた。

環境がガラリと変わり、記録的な酷暑にもめげず、その年のゲームマーケット秋、レイアウトを大きく変えた一冊を無事に頒布することができた。

同時並行して、翌年3月のゲームマーケット大阪に初出展の申し込みも済ませ、翌年開催されるゲームマーケット春の前に、何か作品を出すことはできないか、と、ぼんやり考えることにした。

秋が終わり、神戸、北海道、と小冊子を広報に上がる中、次回作への構想がぼんやりと浮かび、ノートにメモをまとめるうちに、空想が現実味を帯びてきた。

年末年始を返上し、まさかと思った新刊を、頒布することができた。
しかも漫画本も含め、2冊も。

それが3月中旬の話。
次回春まで制作時間は、残り1ヶ月半。

しかしながら、それでも小冊子の入稿を先日無事に終えることができた。
漫画本、なぞなぞ本、クイズ本
リメイクとはいえ、3冊同時刊行だ。



これが私、番次郎ブース出展の簡単な振り返りだ。

3年目となる今年、令和元年、年も41を迎えた。
これからは目もかすみ、肩が、腰が凝り固まり、歯や髪が抜け落ち、老化も急加速するのだろう。
いつまでも若くはない、ということだ。

それでも周囲のボードゲーム製作者の方に限らず、歳を重ねるに従い、良質な作品をどんどん提供される方が大勢いらっしゃる。
いつまでも歳のせいだと言い訳ばかりしてはいけない。


進むこと。歩き続けること。
無理をせず、できる範囲で「歩き続ける」うちに、見えない筋肉がついてくる。
「遊んでいるうちに自然と強くなる」
それはボードゲームを遊んでいる方ならば自ずと理解してもらえるのではないだろうか。


春先になると、時折、硬いアスファルトを突き破り花を咲かせるタンポポを道端で見かける。
強い力ではなく、弱い力で、何度も何度も押し上げるからこそ、織りなせるのだ。

北海道ボドゲ博の出展を決めた際、数名の方から
「有名サークルが名乗りを上げてくれました!」
と、私の名前を取り上げてくださった。
私自身、そんな自覚もなく、無論作品自体が爆発的に売れたわけでもない。
とはいえ、向こうはお世辞でもないそぶりだ。
確かにそこには「幾らかの知名度」が、私の知覚しない箇所で存在していたのだろう。
それは作品自体の知名度云々ではなく、何かしら「継続すること」で成し得られたものではないかと考える。

「継続できること」の強みとは何だろう。
ひとつに、それは「安心感」ではないだろうか。

ブランド力、という言葉にも置換できるこの言葉は、いわば「このサークルの、この人の作品ならば間違いなく面白い」と多くの方からの「信頼」で形成されている。
有名作の続編、有名ジャンルの一括り、好きなジャンル、等々、十人十色で形作られるそれらの「安心感」は、作品に多少の「ブレ」が生じようとも、根強く残ってくれるものなのだ。

もちろん我々人間はそれら「安心感という名の信頼」が、作品の度合いどころか、何気ない一言で、いとも簡単に崩れることも重々承知している。

だからこそ、大切にしたい。

私が制作に傾注した1年で欠けていた物、それは周囲に対する配慮、心配りだったのではないか。
「良い作品を作ることが、何よりの恩返しだ」
そう信じて疑わず、自分を犠牲にし、これまで作品を磨き上げてきたのだ。


令和元年 5月6日、41となる誕生日を迎え、その考え方を改めようと思う。


余裕を持つこと。

それはデザイン・レイアウトを学ぶうちに身につけた「余白」の持つ力だ。

これまでの小冊子は物量で圧倒し、いわば威圧的な雰囲気を醸していたのではないか、と反省する。
今回春の作品ではデザイン・レイアウトを一新させ、デザイン全体に「余白」を意識した。

そして何より、身を粉にして相手に尽くす姿勢から、こちらにも幾許かの余力が生まれるような予算設定を考慮した。

次はないかもしれない、では、先に挙げたような「安心感」は得られないと考え、「もう無いかもしれない」の不安を煽ってまで購入するべき作品作りでは無く、いつまでも続き、次回作も請い願われるような、そんな作品を私自身も作りたい。
そのためには、やはり中身を読んでもらいたい。中身で評価されたい。
レイアウトも含め、余裕を持って作品作りが提供できるような、そんな制作環境を整えたい。


41になり、前回、私のブースのコンセプトを「初めての人が立ち寄るギルド的なブース」とした。
そんなルイーダの酒場的な、世界樹の迷宮では金鹿の酒場のような、そんな立ち位置で、この一年は頑張りたいと思います。


こんなブースで、こんな人間ですが、よろしければ気楽にお付き合いくださいませ。



2019年4月20日土曜日

インプットとアウトプット

漫画家あやめゴン太先生のツイートにあった何気ない言葉だったと思う。

「なんでこんなに本があるの? それはね、本が好きだからだよ」

好きだから、必然的に、その総量は多くなる。
当たり前のようで、意外とそうでもないことがあることに気がついた。

ボードゲームが好きで、好きが興じて、ブース設営3年目となる今年、またも「3冊の新刊を出します」などと無謀なチャレンジを行う自分。
読みたい本はたまり、遊びたいボードゲームも積み重なり、できるか否かの気持ちばかりが焦る中、刻々と時間ばかりが過ぎていく。
周囲のテストプレイ会などのツイートを横目に、名門大学受験に匹敵する程のデスクワークが続く自分。
「好きなことって、何?」という錯覚に苛まれそうになると、邪気を払うかのようにかぶりを振って、また前を向く。
この頃はそんな生活を送っている。

量がその人を支える。
ボードゲームが好きだから、その人には、それだけのボードゲームの量的な数もあれば、または知識なり経験なりといった知的財産のようなものも存在する。
本が好きだから、本をたくさん所持しているし、必然的に、本をたくさん読んでいる。
TRPGのステータス振りのように、ある人はこの値が少なく、ある人はこの値が多い、それらを鑑みた上で、パーティ内での性格や役割が形成される。

逆も然り。
少なければ、やはり、何もできない。
手にする物量が少なければ、できる範囲もそれだけ限られるだろうし、また、インプットする量が少ないならば、絶対的な経験値を持つ人間に圧倒されてしまうだろう。

「好き」が持つ特徴の一つに、インプット、つまり内面に取り入れられるがゆえに、なかなか自分では見えにくい点ある。
自分で「**が好きです!」が見えにくい、自覚しづらい、自覚できるまで時間を要するのでははないか。

インプット、体内に取り入れることとは、自分の中に多くの「コト」「モノ」を「取り入れる」ことにある。
取り入れてしまうということは、体内で消化され、自分の中のパーツとして形成され、細胞の一つとして体内に組成される。
自分の中のひとつとなるのだ。
自分の中のパーツとなったものは、自分ではなかなかその利便性に気がつきにくい。
「人間は腕が二本あり、指を自在に動かせる」を、日頃から幸せだと感じている人は少ないのではないか。

では逆に「アウトプット」はどうか。
アウトプット、他人に向けて「主張」することで、自分の存在を他に「アピール」することができる。
「自分はこうなのです」「自分という生き物はここにおり、こんな形をして、これが好き、嫌いなのです」
常日頃から発信する言葉や言動などで、周囲の人間に「アウトプット」することで、自分の存在を「インプット」する役割を果たしている。
「ああ、他に比べて、自分はこうだったのか」「やっぱり私は**が好きだったのか」
アウトプットすることで、自分の「好き」を主張することで、改めて強く認識できるのだ。

好きなことを主張することは、深呼吸することに似ている。
窓を開けたら空気は「逃げ」たのちに新鮮な空気が「入る」
苦しくなったら、まずは呼吸を「吐く」
吐くだけ吐いたら、少しづつ「吸う」
他人ごととは言えないが、好きであることの回答を積極的に仰ぐのではなく、ゆっくり、無理せず、自分のできる範囲内で吸収すれば、自ずと自分の行なった回答はやってくる。
言うなれば、苦しみながら呼吸を行うことはない。
回答に無理をして急を寄こそうとするから「無理」が生じる。
それでもやはり、インプットする時点では見えにくい点を他人の目線で評価される嬉しさや喜びには到底かなわないのですけれどね。


ゲームマーケット春2019開催まで残すところ1ヶ月あまりとなった。
多くの製作者が大詰めを迎え、積極的に広報活動を行い、自分の作品をアピールしている。
「見てください!遊んでいってください!」
私個人として、ゲームマーケットはモノを売り買いする場、という目的は二の次、3、4、5の次ぐらいだ。
モノを買う立場として、それら製作者の方々の「好き」を全身に享受する場として
一方で、モノを売る立場として、私の「好き」を全身全霊でアピールする場として
臨む所存だ。

だから、今は必死でアウトプットを続けるしか、ない。
自分の中に蓄積された「好き」の総量をあらん限りに放出させ、小冊子にしたため、エナジーみなぎる小冊子として上手く昇華できるよう、最善の努力を行うより、他はない。
それが何よりのアウトプットであり、ひいては自分の「ボードゲームが好きなのです!」をアピールできる一番の方法ではないだろうか。


そんなことを考えながら、今回もまた多くの製作者様からたくさんの刺激を受けるために5月25.26日とビッグサイトにお邪魔したいと思います。
私は日曜L02ブースの片隅で、ひっそりと本を売りつつ、ボードゲームのクイズを読んでいることに致します。

よろしくお願い致します。



2019年4月14日日曜日

楽しむために勝つ、とは。

最近は作業のお供にポッドキャストやツイキャスライブ等を拝聴することが多い。
その中で感じたことを話題として提供したいと思う。

先日のおしゃべりサニバ第148回で「好きすぎて上手くなり、相手がいなくなった」という内容の話題で盛り上がっていた。

将棋や囲碁など、競技人口が多い遊戯ならば、上を見上げるとキリが無い分、好きなだけ成長でき、好きなだけ身の丈に応じた相手が存在する。

しかるに、好きなボードゲームとなると話は別だ。
いくら好きなゲームであろうとも、同じゲームに付き合うならともかく、強くなりすぎた相手にむざむざ負け戦を挑むような相手と、再び一緒に遊びたいと思うような、強靭な精神の持ち主など極めて稀だろう。

何度か引用したトイバーの言葉「またあなたと一緒に遊びたい、そんなプレイをしましょう」
そんな言葉が一瞬頭をよぎる。


が、それも杞憂であることに気づいた。


少し前に、こんな漫画を描いた


本当に上手いプレイヤーとは、どういったプレイスタイルを取るのか。


それは「勝って楽しい」ではない。
「楽しむために勝つ」だ。

以前オセロ有段者の方とオセロでお手合わせをする機会に恵まれた。
序盤はこちらが圧制だった。
にも関わらず、終盤からあれよあれよと駒を返され、気がつけば盤面は相手の駒だらけ。見るも無残な形での完敗を喫したのだった。

「オセロでは、序盤なんて関係ないですからね」

盤面の毛バタがハゲてうっすら木目が見えるほど、何度も何度も使い込まれたであろうオセロの盤面を、私はジッと凝視しながら、その方のお話しを伺った。
丁寧に、笑顔を交え、一手、一手と解説してくださる。

「ここでこっちを置きたくなるでしょ?実は隣のこっちに置くとですね、ほら!実はここで互角になってたんですよー!」


プロの技量とは、数かぎりない選択肢の中から最適解を見つけ出せる、ばかりではない。むしろ「AかBか、究極の選択」といった二択、三択の盤面を何度も何度も展開するうちに、そこから最適解ばかりを巧みに選択できるプレイヤー、それこそが私の思う「プロ」ではないかと考えた。


余談だが二択もバカにはできない。有名な話に、0,1mmの紙を何回折り曲げると富士山と同じ高さになるか、といった数学の問題がある。
答えはたったの(?)24回。
細部計算は省略するが、2×2…×2を続けると、24回折ることで、折り紙程度の厚さだろうとも富士山の高さに到達できる、という計算上の話である。

閑話休題
オセロの盤面では一人30手、最初の定石はあるかもしれないが、常に二択と考えても、その数は5億通りに及ぶ。

オセロに限らず、ボードゲームや囲碁、将棋の上手い方は、その中で「いま自分や相手が一番楽しめる方法とは何か」を常に模索し、相手がどう考え、どうしてここでこんな手を打ったのか、といった全体まで俯瞰できる余裕と余力があるからこそ、なのだろう。


同じeスポーツつながりで「ぷよぷよ」なども、自分の状況だけでなく、次に落ちてくる駒や、相手の状況を即座に判断する技量が、上級者ともなると要求される。

それらを踏まえた上での感想戦は、同じレベルの相手より、やはり上級者とのやりとりの方が面白い。
自分では「なんとなく」と思って打った手が、実はもう少し冷静に考えて別の手、往々にしてそれらは二択に絞った際に最後まで迷った挙句、最後に切り捨てた方の手だったりするが、の方が妙手だったりする。
その「気づき」があるから面白い。楽しい。
単に自慢話を聞かされたり、自分のダメさ加減を言及されるだけの感想戦なんて、勉強目的でない限り、つまらないではないか。

それは感想戦も含めた「一局全体」が、自分、相手、相互に楽しいからであり、自分だけではなく「お互いが楽しむために」ゲームが存在するからではないか。
そして上級者ともなると、その辺りの楽しさ(勝敗に左右されない、あくまで楽しむための、という意味合いで)を熟知しているのではないか。


先に挙げた言葉を裏返して解釈すると、「ボードゲームはやはり一人では遊べない」のである。
ポッドキャストの中でも話題に上がったが、勝ってばかりでは、やはりツマラナイ。退屈だ。
古典では退屈を「徒然(つれづれ)」と呼び、物悲しい、という意味と同義で使用される。
だからつい自分の自慢に走りがちとなる。
何気なく口に出た言葉が自慢に捕らえられ、その自画自賛が過ぎると、やはりつまらないどころか、神経を逆なでする恐れもある。
「あの人と(あのゲームで遊ぶと)どうせ負けるだろうし」「負けた挙句、自慢話聞かされるんじゃあな」
悪循環を断ち切るには、やはり「相手を思うプレイ」が必要とされる。
いくら人工知能が世界を跋扈しようとも、対人で繰り広げられる「会話のやり取り」や「思いもよらない妙手と、時に悪手も見せる奇想天外な展開との隣り合わせ」が混在する対局こそ、人工知能が到達できない、それこそアナログゲームが真の強みを見せる「人と人とのつながり」ではないか。


考えてみれば、美味しい料理が食べたい時は、自力で作る他に、腕の立つ料理人のいるレストランに向かえば、良い思いをすることもできるだろう。
美味しいレストランでは、その手腕をいかんなく発揮するシェフが腕によりをふるってあなたにディナーを提供する。
飾る言葉もいらず、一言「美味しかったです」があれば、それだけで相手も喜んでくれるに違いない。


「会話は知性のご馳走である」
最近読んだジョン・トッド著「自分を鍛える」からの引用である。
上手くなることで離れるには、といった問題の根底には、やはり当人の「勝って楽しい」が先行するからではないか。(もちろん競技・スポーツの「厳しさ」が持つ側面を「勝てなくても楽しむには」といった問題に展開させるとまた別だが)
それらを踏まえ、私の思うプロとは、相手に気づきと楽しさがもたらす「知性のご馳走を提供する一流シェフ」のような存在であり、いわばそれは「楽しむために勝つ」ことが念頭にあるプレイヤーのことを指すのではないかな、と思い、自分の目指すべき道もどうやらその辺りに眠っていることを再確認したのであった。




2019年4月7日日曜日

ふりだしに、戻りました。ー根本を見直すことで見えてきた世界の話ー

先日、POO松本先生というデザイン関連の先生の元、私の小冊子をビシバシと指導される機会に恵まれた。
約8時間余にわたる猛抗議は、時折涙ぐんでしまうほどで、強さの中に情熱のある指導であり、メモ代わりにと用意したノートはほとんどのページで黒ずんでしまった。

その中の一つを紹介したい。

ページを開けるなり、先生の口から出た言葉は
「で、これは誰に向けての本なの?」

もちろん、小冊子を作るからには自分なりにテーマを定めてはいたが、それではあまりに「漠然と」しすぎている、と指摘された。

「若者?初心者?子供?お年寄り?その辺りがブレてない?」

根本も根本、スタート地点の問題である。
私の小冊子が抱えていた問題は、主軸となる「骨組み」、大黒柱そのものがすでに揺らいでいた、というわけである。
言うなれば、この時点で「指導を受けるフィールドにすら上がっていない」とも言える。

あ、イタタタ。

クラウゼウィッツの戦略の本や、孫子の戦略の本やら、ビジネスでも活用できるだろうとあれこれ戦略の本を読み漁ったから、おぼろげにわかる。
「全方向同時打撃」なんて構えていたら、あっという間に兵站組織が瓦解してしまう。
敵が企図する目的をしっかりと見定め、時に応じて刻々と変化する戦況をよく観察し、我に乗じる敵の弱点とする方向に、あらん限りの火力を指向する、
そんな戦闘の基本・基礎すら“わかっていなかった”のだ。

闇雲に頑張ることで、なんとなく「許された」気になっていなかったか、自分。

指導を受けながら、心の中の重い塊がズシン、ズシンとのし掛かり、その上からさらに厳しく飛び交う、細かなデザイン面での指導…。

辛さ、厳しさに耐え忍びながら、その日の夜、もう一度、乱雑に書き留めたノートを見返す。
デザイン云々の話ではない。
これまでの自分が残してきた、雑さ、荒さ、その他諸々の「甘さ」が、やはりわかるかたにはお見通しだったのだ。
恥ずかしさのあまり、次回作成の本など頒布するにおこがましい思いもした。
体調のせいだと言い聞かせ、早めに就寝し、1日だけ気持ちを寝かせることにした。


翌朝、
乱雑な文字のノートはそのまま。
頭の中だけは余計な雑味が少し抜けたのか、幾分カラになったような、すがすがしい気分。

パソコンに向かい、昨日の事項を一つ一つ修正する。
構造を一からやり直す作業に深いため息が溢れる。手が止まり、なかなかキーボードが進まない。


先生は5月に新刊を出すことを「馬鹿か!死ぬぞ!」と応じた上で「よし、死ね!」と承諾してくださった。
頑張ることしか取り柄のない自分が、また一からスタートする、その期限は実に1ヶ月を切ってしまった。
材料はあるが、時間も体力も、まして余分な資金もない、
そんな中で本当にできるか否か。今回も大勝負を強いられることとなった。
毎回毎回、本当に私は馬鹿だと思う。

無理だ、と思ったらそこで糸が切れてしまう。
だから、コツコツと続けるしかない。
一歩一歩、と歩き続けているうちに、ゴールも見えてくるだろう。
今はまだ、見えない先のことなど考えず、目の前のハードルだけを、一つ一つ、着実にこなしていく、それだけだ。


まずは「主軸」ターゲット層を見直す作業から取り掛かった。


一つ、皆さんに約束したいことがある。
それは、作品を頒布する中で、それらの質を確実に上回ることだ。
決して過去作の「焼き回し」などといったことはしない、したくない。


そのためにまず、問題数の選別を行うことにした。
これまでの小冊子では「数の多さ」を何かしらの武器にしていた気がする。
どなたかが(小冊子の件ではないけれど)話していた。
「あまり多すぎても、見やしませんよ」
だから、問題数を半分ほど一気に減らす作業を行うことにした。
いわば果物の摘果のような作業だ。
問題数が減る代わりに、一問一問のクオリティが高く、甘い、どの問題も自信を持ってオススメできるラインナップを揃えることができる。

そして、ターゲットをさらに絞ることにした。
言うなれば、これまで「老若男女、どなたでも楽しめます!」と、ぼんやりした表現で濁したターゲット層を、ギュッと絞ることにした。
「初めての方がボードゲーム知識を蓄えられる一冊」
初めての方が読むことで、ボードゲーム・アナログゲームの知識をそれなりに身に付けることができる一冊、と、銘打つことにした。
これはアナログゲームのなぞなぞ本2巻や4コマの2巻も同様のコンセプトだ。


「いらっしゃい、ここは初めての方が装備を整えるお店だよ」
そんな基本コンセプトで、番次郎ブースは、ゲームマーケット春、そして北海道、と、挑むことに決めた。


そして、大事なことをもう一つ。

ゲームマーケット春が終わったら、少し間を取り、作品をじっくり練りたいと思う。
有り体に言えば、北海道ボドゲ博に向けての新刊は、今は出す予定はない、です。ごめんなさい。

これも先の「クオリティ維持」の話につながる。
今回の大阪新刊、自分なりにIllustratorもインデザインも勉強し、小手先の技を駆使し、さらなるパワーアップを図ったつもりだった。
が、やはり先生の目はごまかせなかった。
「大阪新刊、突貫工事で作ったろ。前の(BoardGameQuiz本)方よりも、クオリティが落ちてるぞ。」

だから、というわけではないが、もっとインプットしたい。もっと気持ちに余裕を持ち、小冊子制作以外にももっと色々な面で、多くのことを学びたい。ポッドキャストも作りたいし、本もたくさん読みたい。買ってから遊んでいないボードゲームだって山のようにある。
ボードゲームが持つ「楽しむ」ことの根本を忘れることのないよう、しっかりと土台を踏み固めたい。何よりもまず、求職のあても探さなくちゃね。



原点に立ち返り、言うなれば、スタートに戻ることで、改めてその根本を見直すことができ、その先でようやく見えてきた、自己の現実と、行く先の未来。
今回の講義で学んだ新たな視点をもとに、自分の持つ可能性、そして「一人だからできること」そして「表現するからこそ、見えてくること」決して良いことばかりではなく、キツく、つらい言葉の中から、磨かれる自分。
艱難汝を玉にす、と、自分に言い聞かせながら、とは言いつつ、時折お茶でも入れながら、余裕を持たせつつ、この先も「ボドゲクイズのひと」として、そしてこれからは「初心者の館のオヤジ」としても、その両面で頑張りますとも。



このブログも区切りがよく100件目を迎えることができました。
他の方とは違い、ボードゲームの紹介もなく、日々、感じたことを、長々と綴るだけのブログとなりますが、今後もゆるく続けていきたいと思います。
よろしくお願い致します。



2019年3月30日土曜日

「お金」という形の応援の話

お金に関する文章も絡めるので、その辺りを気にされる方はご了承ください。

思うところがあり、先日は連日、遠くに赴いた。

北海道へ、茂原へ、新宿へ、と、思い立ったが吉日とばかりに、なけなしの財布をはたいて、行くあても特に決めず、ふらりと旅に出た。

北海道ではかねてより応援していたハンドクラフト作家様の作品をまとめて購入、その後は札幌のゲームカフェ 「こにょっと。」様にて北海道ボドゲ博のお礼もかねてご挨拶し、店内で少しだけボードゲームを遊んだ。
申し訳程度にラーメンをすすり、その日の便で帰るという暴挙に躍り出た。

舌の根も乾かないうちに、その翌々日、千葉県は茂原市へと赴き、私の初漫画作品を展示してくださったというボードゲームカフェ「カラハンタ」様へご挨拶に伺った。
帰宅時間の関係で1時間も遊ぶことができなかったものの、笑顔が素敵で知的な店長、ユーモラスで美味しいコーヒーを淹れてくださった店員さん、また、平日夜にも関わらず集まった周りの方と、しばし大変楽しい時間を過ごすことができた。

その翌日は、新宿北口にほど近いBoard Gay.m Bar秘密基地様にお邪魔し、この日で卒業される、漫画「ゆるゆるボドゲバカ」を執筆された「きりんなべ」先生を送るが如く(とはいえ、全く湿っぽいものとはならず、単にボードゲームで遊ぶだけの会となってしまったが)花を届けにお邪魔した。


流石に連日の無理な移動が祟ったのか、翌日は身体がオーバーヒートし、布団から抜け出られなくなってしまったこと、周囲の方には本当にご心配をおかけ致しました。


遠出したいと思った理由は、意外と単純な話で、
「応援しています」の声を、直接相手に届けるためだ。

「遠方から応援しています」
「なかなかお会いできませんが、いつも見ています!」

いつの頃からか、私はそんな「遠方から」「またいつか」といった隠れみので、相手に贈り届ける応援の選択肢を、自ら潰していたのではなかったか。

もちろん現在の私は、求職中でお金もなければ、締め切り間近で時間すら無く、自己の身分を顧みず、悠長に「応援」などと言っていられる立場ではないことは重々承知だ。

それでも、最近になり「時間とお金の揮発性」を痛感する場面が多々あった。

お金とは何か
経済関連の本を読めば教科書的に「お金とは信用券」と記載がなされている。

Aさんが一万円札の紙っぺらをBさんに渡し、Bさんは一万円相当の商品をAさんに手渡す、
これはAさんとBさんとの間に相互信頼がなされている事で成り立つ行為である。
言うなれば、Bさんは商品を手放す代わりに、1万円の文字が記された紙っぺらという「信用券」を得られたのだ。

ごくごく簡単に話すと、経済とはそういう話に繋がる。興味を持たれた方はその手の関係書籍を読み漁るといいだろう。

「お金は血液だ」
これは私のフォロワー様の受け売りであり、その出典はまた別のアニメと伺っている。
だから、滞留させることなく、代謝を良くし、血行を促進させることで、循環はさらに良くなる。
先の話と強引に結びつけるならば、せっかく持ち前の信頼があるならば、出し惜しみせず、どんどん人前に披露することで、その循環がより良くなる、という話へと発展させることができる。
「金が金を呼ぶ」という(私個人も全く実感は沸かないが)話は、どうやらこの理論が出展らしい。


閑話休題。
だからこそ、自分の好きなもの、応援したいものには、積極的に応援・投資したいと考えるようになったのだ。
それは単に「声だけの「頑張れ」」ではなく、「形として残るもの」有り体に言えば「信頼という形としてイメージできるもの(≒もの、サービス、人によっては、お金、金券等)」として」届けたい。

本来ならば手渡しで、相手に対し本当に喜んでもらえるような物を届けたい気持ちだが、それができそうにないならば、せめて普段から「買って応援」「気持ちを形に込めて応援」したい。
生産中止のあおりを受けたのか、駆け込み需要で空となった食品や音楽CDの棚を眺めながら、ふと、そう考えるようになった。

普段からの応援の声は、応援する声も、される側の声も、どちらとも耳に入りにくい。
届ける側としても、普段の恩恵を伝える行為を苦手とする人は、本当に多い。
身の回りの方に「ありがとう」と伝える行為が、人によってどれほど難しいか、は、高天原制作「ホメロー」という作品をプレイすれば体験できると思うが、女性を目の前にして「いつも綺麗ですね」といった言葉がスッと口にできる男性はそう多くないのではないか。

そして、かねてより応援の声を上げてくださる方は本当に貴重だ。
嫌な声、ネガティヴな意見に負けそうになると、そんな応援の声など耳に入りにくくなる。
これは脳の作用が「ポジティヴな情報よりネガティヴな情報の方が(あくまで生存する上での必要情報として)ランク上方に位置付けるから」だと、ジャレド・ダイアモンド氏の著書で目にしたことがある。

先日のブログでも、アンケート結果に関して話題を取り上げたが、結果に一喜一憂することなく、常日頃から楽しみにされる方のバックには、さらに数百人のファンが控えている、と、これはあくまで私の体験談に過ぎないが、その見えない方々の声援に応えるべく、これからも作品作りを頑張りたい。


その応援する「声を上げて応援してくださる貴重な中の一人」に、私の名前がひょっこり混じっていると、嬉しい。


そんなことを考えながら、先ほど「●月▲日、祝!店舗●周年!」というボードゲームショップを聞きつけ、軽いタッチでフラワーギフトの注文ボタンを押した。






2019年3月23日土曜日

「普通」という評価の読み取り方ーBoardGameSelectionの反省を踏まえてー

今さら、の話かもしれないが、先般開催された「Board Game Selection」の拙著の選評について研究したい。

今回の私がエントリーした作品「Board Game Quiz NEXTAREA」



こちらはボードゲームではなく「書籍」である。
「ボードゲームを題材とした、クイズの本」だ。

私はこの本を「書籍という扱いがエントリーできないならば、そちら(店舗)に全て寄贈致します」という主旨の言葉を添えて主催側に提出した。
関係各位、本当にご迷惑をお掛け致しました。


さて、この会ではエントリーした作品全てに対し、プレイアンケートが届くことになっている。
実際にプレイされた方からの忌憚のない意見があるという、蓋を開けるまで恐怖そのものであったアンケートである。
蓋を開けると、どれもが好意的な意見ばかり。中には大変熱のこもったメッセージも添えられ、創作意欲が俄然湧いてきた。
アンケートやご意見を寄せられた方に深く感謝申し上げます。
次回以降、興味のあるサークル様も是非エントリーされてみてはいかがだろう。


さて、私個人の話。
エントリーした著作について、その評価は「5段階評価の「普通」」が大多数を占めた。


なぜ「普通」という評価が多かったのか。


私の著作は、「ドリル」と称される他のクイズ関連書籍に比べ、自分なりに、ではあるがデザインを工夫し、また、問題文も敢えて「競技クイズ」の書式・定型から外し、比較的「読んで楽しいクイズ」を目指した。

細部こだわりの一端は、当ブログ「番次郎の盤上万歳!!「評価数ゼロのデザイン秘話ー小冊子に隠されたデザインのあれこれー」」を参照してほしい
http://hibikre.blogspot.com/2018/12/blog-post_15.html



しかしながら、それでも多くの方が「普通」と下した、逆を返せば、「大変良い」「大変悪い」といった評価も少なく、「普通」だけに集中して票が集まる結果となった。

それは「可もなく不可もなし」「微妙」「一般的」などと短絡的に捉えてはいけないのではないか。

私の作品は「遊びました」などの報告ツイートを(私自身が)一件も確認できないままプレイ期間を終えた。(もしもツイートされた方がいらっしゃったらごめんなさい)
その時は気落ちもしたが、後日、直接関西各店舗にお邪魔した際「拝読しました」「面白かったです」といった感想を、ご覧になったであろう店員各位やお客様から直接伺うことができた。

社交辞令だったかもしれないが、それはそれとして、「面白かった」という言葉を素直に受けることにした。
ならば「面白かったけれど、普通」
この評価をどう受け止めるべきか。

推察するに、他のクイズはおろかボードゲーム関連書籍がノミネートされなかった以上(当然といえば当然だが)、「比較対象がない、評価のしようがない」、言うなれば「優劣の判別がつけ難い」という意味合いの「普通」といった評価も混じってはいなかっただろうか。

Board Game Seledtionでは、大賞も含めた受賞も用意されていた。
その特性上、何らかの形で「優劣」を決めなければならない。

それら優劣の尺度は個人に委ねられる。
評価基準、すなわち「大賞の選考基準となる尺度」
こればかりは、選考する個人の尺度、すなわち「経験値」「他との差異」に委ねられるより他にない。

私の作品をその視点で眺めると、答えは一目瞭然だ。
「比較する対象」が無い以上、「目の前にある他の作品を「何らかの尺度(ものさし)を用いて基準」とする」より他に評価のしようがない。

どれだけスパイシーで美味しい料理であろうとも、それが「甘い味覚を絶対基準に持つ世界」では、すべての尺度が「甘さ」や「個人的な味覚」といった数値化の難しいものとなり、刺激的、という新たな軸が審査員の評価に値されるまでかなりの苦戦を強いられるだろう。
それは仕方のない話であり、誰それが悪者という話ではない。

別件だが、所変われば品変わる、という言葉もあるように、無言でカードを出すという新機軸が話題となったW.ウォルシュ作「ザ・マインド」も、ドイツ年間ゲーム大賞2018ノミネートまで上がりつつアズールにその座を委ねたが、2019年のフランス年間ゲーム大賞では見事に大賞を獲得している。

<参照 Table Games in the World記事>
https://www.tgiw.info/2019/02/asdor2019.html



ゲームマーケットの新作に限らず「新機軸」「新感覚」を謳う作品・商品は巷でも数多く目にする。
人は新たな刺激を求め、常に「新感覚」「従来にない新たな試み」に挑戦したくなる、実にアグレッシヴな生き物だ。

そんな中、「新感覚ゆえの「評価に値されない」苦しみ」は、目の当たりにされなければわからないだろうか。
もちろんそれらは積極的な広報活動や、宣伝媒体を通じた各種活動等で補備、回避できうるものと考える。


今回の貴重な機会を通じ、目を通してくださった方々に幾ばくかの「物差し」を作ることができたのではないか。
ならば次は、己がその尺度を超える作品を制作すれば良い。

私は次回、ゲームマーケット春に「NEXTAREA R」と称し、リメイク作を制作する。
各種デザイン本を監修されたPOO松本先生からみっちりと指導を受け、必ずや自己の作品を私自身が凌駕するよう、全力をもって作品制作に臨む所存だ。

そして、次は「アナログゲームのなぞなぞ本」だ。




こちらも「アナログゲームをテーマにしたなぞなぞ・謎解き」というテーマで、ゲームマーケット大阪にて頒布し、多くの方に手に取っていただいた。
直接私自身が受けた反応は上々で「脳の普段使わない部分を使っている!」「面白い!」などの意見を伺っている。

こちらも問題作成に苦心しつつ、鋭意制作中だ。進捗は現在まで53/100、だろうか。

新規開拓は難しい。そして、その評価は、やっぱり届きにくい。
面白さが確証されていない作品に、現実問題、人は身銭を切ってはくれない。
現実的な支えも含めた応援、すなわち「私はあなたの声を聞いてますよ」といった生の声が聞こえなければ、いわば壁に向かって一人語りをするようなもので、やはりモチベーションの維持は難しい。

だからこそ、地道に種を蒔き続けるしか、ない。
面白さを知ってもらうことに、貪欲になるよう、努力するしかない。

今は愚直に、コツコツと、不器用な自分には、種を植えることしかできないから。
それは創作に限らず、人との縁や勉強等も含めた多くの面で、あらゆるつながりを持つことに他ならない。


この頑張りが、いつか実を結びますよう。



2019年3月16日土曜日

道は開けた、のかな?ー新刊の決意表明に代えてー

指摘があって気づいたのだが、気がつけばゲームマーケットの遠征から早1週間が経過した。

怒涛のような遠征、相応するかのような時の流れ。

少し時間も経過した頃だろうと思うので、私の新刊の行ったことを反省も含めて紹介したい。

新刊は2冊。
「アナログゲームのなぞなぞブック」
そして、おっとり刀で作成した4コマ漫画
「きょうもボドびより。」

いずれも自分の中で「実験的な本」となった。

前回のクイズ本「NEXTAREA」は、ドリルとも揶揄される既存のクイズ小冊子からの脱却がテーマだった。
クイズを趣味とされる方がいらっしゃるならば、是非その「問題集」をご覧になるといい。
初めての方が読むには少し読みづらい。勉強を前提としているから、当然といえば当然ではあるが。
だから私の次回作は、デザインを一新させ、読みやすく、かつ、知識というよりむしろ「面白い問題」を用意した。
わかる人にはわかるだろうが、一般のクイズ問題集とはその構文がガラリと違う。

しかしながら、それでも私の本は厳しい批判を浴びた。
連日のように届く問題の不備、指摘、さらには「クイズとして使えないものばかり」「こんなのクイズとは言わない!」などのツイートを直接受け、平身低頭の立場で振る舞う私。
頑張りに見合う評価など届くはずもなく。
12月、私の精神状態はすでに限界値に達した。

では、どうする?
上級者も初めての方も、フラットの立場で考えられる、そんな問題が、本当にできないだろうか。

そこで行き着いた先が「なぞなぞ」だった。
なぞなぞならば、子どもでも大人でも楽しめる、むしろ童心を忘れた大人だからこそ、なぞなぞの面白さ、奥深さがより理解できるのではないか。
しかるに「一般のなぞなぞ」の本など、本屋に行けば普通に入手できる。
ならば、私自身がここ数ヶ月で集中的に勉強した「アナログゲーム」かつ「初めての方でも楽しめる視点」を兼ね備えた、いわば「みんなが楽しめる、アナログゲームの、なぞなぞ」
そんな本が、本当にできないだろうか。

言うは易く行うは難し
なぞなぞ作成は実に困難を極め、なんどもなんども挫折した。


そして、4コマだ。
元々は自分のイラストの勉強のために、何気なくツイート上で始めたもの。
「イラストが描ける人なら、漫画だって描けるでしょ?」
半年前の「イラストなど描けなかった頃の」自分が、後になって愚かだったと気づく。
考えたらすぐにわかる話。漫画とイラストは作業が別だ。
素人でも「簡単にできるものではないこと」などすぐにわかりそうなもの。

面倒?できない?
ならば、やろう!

ボードゲームを題材にした漫画はこれまでも多くの作品がツイート上で展開され、その何れもが美麗なキャラクターで展開される。
稚拙なイラストの私など、どうひいき目で見ても見劣りしてしまう。

それでも、逃げたくはなかった。
今の自分にやれること、できることは、どんな批判を浴びようと、頑張ると決めたのだ。

視点を変えることにした。
・4コマで起承転結をまとめること
・紹介マンガではなく、わからない作品でもそれなりに楽しめること
・できうる限り毎日継続すること

少し高めの目標を掲げたが、外見がダメなら中身で勝負するしかない。
漫画は一日1本が限界。一作品(4コマ)を作るために、ネタ出しも含めて制作に2、3時間かかることもザラだ。

目の前に「夢」という名のニンジンをぶら下げ、ひたすら馬車馬のように走る、走る。寝食を忘れ、制作に没頭する私に、SNS上の方々は温かい声で心配してくれた。本当に申し訳ございません。

完成・脱稿。
数週間後、無事に到着。

産みの苦しみ、というが、出来上がった本を前に私はしばし言葉を失った。
とめどなく溢れる涙。
誹謗中傷の声など、今回に限ってはどうだっていい。
ものの数ヶ月前、私自身が「この世に出ること自体が奇跡」と実感した2冊が、現実として目の前に包まれているのだ。



「不可能が可能に」
名前はかっこいいだろうが、そのための努力量は計り知れない。
なにせ、道無き道を、不安を抱えながら進むのだ。
恐怖、不安、挫折、。。。多くの障害と格闘し、抜けた先のトンネルもまた山あり、谷ありが待っている。

需要と供給で世界は成り立つ、だから「意味のない本を作るなど、時間の浪費だ」
そんな言葉もあるだろう。
しかしながら、それも新規開拓する人間なら、幾度となく背に受けるセリフだ。
世界中を見渡しても、ボードゲームのクイズならまだしも「なぞなぞ」という「ニッチにニッチを二乗させた本」を作るなど、正気の沙汰ではない。
事実、買い手としても想像できる代物ではなかったらしく、前評判どころか「楽しみです♪」といった類のツイートすら見かけることはなかった。

ゲームマーケット当日。
売れ行きはざっと全体の2/3。
裏を返せば、行き届いて欲しい方には、全員行き届いた、ということ。在庫だとは考えていない。どんな形であれ、私の産んだ大切な我が子なのだ。

そして、もう2ヶ月もすれば、すぐにゲームマーケット春がやってくる。

今回の新刊は、実に3冊を予定している。




リメイク・続編とはいえ、3冊のリリースなど、かなりの強行スケジュールとなるだろう。

有言実行、辛いのは覚悟の上。
やるだけやります。
体力の続く限り、全力で頑張りますとも。

しばらくまた苦痛に満ちたツイートが続くかと思いますが、お許しください。



2019年3月14日木曜日

会話の楽しさと時間とを ー関西遠征記 三日目ー

関西遠征記 

初日「笑顔と涙の前日イベント」http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_12.html

二日目「出る杭は打たれ、伸びる」http://hibikre.blogspot.com/2019/03/blog-post_13.html


三日目、3月11日

ゲームマーケットから一夜が明け、空は幾分青空が見える。
アルコールに縁のない生活の私、久しぶりのお酒で数年ぶりの二日酔い。
今回の遠征で三度もラムネ菓子のお世話となる。


今日は先に開催されたBoard Game Selectionでお世話になったカフェ様に、時間の限りご挨拶に伺う予定を組んだ。

朝食をそこそこに、まずは昭和町の「デザート*スプーン」様へと向かう。
月曜は定休日だが、ゲームマーケット後ということで臨時に開業しているとのこと。


住宅街にたたずむ「デザート*スプーン」様。
敷居をまたぐと、国内外を問わず多くの人気作品が所狭しと並ぶ。
店長の加藤さんはクイズ会やごいた会、囲碁会など、各種のイベントにも積極的だ。

「結局はやりとり、なんですよね。ボードゲームもクイズも」

二人で話す中、飛び交う言葉に混じる「コミュニケーション」という言葉は、土曜から続く私の関西遠征で何度も登場したフレーズだ。

批判を覚悟の上で話すと、私はクイズが好きではあれど、いわゆる「競技クイズ」と呼ばれる世界からは一線を引いている。
私の中のクイズは「知識比べ」だ。
「私はこんなことも知っています!」など、これまで脳にインプットされた知識の引き出しを競う、それがクイズだと考えている。

前回秋に頒布した拙著「Board Game Quiz NEXTAREA」
競技クイズをなさるであろう方々から頒布するたびに「パラレルだ!(訳:問題の構文がおかしいため文章が推測できない、解答に疑義がある等、出題するに際し何らかの欠陥がある問題を意味するらしい)」と批判を浴びた。

私の考えは競技クイズを嗜む方々とは若干異なる。
クイズがスポーツではなくコミュニケーションである以上、どんな問題であろうとも「出題側の自由」である。
言うなれば、会話のやりとりの延長に過ぎない。

「スポーツではなくコミュニケーション」とは?
前々日の「ボードゲームシンポジウム」の際、草場純先生がスポーツと遊びの違いを明確に語った。

「スポーツは勝敗があり、ルールも厳格に定められている。遊びは、楽しむもの」

自分なりに解釈すると、格闘技の世界では相手に対する攻撃は認められているが、それは定められた範疇において、時間、場所等を厳格にすることで成り立っている。
だから、ビール瓶などの凶器を持ち込む行為は基本的に厳禁だ。
しかしながら、街で暴漢にあったとき「凶器は反則だ!」と犯人側に要求できるだろうか。


加藤さんと対話するうちに、私は改めて認識した。

ボードゲーム製作も、クイズの世界も、プレイする環境の中において、何人もの「人」が介在し、人間同士のコミニケーションがあるからこそ、円滑に成り立つ世界なのだと。

だから互いが相手を尊重してあげなければならない。
我も我も、とワガママばかりを主張していてはどこかにしがらみが生じてしまう。
誰かが誰かに我慢を強いられる、そうした関係はどこかに歪みやねじれのようなものが生じてしまう。
そういった関係が長く続くとは思えない。

一期一会の人生とはいえ、もっと人間関係は、気楽に、楽しく、お互いを尊重しながら、共存していかなければ続くものではない。

「ナンバーワンよりオンリーワン」が声高に叫ばれ、自己顕示欲と呼ばれる自分たちが「偉い」と主張し合う、俗な言葉では「マウント取り合戦」に発展してしまってはならないのだ。

ゲームマーケットの中には「お客様の世界が存在しない」と言われる。
全てが顧客であり、すべての顧客がフラットな立場であるからこそ成り立つ世界である、と。

製作者も同じ
「制作側の苦労や意見ばかりを通してばかりで「仕方ないだろ!」とプレイされる相手に我慢を無理強いさせるようでは、現状はどうあれ、その後のスタイルが成り立っていかないことだろうと加藤さんとの対話で結論づけた。

もっと気楽に楽しく共生できる世界を考えなければ
もちろんそれらに無理が生じてしまうようでは何の意味もなさない。

制作側として、制作に没頭するではなく、関わる全ての方々により居心地の良い環境とは何か。
制作する立場として、お互いが幸せへと進む展望を考えなくては。


お互いに話し込むうちに時間となり、予定を大幅に上回りデザートスプーンを後にする。
雨はいよいよ強くなったがそのまま傘を刺すことなく次の駅へと向かう。
目的地はINST様。
こちらはボードゲームセレクションの主催でもある店長のてっちさんにご挨拶するためだ。

到着
中のお客さんらと私の手持ちのゲームを広げる。
おさかなこいし、トランプ、センコウハナビシ、などをプレイしながら、ボードゲームは「質」よりむしろ、その時々での会話や表情、ノンバーバルなコミュニケーションがあってこそ濃密な時間を過ごせるものと実感した。

周りがムッとしていてはゲームの面白さもわからない上に、相手のコミニケーションのやり方すら見失ってしまう。
昨今流行の兆しを見せる会話禁止型のゲーム(例えばザ・マインド、マジックメイズなど)でも、会話が禁止された後には、その後の開放感が生まれ、解放後には周囲に笑みが溢れる。
先日「謎解きは形容詞の後で事件簿」の作品を手がけた万屋楽団のサンジョウバ様ともお話した際も、やはりプレイ後の感想戦が楽しいゲームとなるよう制作に気をつけたと伺う。

会話は楽しい。
ときにそれは、多額のお金を払う飲み会でも、SNS等に長い時間を消費してでも、求める軸は「会話の楽しさ」に根付く。


INST様を出て、乗り慣れない鉄道に悪戦苦闘しながら、今回の遠征でどうしてもお邪魔したかった兵庫県加古川のボードゲームプレイスペース「駒の時間(とき)」様へと向かう。

駅を降り、歩いて20分ぐらいだろうか。細い路地を曲がった先に見える建物。
無事に到着。

入るなり家庭的な雰囲気のお二人が迎える。
名物のトキさん、コマさん。
お二方ともゲームマーケット後のお疲れである最中も、常に笑顔を絶やさない。

店内には細やかで色鮮やかなフィギュアやペイントの道具が並び、ボードゲームが好きだということが歴の浅い私にも肌身で伝わる。

暖かい二人。
ゆるく流れる御二人の温かみの中、つい私は気持ちを許し、辛かったこれまでの心情を吐露してしまった。

お聞き苦しい身の上話にもかかわらず、笑顔でそれを聞いてくださったお二人。
家庭的で人情味のある「関西らしい」雰囲気に、つい甘えてしまい話し込んでしまう。

お店を運営する長い幾数年の中、笑いもあれば、涙もあったことだろう。
長い年月の中、わずか3年という私のボードゲーム暦の中では想像できないほど、数多くの世界を目の当たりにし、綴られてきたのだ。
この人生の、この「駒の時間」の中で、多くの人と、ボードゲームと共に歩んできた、重みのある空間。
お二人の顔には彫りの深い笑みがこぼれていた。

コマさんの携帯が鳴る。
私のことを聞きつけた「めとろ」氏が急遽駆けつけるというではないか。
この暖かさ、情熱も、関西と言う土壌が産み出したものだろうか。つくづく頭が上がらない。

「好きな人と、好きな時間を共に過ごす」
それは当たり前のようで、実に贅沢なことなのだ。

アラフォーと呼ばれる歳になり、年齢の大切さ、健康の重要性をひしひしと感じるようになった。
それらも相まって、歳を重ねるにつれ「好きな人と過ごせる時間」が、大枚をはたいてでも価値のあるものに思えるようになったのだ。
今回の遠征で学んだ「合わない(相性が悪い)相手」は、無言で、自然と人が去る。
ボードゲームは一人で遊ぶものではない。先に挙げた、楽しい会話や、相手とのやりとりがあってこそ、面白さが増すツールだ。
まして初めての相手であろうとも、作品次第では、個人が取り持つプライベートスペースのかなり奥まった部分まで立ち入ることもあるだろう。
「また一緒に遊びたいと思える相手」
カタンの作者、クラウス・トイバーの言葉が、深く心をえぐる。



帰りの新幹線に揺られながら、旅の中のわびしさ、そして「また会える」は「いつでも会えるとは限らない」の裏返しである、と、そんな焦燥感すら感じさせてくれた。

また来ます、いつか必ず来ます
言葉にならない気持ちを、窓ガラス越しに投げかける。

悲しい気持ちを抑えるべく、私は駅弁を2つほど買い込み、飲み込むようにお腹に詰め込んだ。
満腹感が寂しさ、悲しさを少しでも紛らわしてくれることを願い、お茶を口にし、しばし目を閉じた。


嵐のような関西の三日間が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。
嬉しさ、楽しさ、そして、哀しさ、辛さ、
それらをスタンドのミックスジュースのごとく綯い交ぜにし、新幹線はものの2時間と立たずに私を元の自宅へと運んだ。

また新たな生活が始まる。

孤独な一日、ひとりの作業。
その後ろには、何十人、何百人、いや、陰で見えない何万人、何百万人もの後ろ盾があることも、今回の遠征で学んだ収穫の一つだ。

人が人を支え、そして、支えられて、今がある。

そんな人生哲学を教えてくれた関西の方々に、心から感謝致します。


「ボードゲームはコミニケーション」
ともすればさらりと流される言葉の中に、どれほど多くの意味合いが含まれているだろうか。
今回お会いした方々の屈託のない笑顔を思い浮かべ、私はやはり「いい人と良い時間を過ごすことができるならば、それがボードゲームが内包する素晴らしさのひとつかな」と、ぼんやりした頭で考えた。


風邪をひくことのないよう、厚めの毛布を頭からかぶりながら。

(了)

ありがとうございました

下手な鉄砲

 数を出す、とにかく初回から外に出す、とは徒然草の一節だっただろうか。 技が上達する人はとにかく描いたら世に出すこと、上達しない人は完成してから出そうとしいつまでも出さない、といった文言だったはずだ。 以前、兼ねてから応援していた創作者から「完成形しか見たくない」との言葉を頂戴し...