2022年3月16日水曜日

底辺に生きながら

努力する姿はなぜ笑われるのであろうか。


最近、芸能人然り、配信者然り、Vtuber然り、経営者然り、才能をもてはやされたと思しき人間の不祥事が多いように感じる。

女性関係で、賭け事で、失言で、昨今特にそのカストリの如きスキャンダルには事欠かない。顛末は決まって弁護士か誰かが代筆したと思しき書面をツイートに画面で表示しフェードアウトすることとなる。


生まれ持っての美貌や才能を持ち合わせた人物は、お昼のツイキャスライブでも「才能があるっていいよね。才能のある人に憧れる」と羨む対象となっていた。その後は英語がしゃべりたい、ダイエットしたい、などの話に帰結した。


私は生まれながらに親から上司から才能がないことを見抜かれて今に至る、才能とは無縁の努力型の人間だ。努力型といっても努力する人の意味ではなく、あくまで才能がないから、という消極的な理由だ。顔もスタイルも勉強も、元々持ち合わせた能力など皆無に等しい。

だから努力して自分のやりたいことを切り開くしかなかった。道に迷い途方に暮れたとき、えてして才能型のアドバイスなど当てにはならなかった。「何とかなる」「楽しんでのんびりやる」そんな言葉を並べられたところで、それで上手く軌道に乗せた才能型とは違い、私にその方法など通じるはずもなかった。

逆も然りで、努力してつかんだ自分なりの方法を才能型はひたすら「できない!」と匙を投げた。

それが続くとどうなるか。

努力の方向性に齟齬が生じる。

金持ちが口先だけで綴る「お手軽倹約術」と、本当にお金のない人間が節約する術とでは、その身の入り用から姿勢、成果となる実際の額まで大きな差が生じる。

そう考えると、実は才能という名前の足枷をかけているに過ぎないのではないか。今日はそんなことをぼんやりと考えた。

スマートに物事をこなす才能型人間とは対照的に、努力型は得てして悪いイメージを持つ。

幼い頃、興味本位で受け取った「記憶術」のパンフレットにも、楽して効率を目指した人間は笑顔で勉強もスポーツもこなし、かたや必死で勉強する人間(ライバル)は本番で失敗したり僅差で点差が伸びなかったりと、悪いイメージで描かれることが多い。

メディアともなると更に助長される。努力もせずにスターダムにのしあがったと肩書きをつけ、努力で成し得た人物を神格化する。それは以前「クイズ思考の解体」で伊沢氏が綴っていた。

遊びながら作業するからいい作品が生まれる、その理由もわかる。だからと言って、努力する人間を笑っていい理由にはならない。

努力して一歩一歩コツを掴むより上に上がる方法はないのではないか。それを体得している自分だからこそ、才能や美貌は、いわば生まれ持っての金持ちのようなもので、そこに至る過程がすっぽり抜けている。

更には、そんな自分を「魔法使い」のように何でもこなす人間として、作品を品定めしているのではないか。


そんな人間になりたくはないし、才能は才能として努力を重ねる人間でありたい、と、底辺に生きる自分は思う。

菜根譚に気持ちをしたためた人物も同じ気持ちを抱いたのだろうか。

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