2022年4月22日金曜日

見えない箇所の評価

 高校時代、古文の勉強を当初甘く見ていた。

「同じ日本語だから、何とかなるでしょ」といった具合だ。後になって気がついたが、古文の問題の多くは単語を読み取らせることが出題の主で、それは大抵「現在の日本語をイメージすると誤答の選択肢を選ぶ」といった引っかけ問題の嵐だった。

「いとほし」を問う問題に「恋焦がれる」が入っているような感じだ。出題側は知識の無い解答者に「いとほし→愛おしい?」と誘導する感じだ。(正解は「気の毒だ」「かわいらしい」)


ゲームマーケット直前となり、出展各サークルの広報ツイートを目にするようになった。

デザイン担当、制作担当、など役割を分けるサークルは、どうしてもデザイン担当者の作成したツイートをコピペで使い回すようにも見える。本来ならTwitterの画面やお品書き用紙(A4版が主流)に即したレイアウトを組み立てるべきではあるが、先の「イラストなら同じでしょ」と甘く見ると、その抜けどころを見誤ってしまう。これはもちろんデザインセンスの皆無だった以前の自分がそうだったからだ。

孤高の番次郎書店は一人で何役もこなすことで製作費全体を浮かしている。デザインにイラストに、と、外部に発注しようものなら楽はできようともお金がいくらあっても足りない。

だからイラストもデザインも、一人で勉強し、一人で頑張るしかないのだ。

その上、見た目でその技量が伝わるイラストとは違い、デザイン、レイアウトに関しては見る側も「なぜかよくわからないけれど見やすい」といった、快適の原因が伝わりにくい点が上がる。

漫画もその通り、単に派手な色をつけたら目立つ、という訳にはいかない。


私は結局ゲームマーケット前日のこの日も、レイアウトの作業に明け暮れた。

目立たず、評価されず、それは20もいいねがつかなかった日々の4コマにもいえる。

決して周りから評価されることも応援されることもなく、黙って勉強し、見えない箇所の腕を上げる。

自分を騙し騙し、いつかは報われると信じて、モチベーションを維持する。


頑張りがいつか報われますよう。

2022年4月21日木曜日

自分のキャスを聞く

15分だけ思いの丈をしゃべるだけの ツイキャスライブが、すでに600話近く溜まった。

学生時代、そして社会人時代、偉い人がどれほどカッコ良い言葉を話そうと聞く時間は5分が限界だった。その反省を活かし、余計なことをなるべく喋らないよう、そして努めて明るく昇華しよう、と、それでも悲しい気分のときは自虐も重なるわけではあるが、継続できるようになった。

好きなことから、見えない相手に伝えたいこと、それを意識すると、自分の中の考えが整理される。好きなことを言葉で紡ぐうちに、自分の伝えたいことがだんだんと見えてくる。その過程に15分という縛りを設けなければ延々と思考の迷路にハマってしまうのだ。


ダラダラしゃべるだけのツイキャスライブやTwitterでのスペースは極力聞かない。それは聴く側に立った時の「まとまりは各人の脳内で」に集約される感覚が苦手だからだ。

相手と対面で会話しながら、気持ちを読んだり相槌を打ったり、とは違う、何か我慢のような、読みづらい場の空気を読む必要があるからだ。


それらを踏まえ、自分のキャスは自分で聞いて自分でも楽しめるように配慮されている。配信者の中には自分の声を極力嫌う人もいると聞くが、画面の向こうに自分の声を発する別の誰かがいる感覚はとても不思議で、トークに魅了されてもそれが自分自身という感覚が今ひとつシンクロしない。


だから、言葉遣いの荒い話し手や、横柄な態度のMCがどうしても聞くに堪えず、どれだけ有用な情報だったとしても、言葉を通した人間性のようなものが透けて見えるからか、即座に通知を切ってしまう。


言葉の一つとっても栄養であり、勉強である。

相手に伝えることを意識しなければ、言葉の紡ぐ川などすぐによどんでしまう。

今は比較的穏やかな心持ちだから、気持ちの面でも割とスッと整えられるのだろう。


こんな日は作業が捗るもの。夜からの集中力は計り知れなかった。

ゲームマーケットまで残すは1日、参加の是非は不明だが、自分も参加の立場に立ったつもりで明日も普通通り頑張ろうと思う。

努力は姿となって見えるはずである。


2022年4月20日水曜日

仕返ししない

昨日久しぶりに対面で会話したときの「(作品を)応援しています」の社交辞令が本当に胸をえぐられる思いがした。
普段何の言葉もかけてはいないでしょ、苦しみ溢れるツイートにねぎらいの言葉もないでしょ、と、ひねた気持ちしか生まれず、今日もまた余計なツイートが溢れた。
作業に没頭していない証拠であり、また、精神面も含めた体の不調のサインとも取れる。食費を浮かすために食事も控えているからか、頭がぼーっとしてアイデアも生まれてこない。

それでも作業のノルマは減るはずもなく、配送を終えた今の時期の制作サークルが「暇だー」とこぼすツイートを横目に、出展もしない自分がなぜこうまで苦しむのか、そればかりを考える1日だった。

苦しい最中、それでもどう気持ちを乗り越えたか、それは「苦しみたくない」立場の人間が興味本位で聞いてくるが、私自身も毎度苦しさを逃れるために必死でもがくうちになんとなく体が浮上してくることしか意識がないため、今を精一杯生きろとしかアドバイスができない。

体の疲労はピークに達し、昨日は「恒例行事だね」とバカにもされた。

苦しさに加え、悔しさと悲しさもまじり、今日の昼は泣きながらランニングを飛ばしたことを思い出した。

馬鹿にする人間に、何度となく言い返そうとした。その度に「悪いことをしても仕返ししない」という、山田ズーニーさんの言葉を思い返した。
「悪いことをされても、仕返ししない。これは注意ではなく、法則。悪いことをする人間は、必ずどこかで悪いことが帰って来るはずである。こちらから仕返しをするのは、やりすぎだ」
そんな言葉だった。

今の苦しみが果たして正しいのか、嘲笑い、社交辞令で返す相手の目線が正しいのか
それはもう天に任せるしか術がない。

今夜もツイート上のスペースは賑わいを見せている。
そんな中、孤独に一人眠る。
悔しさ悲しさを夢に混ぜ込むように、ひたすら眠ることにする。

2022年4月19日火曜日

型破りの中で

 ノスモスさんの個展に行ってきた。

昨年、一昨年と足を運んだ上で、さらに作品は進化を遂げていた。鮮やかな色をつけ、手に取りやすい作品から芸術的な作品に至るまで、幅広い作品が所狭しと並んでいた。

ノスモスさんが話してくれただろうか、着色は作品として冒険的なものだという話だ。

元々、木の焦がし方の濃淡で作品を表現するウッドバーニングの技法では、作品全体が奏でる「木の温もり」「作品の温かみ」が滲み出ていた。

そこから人工的に(色鉛筆の素材ではなく、ウッドバーニングが生み出せない色合い、という意味)着色する作業は、いわば歌舞伎の世界でいう「型破り」にあたる。

周りがギョッとする、そんな周りの声に抗うが如く、美しくしなやかな作品を創作された、それが今年の展示展で一番印象に残っていた。

コバルト色の小物ケースは、インディゴを思い浮かべるほどの鮮やかな色合いだ。それは木片を焦がす濃淡だけでは決して表現できない、まさに熟知された人間のなせる技だ。


そう考えると、周りの「できない」「無理だ」という言葉の薄さ、そしてそれを跳ね返す強靭な精神力、それをも超える自己の忍耐力、そんなことをぼんやりと感じた。


クイズに4コマに、私も周りの「無謀だ」「無茶だ」の声を一身に受け、それでも根気強く今も創作の手を緩めてはいない。

その中の一人が楽しんでもらえるならば、残りの資材を投げ打ってでも頑張ろうと願うのだ。


もうすぐ年は44となり、睨みを効かせた坊主頭はますます形相が悪くなる。

それでも、残り少ない人生の中、これほどまでに打ち込めるものが手にできただけでもありがたいではないか。周りの同世代は、なかなかそううまく行ってはいない。


相手との勝ち負けではなく、自分と真摯に向き合うだけの勝負を、また明日からも頑張ろうと思う。

今日は4コマも無事に300回を迎えたのだ。

2022年4月18日月曜日

3週間目

 日記やブログをつけてはやめ、と、何年か周期のタイミングでつけたりやめたりしている。20年前に苦しんだ時期の日記は今読み返しても恥ずかしいくらい支離滅裂な殴り書きが綴られてはいるが、大切な宝物として本棚に眠っている。

4コマもそう。勢い半分で「画力よりアイデア重視」を勝手に意味付け、飽きもせずほぼ毎日更新を続け、もうすぐ1000話、年内の300話ももうすぐとなる。

ペンを握る生活も長くなり、文字を書く生活以上に時間を圧迫するようになった。預金通帳を眺めてはいつ途絶えるかの不安に怯え、それでも手を動かしながら、目の前の今に全力を傾注する、そんな自転車操業の生活だ。


先日の神保町リブレストさんは、すぐに有名フォロワーが店長として勤めることとなった。

見ている人は見ているのか、と、遠目に眺めながら、そして自分もそうありたいと願いながら、半ば希望のような形でまたクイズ制作を続けることにした。

昨年末からコツコツと作り続けたボードゲームの問題も100問を超えた。

同じボードゲームの説明書を繰り返し読む作業は苦痛以外の何者でもない。

そこからさらに別の観点を見出せるか否か、長くボードゲームの問題制作を続けた自分との戦いに入った。

ほぼ暗記できるまで読んだウボンゴ、ボブジテン、ラブレター、ブロックス、UNOなど有名ボードゲームの説明書だ。まだどこかに眠っているはずと信じて、ゲーム本編そっちのけでひたすら説明書を読み耽る。

そんな姿も、誰か見知らぬ誰かに見られているのだろうか。


イラストもクイズも実力不足を否めない

雨が降り、気持ちも低下する中、それでも前に進む原動力だけは空にしない様、これからもまた頑張ろう。

日記は当初の目標となる3週間連続更新を遂げた。ここからさらに習慣化し、自分の体の血肉にしたいと願う。

2022年4月17日日曜日

体の声に

 夢は言葉に出すもの、と言われている。

それは言葉に出して周りに聞いてもらうことで、周りの目を気にし、自ずと体が動くようになるから、と聞いたことがある。

決意表明、のようなものだろうか。


先日から、「ボードゲームカフェでボードゲーム限定クイズ会」の夢を動かし始めた。

お世話になるコロコロ堂に出向き、ゲーム会がしたい旨を店長に伝えた。

どうなるかはわからないが、そのための問題も作り始めた。


帝国の本を作り始めた。

挿絵を描き、もうあとワンアクセントで完成という領域に達している。


自分の場合、どうやら言葉にすることで、自分自身に言い訳をつけないよう動くようだ。

チラシもそうだし、4コマもそうだ。

宣言するまでもなく、体がどこかで「聞いて」いるのだろう。

その声の指示に従い、時に無理をしながら、それでも体の声に忠実に動いている。


楽しい、楽しくない、そんな考え方の先にある「体が動く感覚」こそ、楽しみの根源ではないかと考えた。

先ほどのキャスで、リスナーに「30過ぎてから本当に楽しみが仕事しか無くなった」と嘆く人間を数多く見てきた、と話した。

その人間の娯楽が「部下をいじること」だったので、よく覚えている。

対人の交わりが、他人を貶すことでしか無くなったような年上などごまんとツイート上にいる。

自分の手を動かしながら、創作に楽しみが見出せる自分は幸せなのかもしれない。

もっと体の声に忠実にならなくては。

そんなことを、クイズ予選の最中に考えた。

2022年4月16日土曜日

瓜田の瓜

 自虐的な話となるが、占いによると、運気が低迷している時間は行動を起こさずひたすらうちにこもって勉強などを行う期間とあった。

運気が開けたときに、外へ出て、その幸運を享受するのだとか。

その辺りを勘違いしており、運気低迷時期は何をやっても無駄だからなるべく行動を最小限に抑え、また、運気が好調の時は何をやってもうまくいくため、創作物もかなり捗る、的な解釈をしていた。迂闊であった。

4コマを始めたのはちょうど運気低迷中の、数え年で大厄となる時期(数え年で42歳)だった。そこからひたすら描き進めた漫画が、もうすぐ300話を迎える。


周りの人気4コマ作家はきょうもたくさんの反応を見せていた。私は私で、20もいいねがつかず、相変わらずのほほんと更新を進めていた。仕方のない話だが、これも実力なのである。


側から見るに、私と同時期にツイート漫画を賑わせた他の漫画家をあたってみると、筆を置いたり、漫画からは離れたり、そんな作者が目立つ。

そんな中、飽きることなく数だけをこなす自分は、もう周りから称賛の目を浴びることもないだろう。

新聞掲載の4コマを誰も称賛しない、あの現象に似ている。

これも自分の選んだ道だと言い聞かせながら、いつ手を引くべきかを考え、そしてまた連載を続けることにしている。


糸井重里さんだったかと思う。「人間は新しいものが好き」「古いものに「あれは古いね」というようならば、その人の価値観が終わってしまう」という言葉だ。

私は周りの漫画の比較対象となる、いわば学校生活でいじめや無視を決め込まれた存在に近い。

そんなあまり周りから目も向けられない中、次へ次へと筆をすすめることにする。

菜根譚の瓜のエピソードを引用して、自分を励ますことにする。

瓜田の瓜は、毎日眺めてもその成長がわからない、ある日ふと足元に目をやった時、その瓜の大きさに気がつくものである。



2022年4月15日金曜日

いつかの勉強

サークル「番次郎」から続く現在の「番次郎書店」に至るまで、一貫して「上位互換ができたら手を引こう」と考えている。

立ち上げ当時からクイズノック、カプリティオ、など本格派クイズをエンターテイメントとして提供する大手企業・サークルはかなり多かった。

そんな中、ボードゲームのクイズだけで優に何千門単位となり、書籍として発表した数だけでも3000問を超えるだけの「ボードゲームに特化したクイズ」だけを作り続けた私だ。今もって後釜どころか追随する相手もいない。

嬉しいとか驕ったとか、その真逆で、悲しいのである。

たしかに一時期本当に手が止まったことがある。今もまだスムーズな問題制作などできない。そんな中、周りを見てボードゲームのクイズを検索しようにも、思うような制作者が見つからない。

海外を見ても未だ根強いモノポリーにバックギャモンの問題、国内動画製作者も、少し問題を作っては、止まる、といった状況だ。

思うに、ボードゲームに特化した形の問題が制作しづらく、数多ある動画企画の中で、とにかく良質な問題をたくさん制作しなければならない制作者にとって、余計な時間を取る「クイズの企画」は、すぐに立ち消えとなるのだろう。

とはいえ、依頼されることもないので、その辺りに楽しさを見出すことより、他の楽しいことへと目を向けられたのだと考える。


自分は、もちろん淡々と答える早押し型のボードゲームクイズも好きだが、問題に答える行為そのものが好きなので、画像を駆使したり、音声やひらめき、などなど、あらゆる材料をクイズへと昇華できるよう創意工夫している。

初めの話に戻り、そのうち自分一人で悪戦苦闘するクイズ制作も、企業が蹂躙すればすぐに消えてしまうだろう。

それまでに、勉強、そして、世界唯一を自称できるまでクイズを作り続けようと思う。

大手がやってきたとき、初めて「解答側」へと回る。それまではひたすら勉強あるのみ。

2022年4月14日木曜日

広報のすがた

 感染症開けやらぬゲームマーケット2022春、当番次郎書店は開催費の高騰から出展を見送ったわけだが、出展作品は一通りチェックしているつもりだ。「オススメ教えて」でツリーをぶら下げると、どうもそちらの作品に引っ張られる感じがして、無碍に断ることのできない自分はどうも苦手なのだ。


その大切な広報を眺めているうちに、なんとなく経験者との「差」があるように感じる。

初参加を含む「どう広報して良いかわからないサークル」は、ひたすらSNS中心の広報をおこなっているように感じる。カードの説明やルール動画、先の「オススメ教えてツイート」や「ユーチューバーVtuberがオススメを紹介します動画」など、そしてゲームマーケット公式のブログもそれに併せて更新するような感じだ。

何度も出展を経験するサークルは、Twitterでの広報のほか、ボドゲーマへの予約登録やゲーム説明、そして直接対面でルールを伝えられる各種試遊会などを活用しているように見える。

昨夜人伝で聞いた「チラシの直接手渡しは厳禁」などに対しても、柔軟に「次はこうしよう」が生まれているように見える。


経験との差は、そんな体感で覚えた「次の手」がどう打てるのか、なのかとぼんやり見ている。


以前「広報してもらえるか否かは、恋人を待つ姿に似ている」と考えたことがある。

内面や外面などひたすら自分を磨くことで相手に見てもらおうとする姿、あるいは、手当たり次第に多くの人間に声をかけ、自分をきっちり見てもらうよう頼む姿、をそう捉えたのだろう。

何が正しいのか、そして、自分に何ができるのか。今もまだつかめない。

ただ、その先に「信頼」があることが大切なのでは、と、ぼんやり考えた。

自分もその「期待を裏切らない信頼感」を醸成するために、以降も頑張ろうと誓う。

2022年4月13日水曜日

気楽に、気楽に

 お昼に髪を切り、こたつ布団を干した。天気はまた下り坂と聞き、今のうちにできるところから片付けようと思い立ったのだ。

髪も薄いので2ミリの坊主頭だ。何を着ても似合わない。鏡の前ではオッサンの坊主頭が映る。色気付いてはろくに創作もできないと思い、自ら薄気味の悪い姿へと変貌する、それは二十代の頃の仕事によく似ていた。

少しずつ作業を進め、進んだか進んでいないかの業務をこなす。ボードゲームのクイズを作り、また楽しめるよう雑事をこなす。

朝のツイキャスライブで、中野さんの「店を畳んだら、また好きなように生きるさ」といった言葉が胸をえぐり、自分も心配事はそれくらい気楽な気持ちで望めたらと誓うことにした。


周りの有名サークルはこの春も数多くの作品に名前を馳せている。日本クリエイターの看板を背負ってか、末広がりのように各所へ名前が飛び火する。

そんな中の自分は、立ち返ると、惨めにも思える。

それも、今できることがこなされていないからではないか、できあがった形で、評価のフィールドへと上がるべきではないか、

目の前に積まれた製作中のチラシを横目に、また重い体を上げた。これを書いたら、またポスターの手直しをしなくては。

2022年4月12日火曜日

愚痴を吐く居場所

 たくさんフォロワーが欲しい、と、Twitterを使った初期にはそんな気持ちに苛まれるものだ。

でも、その集まったフォロワーで、何をしたい?

作品を多くの人の目に見てもらう、応援するツイートをさらに多くの人に見てもらえるよう応援する。なら理解もできる。

フォロワーが多い後ろ盾を、好き放題持論を並べ、同調意見を募ることに向けてはいないか?

幼い頃からテレビに向かってぶつぶつ喋る大人が苦手だった。いざ自分が大人になったときにその気持ちを理解できた。そしてそれを意識しなければ、自分も同じ過ちを繰り返しそうだったと気がついた。

テレビの前で意見に異を唱えたい時、思わず同調したくなる時、画面の前にあたかも「存在しない誰か」がいる世界に入ってしまう。

「存在しない」ので、こちらの声は届かない。けれど、相手の笑いや悲しみを一緒になって楽しむ「誰か」が存在する。

ぶつぶつ口に出るのも、その届かない誰かに自分の気持ちを伝えたくなる気持ちに似ているのではないか。

不思議と読書ではこれが起こりにくい。目の前の活字にありありと人を思い浮かべるためには、それ相応の想像力を必要とするからだろうか、詳細はよくわからない。

話を戻すと、せっかく多くのフォロワーができたのに、自分の勝手な愚痴を吐き、世間に対する気持ちを次々に綴る、ボードゲーム関連のそんなツイートを見かけるようになった。

おーい!君の制作はそこにはないぞー!

作品を楽しみにされるフォロワーのためにも、ちゃんと自分の「居場所」について考えようや。

下手な鉄砲

 数を出す、とにかく初回から外に出す、とは徒然草の一節だっただろうか。 技が上達する人はとにかく描いたら世に出すこと、上達しない人は完成してから出そうとしいつまでも出さない、といった文言だったはずだ。 以前、兼ねてから応援していた創作者から「完成形しか見たくない」との言葉を頂戴し...